平凡

平凡

3月どうでしょう

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今年もはや、4分の1が終ろうとしている。つらつらと最近のことを書いてみる。

 

2~3月の総括的な感想は、ハイプレッシャーな仕事が多かったこともあり、あまり自分のことができなかったなーといったところ。

 

1月末、『トロピカル〜ジュ!プリキュア』最終回を前に、こんな記事を書いた。

「プリキュア」が終わる、年が替わる - 平凡

《果たして今年は、次シリーズ「デリシャスパーティ♡プリキュア」にうまくランディングできるのだろうか。》なんて書いたものの、今年はいつになくスムーズに着地。その結果がこのエントリー。

『デパプリ』と『根津さんの恩返し』に見る、コミュ障あるある - 平凡

現在、『プリキュア』シリーズは東映不正アクセス問題で休止中。再開を待っている。

 

3月頭。新型コロナワクチンの3回目を打った。引っ越したため接種券を取り寄せる手間はあったが、請求から1週間と経たずに手もとに届いた。

わたしはファイザーファイザー・モデルナ。その後接種した夫は、3回ともモデルナ。

わたしの副反応は、発熱が最高38度台前半。インフルエンザ罹患時のように悪寒が止まらない症状も1~2時間あったけれど、ファイザーよりしんどいということもなかった。

夫は1、2回目より3回目の副反応がキツかったそうで、熱もなかなか下がらなかった。接種箇所周辺が一時的にあざのようになる“モデルナアーム”は出ず(わたしも出なかった)。

それにしても、コロナワクチン接種会場は非常にシステマチック。これほどまでに、自分がベルトコンベアに乗っている感覚になれる体験、現代日本にはそうそうない。新鮮。とくに、いま住んでいる自治体は集団接種の会場規模が大きかったため、強く感じた。このことを夫に力説するも、あまり伝わらなかった。

ワクチン接種前に書いた記事はこちら。重め。

わたしがワクチン3回目接種を決めた理由。その長い長い説明 - 平凡

 

ブログの更新頻度を高め、同時に購読するブログも増えたのが昨年11~12月。3ヶ月経つと、更新頻度が変わる方も。お見かけしない方も、皆さんお元気だといいなと思う。

遠大な軌跡を描く惑星が、ほんの一瞬、接近するように - 平凡

 

そんなことを書きつつ、3月頭はわたし自身は「お見かけしない」状態になっており、ブログを書けない、読めない日がつづいていた。仕事の都合と……ロシアのウクライナ侵攻の心理的影響もあるのだと思う。

が、やっぱり無理にでも時間を作ってなんか書いていないと落ち着かないというか、あんまりよくない。

ブログ他いろいろ書くようにしたこと、最近になってリングフィットを再開したことで、やっと背骨がしゃんとした。

三日会わざれば刮目して見よ、だるんだるんになってるから! - 平凡

とりあえず、なんにせよ続けないと……。走りながらいろいろ考えるしかないのだ。止まると楽かというとそうでもなく、いろいろなものを振り切って走りつづけていたほうが楽だったりするのが不思議。

 

何作かハマれるウェブトゥーンを見つけて、初めて課金した。コマが割られた従来型漫画とはまた違った特性があっておもしろい。識者の方々が言う通り、ウェブトゥーンと従来型漫画、どっちが上とか下とかすぐれているとかではなく、別ジャンルだと感じる。これについても、近々感想を書いてみたい。

 

3月の終わり。冷える冷えると思ってヒートテックに薄手の春色ウール、冬用のコートで外出したら、あっという間に暑くてやっていられなくなった。「ヒートテックってあったかいんだな」と感じる。春が来たのだ。

 

それでは皆さま、4月もよろしくお願いいたします!

 

写真は《夕日を見つめる散り始めの桜のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20201141321post-31396.html

そのへんを歩くだけで、なんとなく花の良い香りがして、ああ、春だなと思います。

古いものを愛でて暮らす。すてきな暮らしを夢見つつ、すてきになれない人間の末路

今週のお題「デスクまわり」

 

デスクまわりを充実させたい。それが最近の願いだ。しかし、それをこばむのは、「デスクそのもの」なのだ。

いま使っているのは、木製の片袖机。

昭和前半のものとおぼしき古物だ。がっしりしていて重い反面、引き出しの建て付けはがたがた、ゆるゆる。

アンティークというほどのものではない。価格も4~5万円程度だったと記憶している。かといって、いまから新しく作られる可能性は限りなく低い品。

こういうものに憧れて、古道具屋を巡って買ったものだ。

 

昨年秋の引っ越しでは、作業環境をアップデートすることも目標のひとつだった。そのため、この机を処分することを考えていた。お高めのワークチェアを買った場合、この片袖机のスペースには入らないと思われたからだ。この手の机は引き出しがあるぶん、足を入れる空間が狭いのである。

 

ただ、捨てるのはどうにもこうにも抵抗がある。貴重なものではない。ただ、先ほども書いた通り、このタイプの机はこの先も作られることはない。そういうものを、望んで古道具で買ったのだ。まだ使えるうち、自分の代で終わらせてもよいものだろうか。

買うときは考えなかった、そして、他人から見たらどうでもよいであろう責任感がわき上がる。

購入した古道具屋に連絡すると、写真で査定をしてくれた。予想される最低買い取り価格と送料はトントンぐらい。買い取ってもらえないことも覚悟していたので、これは朗報だった。

 

しかし、引っ越しは(予想通り)混乱を極め、わたしは片袖机を次の住まいに持ち込んだ。

そして、いよいよワークチェアを購入。

「やっぱりこの机には、ワークチェアが入らないよ~」と、今度こそ机を買い換える決意がつくと思っていた。が、新しくやってきたイトーキの「アクト」は、なんとその狭いスペースに収まってしまった。ぜんぶ入るわけではないが、肘を置いて作業するには不都合ない。

 

どないしよ。

 

じゃあ、ずっとその机を使えばいいじゃんという向きもあろうが、わたしは近い将来、大きめのディスプレイを購入し、ノートパソコンと組み合わせてデュアルディスプレイにしたいのだ。そのために、ディスプレイアームをつけたい。いずれ目がかすむときに備え、ディスプレイの位置を思った通りに調節したいからだ。

しかし、当然、背面にさまざまなパーツがついている机なので、ディスプレイアームをかませることはできない。

ついでにいうと、冬に導入したかったパネルヒーターも、足置きになる位置に走る「柱」が邪魔であきらめた。

 

昭和の机は昭和の机なのだ。現代の作業環境には向いてはいない。

 

この片袖机を夫の作業用に譲り、わたしは新しい机を買う案もあるが、自分が使って不便なものを、人に使わせるのは気が引ける。この不便さを愛せるのは、この机を自ら選び、思い入れが深いからだ。

 

そうこうしているうち、脳内で囁くものがある。

「ちょっと前に読んだ『&Premium』で、いしいしんじさんがこういう机にノートパソコン置いて使ってたじゃない。ああいうのに憧れてるんでしょ~~」

いや、憧れている。憧れているけど、作家と商業ライターの作業まわりは一緒にはくくれない。

同業者はたいていシステマチックな作業環境を構築している。作家のなかにもそういう人は多いように思う。

が、同業の知り合いのなかにも、すてきなインテリアで仕事をしている人もいる。すっきりとした無垢材のテーブルを仕事用に転用。椅子は座り心地はよいけれど長時間の作業には向かなさそうな北欧製。照明は、ペンダントライトにもうひとつスタンドライトを置いて補完……とか。

 

そう考えていくと、気づく。

ステマチックか、インテリアか。どちらにせよ、みな、何かを選び取っているのだ。意識するにせよ、しないにせよ。

自分の作業の快適さを考えると、事務用の机に、すこし高めのワークチェアしか考えられない。

あるいは、長く過ごす住空間が無機質なんて、ありえない。

そのどちらもがライフスタイルであり、ライフスタイルとは無数の選択肢で成り立っている。

 

この年齢になるまで住環境のことがよくわからず、しかしなんとなくすてきでおしゃれな暮らしに憧れていたわたしは、「ライフスタイルはなんだか自然に生えてくる」ぐらいのぼんやりした意識で生きてきた。が、そうじゃない。

 

たかが机、されど机。

 

「わたしは多少の不便があっても、この古い机が好き。大切に使いたい」

「年齢を重ね、次の20年を戦うために、ガラリと作業環境を変えました」

どちらもアリなのだ。

ライフスタイルは勝手に生えない。選び取るのである*1

 

どちらを選ぶにせよ、わたしは「古道具との向き合い方」のフィックスを迫られることになる。

わたしはこの片袖机のようなアンティーク未満の古道具や木製品が好きだ。だが、一度手に入れると性格上、手放すのはかなり難しいと今回の件で身にしみた。また、重量もそれなりなので、これから年齢を重ねたときのハンドリングを考えると不安になる瞬間がある。

この片袖机を手放すなら、購入した古道具店に売却するのがベストだ。この机の価値をいちばんわかってくれるし、こういうものが好きなお客さんが集まってくる。ただ、いつまであの店があるだろう――。

 

こう書きつつも迷うわたしは、心を落ち着かせるために天板の手前をなでる。キーボードを打つとき擦れるのか、そこは角がなめらかになってさわり心地がよいのだ。

 

「『不惑』とは名ばかり。迷ってばかりですよ」

「年を重ねるにつれ、自分のスタイルがわかってきたんです。いらないものを買わなくなりました」

そんなふたつの言説が同時にインターネットを流れていく昨今。下手すりゃすてきに暮らしているひとが、同時にそれらを口にする。

どっちなの? みんな迷うの? 迷わないの? 

すてきな暮らしを夢見つつ、すてきになれない人間の末路。

何も決めてこなかったわたしは、いまさらになって、決断の練習を迫られている。

 

写真は《不自然に取り残された机と椅子のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20200226037post-25624.html

*1:おそらく最善の方策は、古道具であれ新品であれ、木製の机、それも天板がそんなに厚くなく、天板と脚だけのシンプルなデザインのものを買うこと。ただ、引っ越しその他のフットワークを考えると、そんなしっかりした机を買うのもな……と二の足を踏んでしまう。古道具やいい感じの家具を丁寧に使っている人は、移動のお手伝いをお願いする、譲るなど、いざというときに声をかけられる友人や知り合いが多い人のように思う。こういうところでも、今まで築き上げてきた“人間力”の差が出るいまは夫もわたしも元気だけれど、何かあったら……あるいは20年後、ひとりで机をどうこうできるだろうかとついつい考えてしまう。

三日会わざれば刮目して見よ、だるんだるんになってるから!

「男子、三日会わざれば刮目して見よ」ということわざがある。

三国志演義』由来のものらしい。

なんでも学を軽んじていた武将・呂蒙が恩人のすすめにより学問に打ち込み、教養豊かな人物になった。驚く周囲に、「努力する人は、3日も会わんかったら別人になる。目をかっぴろげて見るよろし」と言ったとか言わないとか……。

 

努力は人を変えるのである。では、逆はどうか。

 

昨日、ブログに書いたことで発奮し、わたしは「リングフィットアドベンチャー」を再開した。スマートフォンにつけている記録によると、最後にプレイしたのは、12月2日。実に4か月ぶりなのだ。

 

「リングフィットアドベンチャー」とは、ゲーム内のアクションすべてが筋トレになっているSwitchのゲームです。敵を倒すのも、ステージ内を移動するのも、スムージーを作るのも、ぜんぶ筋トレ。

www.nintendo.co.jp

 

結果から書くと、まっったくダメになっていた。

 

準備運動のダイナミックストレッチをやり終えたところで、「ああ~運動したなあ」。

このゲームでは負荷の設定ができるので、とりあえずそれを2つ下げ、攻略中のステージを開く。次は「ジム」。これは、6種類ほどの運動を連続してやるものだ。ジムならマイペースにできるし、大丈夫だろう。

 

が、4か月前までは、「ラクだし楽しい!」と思っていたバンザイコシフリが……キツい!?

バンザイコシフリとは、その名の通り、腕を上げて腰を振る。「サザエさん」のOPで、猫のタマがやっているような動きだ。

www.youtube.com

 

暗雲垂れこめるなか、マウンテンクライマーに。これは「リングフィット」随一のキツい運動と言われており、一時期「持病が悪化した。やりすぎに注意」との注意喚起ツイートがバズっていたほど。当然、まともにももが動かない……。

 

www.youtube.com

 

ラストにやったハサミレッグ。腹筋がないわりに、この運動は得意なのだ。ふふふ……と思っていたら、床に仰向けになって足を浮かせた時点でもうキツい。

www.youtube.com

 

というか、どうして「ジムなら大丈夫」と思えたのか。昔から、筋トレが連続するジムはキツかったではないか……。記憶力も低下している。

 

ほかの運動も含めて6つほどをやり切ると、もう立ち上がれなかった。しばらく休んでからストレッチをしてスイッチをオフに。

 

ヤバ。

 

「リングフィットアドベンチャー」では、最後に豆知識が表示される。今回は……。

「運動する間隔が空いてしまっても、筋肉は覚えているともいいます。筋肉は裏切りません」

筋肉は覚えていてくれる。だが、さすがに4か月は待ってくれないということか。

 

「待ってくれていない」兆候はあった。最近、デスクに向かっていると、すぐ疲れるのだ。外出から戻ると、いったん休まないと動けない。

「あ、この感覚、懐かしい……」

「リングフィットアドベンチャー」を始める前のわたしは、いつもこうだった。「なんて無気力な人間なんだろう」と自分を責めたものだが、なんのことはない。筋力がなさすぎて、それゆえ体力がなさすぎて、したがって何をする気力もわかない。それだけのことだった。それだけのことなのだが、「リングフィットアドベンチャー」をやるまで気づかなかった。

しかもその体力・気力のなさは、自転車にハマっても、ジムに行っても、ランニングをしても、Ingressにハマって歩きまくっても改善しなかった。「リングフィットアドベンチャー」だけが、わたしを変えてくれた。

たぶん、全身を少しずつ、まんべんなく動かすのがいいのだろう。あと、何をやってもほめてくれるので、自己肯定感が育まれて毎日つづけやすい。家から一歩も出ないでいいのも大きなポイントだ。

 

「男子……というか、人間、三日会わざれば刮目して見よ」。

そう、人間はあっという間に変わってしまうのだ、いい方向にも、悪い方向にも。「リングフィットアドベンチャー」をサボったわたしは、だるんだるんの、椅子に座るだけで疲れてしまうスライムのような無気力人間になってしまった。

とはいえ、ことわざとは違い、実際は3日どころではなく、4か月なのだけど……。

 

というわけで、これから「リングフィットアドベンチャー」を再開する。以前は2週間あまりで効果が出て、外出したときの疲れ方がまったく変わった。

スタートしたときは、負荷は「ゼロ」だった。いまは10程度まで上げている。何もかもリセットして、リスタートしたほうがいいのかもしれない。

 

筋力が気力を生む。気力があれば、デスクに向かう時間も増え、よい文章も書けようというもの。しかし、ことわざと違い、筋力は3日ではつかない。まずは明日だ。明日、やること。そうやってまた一日ずつ積み重ねていこうと思う。

 

***

「リングフィットアドベンチャー」をつづけていた頃のエントリー。開始から3ヶ月あまり。体力がない、気力がない、すぐ眠くなるとお悩みの方には、「リングフィットアドベンチャー」おすすめです。ソフトに加えてSwitch本体が必要なので初期費用がかかりますが、ハマれば本当に人生を変えてくれます。

hei-bon.hatenablog.com

 

写真は《朝のラジオ体操のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20160916250post-8941.html

ラジオ体操も続けるとすごく良いといいますね。

三月さいごの日曜日

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三月さいごの日曜日。東京では、桜が満開に。

 

冬の間、「あれはどうも桜ではないか」とにらんでいた、ベランダから見える木々。つぼみがふくらみ、ふくらみ、このほどわたしの推測が正しかったことが証明された。

 

そんなわけで、「おうちお花見ができる!」と大興奮。昼下がりに足踏み台兼用の腰掛と、アウトドア用のチェアをベランダに持ち出した。

桜並木が揺れてなかなかいいものだけれど、風は冷たい。何も考えずにはじめてしまったので、お昼はもう食べたし、コーヒーは先ほど飲んでしまった。夫婦で、ただただ揺れる桜を眺めるのみ。

うっすら青い春の空に、灰色の雲が流れていく。

 

「そういえば、新宿御苑行ったことあったよね。あれ、お花見じゃなかったっけ?」

夫が突然、言い出した。

新宿御苑ってふたりで行ったことある? 『言の葉の庭』見たときとか?」

「桜の季節じゃないかな。お金払って入園したのを覚えてるよ。新宿御苑じゃない?」

入園料がかかり、ピクニックシートを広げられる場所といえば、新宿御苑だろう。うーんうーんと記憶をさらううちに、思い出した。

「そうだ、デパ地下で、お惣菜とか買っていった!」

「それそれ」

新宿伊勢丹のお惣菜は、存外高くてびっくりした。新宿伊勢丹での買い物経験がないわけではないのだけど、二人分となると価格感が変わってくるものだ。並んでいるのはワインに合いそうなおつまみ系が多くて、「飲む人が多いんだねえ」「でもわたしたちは飲まないから、ご飯系をひとつ」なんて言いながら選んだっけ。何を買ったのか食べたのか、まったく覚えていないけれど。

うららかに晴れた日で、家族連れが多くて、まわりを子どもが走り回っていて牧歌的だった。付き合いたてで、ふたりとも「こういうベタなことをしてみたかった」「それが実際かなった」と満足して、わざわざピクニックシートに寝転がって目を閉じた。

 

しかし――。

回想しながら、わたしは思う。かつては新宿御苑にわざわざ繰り出したわたしたち。それだけではない。「ベタなお花見がしたい」と、毎年、千鳥ヶ淵にも行っていた。それもわざわざ夫の会社帰りに合わせて、待ち合わせて。

それがいまやどうだ。コロナ禍2年で、いまだにステイホーム中心のわたしたち。お花見ぐらい、外に出てもいいのではないか? 歩いて20分ぐらいのところに、桜の名所もあるのだし。

「おうちでお花見ができる! 贅沢だねえ」というのは、在宅時間が短い人がいう台詞ではなかろうか……。

 

そんなことを考えているうち、からだはしんしんと冷えて来た。

「寒い、寒い、撤収しよう」

「せっかくだから、もっとお花見気分を盛り上げたかったなあ。三色団子でも買えばよかった」

アウトドア用のチェアを片しながらぼやくと、「今日は甘いもの、ダメだよ」と夫が制した。

ああそうだ、今日はもうひとつ、大事業が待ち構えているのだった。

 

日課の英語学習などが終った夕方、夫は台所にこもった。今日は、ケーキを作ってくれるのだ。生クリームたっぷりのショートケーキ。実に一年ぶりのことだ。

「すっかり手順を忘れている……」

ショートケーキはとにかく作成に手間暇がかかる。スポンジ用の生地を作り、生クリームを泡立て、いちごを切る。その途中で、ある素材は湯煎し、ある素材は氷水に張りながらかき混ぜる。ボウルなどの器具も数が少ないので、いったん洗ってまた使ってといったやりくりも必要だ。

戸惑ったり、何か手違いをしたりしながら夫が仕上げたケーキは、スポンジがふわふわ。最高傑作だった。

本当はわたしの誕生日、一月に作ってもらうはずだったケーキ。もろもろバタバタしてしまい、2か月遅れの作成となったのだった。その結果、旬のいちごが使えたのはうれしい誤算。

 

ふわふわとはいえ、洋菓子店のケーキよりもキメがやや粗く、それゆえ小麦粉と卵の味がしっかりと感じられるスポンジ。

余ったものを単独でなめてもそれほど美味しくない生クリームが、スポンジとあわさるとどうしてこんなに美味しいんだろう。

そして、甘酸っぱい「紅ほっぺ」。

ふたりで味を褒め褒め、味わった。

 

「今日は充実していたなあ。ケーキも作ったし、お花見もした」

夫は満足気だ。

「家から一歩も出てないけどね」

ニヤリと笑いながら茶々を入れると、夫は「そういえばそうだね」と驚いた顔をした。

 

でも、これでいいのだ。これがいいのだ。

 

と、きれいにまとめたところで、これではいかんと思い直す。いやいやいや、「幸せは足元にありましたとさ」はいいけれど、最近、引きこもりが加速しているよね? 運動不足が過ぎる。しかも、ケーキに使った生クリームは脂肪分たっぷりだった。だって、業務スーパーにあの一種類しかなかったんだもの……。

久しぶりに「リングフィット アドベンチャー」をやろうとSwitchを起動する。なんと、久しぶり過ぎて充電切れ。

桜といちごのショートケーキと運動不足。三月さいごの日曜日は、そうして終わっていった。

もうちょっと運動しよう。そうしよう。うん、四月からね。

 

 

 

画像は《満開の桜とボケのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20220336082post-39449.html

『ミッドサマー』が超おもしろかったけれど、なんでおもしろいのかわかんないので考えてみた

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人は案外、「型」で物語を受容している。そこに詰め込まれているものがなんであれ、「型」が強く、きれいにできていれば、面白く感じてしまうものだ。

「型」isパワー。

そんなことを、『ミッドサマー』を見て考えた。

 

『ミッドサマー』は、ネットを中心にさんざん話題になった作品なので、ご存知の方も多いと思う。北欧の夏至祭を舞台にした映画であり、ジャンルはホラーであると言われる。

 

簡単な筋書きは、公式サイトのトップページ下部にある、「5人の学生が招かれたのは、白夜に照らされた狂気の祭だった」の通り。

www.phantom-film.com

 

もうすこし詳しく書くと、主人公は大学生のダニー。彼女は悲惨な形で妹と両親を失い、精神がかなり不安定。同じく大学生の恋人・クリスチャンはそんな彼女を持て余し気味。やがて、クリスチャンの友人・ペレから「故郷のスウェーデンで行われる夏至のお祭に来ないか」と誘われ、その祭りについて論文を書くつもりのジョシュ、軽薄なマークらとともに、ダニーは花と緑に囲まれた“ホルガ村”にやってくる。夜も沈まぬ明るい太陽のもとで行われる祭りとは……。

 

Twitterでは、「グロい」「失恋ムービーだ」「魂の浄化ムービーだ」「考察に夢中」「ホルガはなんだかんだ理想郷」といった感想が見られたこの作品。ドラマ性が気になってはいたものの、わたしはグロテスクなものはとことん苦手。胸糞悪い展開もあまり好きではない。そのため、なかなか手が出なかった。

これが、見てみるとめちゃくちゃ面白かった。「面白かった」とは文字通りの意味だ。ド直球のエンタメとして面白かったのだ。これは意外だった。

胸糞悪いことや気色悪いことがたくさん起こっているにもかかわらず、なぜか見た後は気分爽快なのだ。

わたしは主人公・ダニーが迎える結末について、「彼女なりの幸せ」とは思わないし、クリスチャンの結末についても、肯定的にはとらえていない*1。筋書きに関する感想は、「カルトの洗脳の手口がきれいに描かれているな~」というもの。

なのに、なぜか見た後は、「面白いもの見ちゃったな」と元気になった。わけがわからない。

そこで、「なぜこの作品をエンタメとして面白いと感じたのか」を考えてみた。

 

以下、ネタバレはあまり気にせずお送りする*2

 

冒頭でも説明したように、『ミッドサマー』は、「ホラー」というジャンルで語られることが多い。「閉ざされた村で、学生たちはひとり、またひとりと消えていく……」と要素だけを抜き出して書くと、典型的なホラー映画だし、グロテスクなシーンもある。

だが、ホラー映画……とくに、閉鎖空間で何者かに主人公たちが襲われる作品において、観客を惹きつける肝とはなんだろう。

「逃げ場がないなか、主人公が、どうやって生き残るか」ではないだろうか。

そう考えると、『ミッドサマー』は、その手の「ホラー」ではくくれないことに気がつく。

 

舞台となるホルガ村はアクセスが容易ではなく、一種の閉鎖空間であることは間違えがない。携帯も圏外だ。ダニーは「この村は不気味だ」「ここにはいたくない」と語りはする。だが、積極的に逃げようとはしない。この行動にも、観客は「なんで逃げないの?」とは思わない。彼女の精神はグラついており、外の世界もまた、彼女にとって幸せなものではなかったと知っているからだ。

加えて、ダニーの恋人であるクリスチャンとジョシュは、「論文を書く」という目的のため、この村を出ることは考えない。

何より、ダニーに関して、「この子は最後まで生き残れるのかしら……」とハラハラする展開は皆無だ。彼女は流されるままにホルガ村に滞在し、ただ、見て、巻き込まれていく。学術的な興味があるわけでもないので、村の秘密を暴こうと、危険な行動も起こさない。

ここが、「閉鎖空間が舞台のホラー」とは決定的に異なる部分だと思う。

 

では、『ミッドサマー』はどんなジャンルの映画なのか。それは、主人公が誰かをあらためて考えると、答えが出る。

主人公は、いうまでもなくダニーだ。そして、脚本論や創作論における主人公の定義は、「物語のなかでいちばん葛藤し」「いちばん変化する」人物だとされる。変化の結果、主人公はファーストシーンとラストシーンでは正反対の状態になる。

 

冒頭でのダニーの状態を考えてみよう。家族を全員失い、ひとりぼっち。恋人も共感してくれているとはいえず、孤独と不安定さを抱えている。恋人に依存気味、もしくは依存気味と周囲から見られていることも自覚している。

そして、ラストのダニー。“共感”してくれる“家族”に囲まれ、依存対象を自ら消し去ることを選択し、笑顔を浮かべる。

この要素だけを抜き出して書くと、「家族を失い、心に傷を負った女性が、新たな家族に出会い、再生し、自立する物語」となる。この要素で思い浮かべるのは、ホラーではなく、王道のヒューマンドラマだろう。そして、こちらが『ミッドサマー』の本質にあたるのだと思う。

アメリカでの冒頭シーンは暗い。ダニーも暗めの洋服をまとっている。しかし、ラストシーンのダニーは明るい太陽の下、極彩色の花々にうずもれている。イメージも対照的に作られている。

 

鑑賞前、「魂の浄化ムービー」といった同作の感想について、ネット民が好む一種の言葉遊びだと思っていたが、あれは本質なのだ。

 

この物語は、『SAVE THE CATの法則』でのジャンル分けにのっとれば、一見、「家の中のモンスター」に見える。このジャンルは、『エイリアン』『ジョーズ』など、「広義の閉鎖空間で」「人間たちが逃げたり隠れたりして生き残りを図る」というものだ。

だが、実際は「何かを求めて旅に出た結果、意外なものを見つける」いわゆる、「金の羊毛」と呼ばれるタイプか、もしくは「つらい人生の節目に、主人公が変化していくさまを描く」「人生の節目」だろう。

一緒にやってきた学生たちがひとり、またひとりと姿を消すのは、ただの背景にしか過ぎない。ショッキングなことが次々起こるのも、スパイスだ。この映画の主題は、「いかにしてダニーが自己を回復させるか」だからだ。

ただ、その方法ははっきりいって洗脳であるし、現代社会が一般的に考える幸せではないのだけれど。

とはいえ、「主人公が問題を解決し、冒頭とは真逆の状態になる」という型に関しては、きっちりかっちり描かれており、ブレない。

爽快感があり、「直球エンタメとして面白い!」と感じるのは、ここなのだと思う。

 

もうひとつギミックとして大切なのは、ホルガ村の目的が明確であること。

たびたび語られているが、ホルガの村の目的は、「新しい血を定期的に入れ、共同体を維持していくこと」だ。すべてはそのためであり、そのためには「個」は必要ではない。作中で描かれる奇祭には、「個」を放棄させるための仕掛けがいくつも見受けられる。

たとえば、「メイ・クイーン」を決めるダンス。

くたくたになるまで踊らせ、その高揚感のなか、「踊る」「止まる」と下される指示に盲目的に従わせ、自己を曖昧にさせていく。

これは洗脳の手法だが、クリスチャンは薬物というもっとダイレクトな方法で「個」の判断を放棄させられ、「新しい血」を提供させられることになる。

「個」を捨て、ホルガの目的とひとつになることで、ダニーは居場所と精神の安定を得る。

ここが曖昧だと、ラストには爽快感がなく、「わけのわからんカルト村に取り込まれて、ダニーはなんかしらんが幸せに……なったの?」となってしまうだろう。

 

物語中に描かれる目的は、原始的であればあるほどよく、観客の理解が得やすいとされている。ホルガ村の「子孫を残し、共同体を存続させる」という目的は、誰にでもわかりやすい。現実社会で少子化が問題になるのはなぜか。ひとつは、人類全体に「社会を存続させたい」という共通の目的があるからだろう。

「家族の喪失を埋めたい」ダニーの原始的な目的は、「共同体の存続」という原始的な目的に取り込まれることで果たされる。だから、誰の目にも「問題が解決したのだ」とわかりやすい。

その手法が正しいかどうか別にして。

 

かように、『ミッドサマー』は「型」に忠実な物語だ。ただし、ホラーの皮をかぶった人生再生ムービーであり、その再生の方法はあきらかに洗脳で、危険なものであり……、と幾重にもツイストがかけられている。ついでにいえば、「暗いから、見えないから怖い」というホラーの常套を逆手に取り、「明るいから、不気味」としているところも目新しい*3

一方で、どんなに新規性があっても「型」があるからこそ、エンタメとして「楽しい、面白い」と感じることができる*4

 

「型」に忠実だからこそ多くの人の心をとらえ、多重にかけられたツイストがあるからこそ、多くのフィクションに慣れ親しんだ観客を飽きることなく楽しませる。

『ミッドサマー』は現代らしいエンタメ大作なのだ! そう言い切ったあと、苦笑いして、「たぶん……おそらく」とつづけたくなる。

それも含めて、『ミッドサマー』の魅力であり、アリ・アスター監督の手腕なのだろう。

 

そういえば、『劇場版 呪術廻戦0』も、乙骨君の変化がきれいに描かれた作品でした。

hei-bon.hatenablog.com

 

写真は《ピクニックに来ましたのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20190627172post-21430.html

*1:ネタバレになるので曖昧な書き方をしましたが、「いい気味」とは思わない、ということです

*2:『ミッドサマー』に関しては、わたしはかなり前知識を仕入れていたが、楽しめた。あらゆるネタバレ・前情報を憎むタイプでなければ、少々情報が入っても楽しめる作品だと思う。また、わたしのように「グロいのもホラーも苦手だけど、『ミッドサマー』気になる」人は、展開を知っておいたほうが安全だと思う

*3:これは制作者が意図しているのかどうかわからないけれど、何気に「男性がああいう目的で薬を盛られる」「意にそわないことをさせられる」のはあまり見ないシチュエーションかも

*4:当然、ツッコミどころもある。わたしが突っ込みたいのは、「いくら若いといっても、1回で妊娠するかわかんないでしょ!」。祭りの期間中に排卵を迎えるのがあの娘だったのかもしれないけれど、それにしてもあの1回で……!?

好きです、サラ・イネス作品

今週のお題「買いそろえたもの」

「買いそろえた」といえば、サラ・イネス作品だ。

 

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この20年近くで、買いそろえたサラ・イネス作品の一部。写真の背景、もっと柄がおとなしいものにすればよかったですね……。

「伝説のカルト作、復活!」

本屋でそんなポップを目にしたのは、いまから20年ほど前。

「カルト作かあ……。『ガロ』に載っていそうとか、哲学的で難解とか、そういう感じなのかな」

深く考えず、わたしはその文庫版漫画を手に取った。それが、わたしと『大阪豆ゴハン』の出会いだった。

 

開いてみると、「なんじゃこりゃ!」。外国人のような顔立ちの男女が、大阪弁でずーっとしゃべっている。

描かれるのは、大阪中心部の古い数寄屋造りに住む、安村家の生活。メンバーは社会人である三姉妹と大学生の末の弟、長女の夫。

しかしながら、“すてきな暮らし”“スローライフ”では断じてない。

なにしろ物語は、風呂タンクの故障により、元・土間の台所に水が溢れるところからはじまるのだ。あわてる長女をよそに、末弟はのんきに友達を家に呼ぶ。そして、末弟は自室にしている茶室にある炉で、袋ラーメンを作って友人たちにふるまうのであった……。

それが第1話だ。

 

『大阪豆ゴハン(1)』(イイネス・サラ,ARTEN)|講談社コミックプラス

こちらに試し読みがあり、4話まで読める。作者のサラ・イネス氏はペンネームを変えており、当時は「サラ・イイネス」名義。

 

今読み返すと、「古くて不便が多い家」での暮らしぶり、トラブルへの反応から、それぞれのキャラクターがよく伝わってくる第1話なのだが、当時はただただ面食らった。吹き出し内外の台詞は手書きだし……。

 

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文庫版1巻。一時期、お守りがわりに繰り返し読んでいたので、くたびれている。しかし、いくらポップに誘導されたとはいえ、この表紙を見て、「『ガロ』とかそういう感じなのかな」と思うのはどうかしている。そして、まさか帯の「今、買うとかんともうアト買うとこないですヨ」が漫才のネタではなく、現実になってしまうとは……。

 

それが、「わからん」「思っていたのと違う」とぶつぶつ言いながら枕元に置いて読んでいるうちに、だんだん癖になってきた。

長女の加奈子には離婚歴があり、夫の湯葉さんとは再婚。専業主婦として、一家の家事を切り盛りしている。

次女の美奈子はディスプレイ関連の仕事をしている現場系キャリアウーマン。ファッションが大好き。

三女の奈々子はレーシングチームのマネージャー。

末っ子の松林は一家のなかでも飛びぬけてのんきな音大生。バイオリンを弾いている。

彼らと同居する加奈子の夫・湯葉さんは北陸の厳格な家育ち。彼らの気楽さに驚きつつも、心地よく感じている。

それと、猫のチコ(本名はビョルン・ワルデガルド )。

 

彼らの同僚、友人らもまじえて、「大阪人の、ふつうの暮らし」が語られていく。ドラマチックなことは起こらない。

古すぎるゆえ、エアコンが取りつけ不可の家で、家族が涼しい場所を探してウロウロ。

大型バイクは乗れるのに、自転車に乗れない奈々子が自転車を練習する。

湯葉さんの友人が、加奈子の食事に舌鼓を打ちながら、意外なことを平然と打ち明ける。

 

いいかげんだったり、のんきだったり。それでいてそれとなく、それぞれ仕事には誇りをもっていることが伝わってきたり。

 

これは人からの受け売りなのだが――。人は親しい他人について「あの人はどんな人」と説明するとき、「あのときはああした」「こんなときはこう言った」といった、リアクションを思い浮かべるものではないか。

大阪豆ゴハン』は、各話わずか6ページのなかに、「意外な持ち物」「やめられないこと」「忙しいときはこうなるよね」などなどに対する登場人物のリアクションが流れるように詰め込まれている。

すると、先ほどの、「親しい人を思い浮かべるとき、リアクションを思い出す」のと、逆のことが起きるのではないだろうか。そのリアクションを見ているうち、キャラクターに親しみと愛着がわいていくのだ。そうして、次第に「ちょっとおもしろい友人、知り合い、親戚」を見ているような感覚で、ページを繰るようになっていく。

これはどのフィクションでも、「キャラクターを好きになる」ときには大なり小なり起こることだとは思う。

ただ、『大阪豆ゴハン』に限らず、サラ・イネス作品は「リアクションを知り」「親しみがわき」「キャラクターが好きになる」の循環が非常に上手く、強い。

ストーリー漫画だと、キャラクターに好感を持った読者は、「好きなキャラクターがどう動くか」「愛するキャラクターの今後は」が気になるようになり、物語に引きこまれていく。

が、一本の大きなストーリーが動くわけではないサラ・イネス作品ではどうなるか。読者はやがて、「作品自体に居心地のよさを感じる」ようになっていき、作品世界から離れられなくなっていくのだ。

 

大阪豆ゴハン』ほか、サラ・イネス作品は会話が中心だ。そこに描かれているのは、食べて寝て、仕事をして、そのなかで人と人とが交流し合う、人の営みそのものといっていい。

人の営みそのものなので、ときとしてシビアな面ものぞく。たとえば、『大阪豆ゴハン』ワイドKC版6巻では阪神淡路大震災が起きる。大阪は被害が少なかったが、美奈子の同僚が住む宝塚は揺れも大きかった。美奈子たちは、同僚の家の片づけを手伝いに、宝塚へ赴くのだが――。同僚夫婦にはケガもなく、作中に悲惨なことが描かれるわけではない。が、ふと差しはさまれる「非常事態で一瞬の運命を分けるもの」「土地による落差」がひんやりとした感触を残す。

 

と、そんなこんなでサラ・イネスワールドにどっぷりつかったのだから、当然、『大阪豆ゴハン』の文庫版の続きを夢中になって買い揃えた……と言いたいところなのだが、そうはならなかった。

3巻までは手に入った。しかし、待てど暮らせど、4巻が出ない。文庫版3巻の最後に収録されているのは、松林の何気ない日常を描いたエピソード。ラストのコマでは、お気楽に去っていく松林の背中が描かれている。

「これで、この物語は終りなのだろうか……?」

時は2003年。わたしのインターネットリテラシーはまだまだ低く、「とりあえず検索する」発想がなかった。

やがて多少は知恵をつけたわたしは、講談社のサイトで文庫版の発売予定をチェックすることを覚えた。過去にさかのぼっても、4巻が発売された形跡はない。買い逃したわけではないのだ。

さらに時が経ち、「なんでもかんでもインターネットで検索する」ことを覚えたわたしは、『大阪豆ゴハン』にはつづきがあること、文庫版は売れ行き不振とみなされてつづきが出ていないらしいこと、文庫版4巻以降の出版を根強く求めるファンの存在を知った。

今でこそ、漫画の連載作の単行本が出ない、なんてことは珍しくないが、当時は「文庫版が途中で打ち切られることってある!?」と非常にびっくりした。まだまだ出版界ものんびりしていた*1

ひきつづき、「なんでもかんでもネットで買う」ことを覚えたわたしは、「そうだ! 『大阪豆ゴハン』の元の単行本を買えばいいんだ!」と思い立った。ヤフオクでワイドKC版全12巻を落札したわたしは、感動した。

加奈子の、美奈子の、奈々子の、松林の、オーシミッサン(湯葉さんの友人)の日常には、つづきがあったんだ!

版型が大きいので、こちらのほうがずっと読みやすいメリットもあった。

 

そして、2007年。なんと、4年の歳月を経て、『大阪豆ゴハン』の文庫版4、5、6巻が発売された*2。その鮮烈な感動は、いまでも覚えている。5、6巻の描き下ろし漫画には、登場人物たちの明確な“その後”が描かれていたからだ。

ああ、安村家(主人公たちの名字)の面々に、また会えた!

彼らは生きているのだ。きっと、大阪のどこかで。

フィクションの登場人物に「また会えた」と思ったのは、それがはじめてのことだった*3

 

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現在、『大阪豆ゴハン』は電子書籍化されているが、それはワイドKC版。描き下ろしは文庫版の紙書籍でしか読めないのだが、現在は絶版になっている。

 

というわけで、わたしはいまも、サラ・イネス作品を追いかけつづけている。赤坂にあるデザイン事務所を舞台にした『誰も寝てはならぬ』、メジャーデビューしたてのバンドの面々を描く『セケンノハテマデ』、白系ロシア人の妻がのこした三人の子と暮らす男性が主人公の『ストロベリー』。

最新作の『誰も知らんがな』では、長年連載の場であった「モーニング」から「イブニング」へ移籍。今回は雑誌を購読して追いかけている。これまた「親がのこした旅館を、三姉弟が再生する」姿をゆる~く描いており、楽しみな作品だ。

 

いつだってサラ・イネス作品にはどこか品がよい大阪弁を話すキャラクターが登場して、日常をああだこうだと生きていて、どれも地続きなのだけど、主人公や舞台によって明確に違う味わいがあって最高なのだ。

 

これからも、ずっと、ずっと買いそろえたい。無理ないペースで、末永く作品を発表してほしい。サラ・イネスは、切にそう願っている漫画家である。

 

 

今週のお題「買いそろえたもの」

*1:当時、わたしが無知だっただけかもしれないが……どうなんでしょう

*2:Twitterもなかった当時、どこで発売を知ったんだろう。たぶんmixiのコミュニティかな……

*3:二番目に同様の感動を覚えたのは、『電波オデッセイ』の新装版の描き下ろしを読んだとき。いちばん最近は、雑誌に掲載された『エクセル・サーガ』の読み切りを読んだときだろうか。年を取ると、昔読んだ作品の再録とかリバイバルとか出てくるので、機会が増えますね……

『デパプリ』と『根津さんの恩返し』に見る、コミュ障あるある

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こ、コミュ障の解像度が高すぎる……ッ! ここひと月ほどで、そううならされたフィクションがふたつある。

 

コミュ障とはいわずもがな、コミュニケーション障害、人との交流が苦手な人の総称である。何がどう苦手なのかは人それぞれで、抱えている悩みもそれぞれ。ただ、「不器用で、会話などが苦手」であれば使える便利な言葉だ。

 

「コミュ障」キャラは、「引っ込み思案」「気が弱い」などのキャラクター紹介とともに、フィクションにもしばしば登場する。で、「細かいところがわかってんなーッ!」「わかる! わかりすぎて嫌になる!」と思ったのが、『デリシャスパーティ♡プリキュア』(以下、『デパプリ』)だ。

 

『デパプリ』冒頭から、たびたび「クールなお嬢様」として描かれてきた、芙羽ここねというキャラクターがいる。そのここねと主人公の和実ゆいがはじめて深く関わるのが、4話だ。

しかし、「才色兼備のお嬢様」「わたしたちとは世界が違う」として周囲が遠巻きにしていたせいもあってか、ここね自身は同年代の友人とまともに接したことがない。

クールで自信ありげなこの容姿にして、超絶・人付き合いに不器用なのだ。

www.toei-anim.co.jp

 

距離をちぢめたここねとゆいはベーカリーカフェへ行き、ゆいはロールパンサンドとハートパンを注文。「ロールパンサンド、わたしも迷った」と言うここねに、ゆいは「じゃあ、どうぞ」と、ごく自然にロールパンサンドを半分分けてくれて、ここねは感激! しかし、「ありがとう」と言うもぎこちなく。ここね自身もゆいにカレーパンを分けようとするが、どうにもぎこちなく……。

 

このあたり、「すべてが自然」なゆいと、「すべてに肩に力が入ってしまうここね」の対比は、非常に心当たりがある。

自然に感謝を、好意を伝えたいのにタイミングがつかめなくて、伝えたいほどに肩に力が入ってしまうあの感じ……あなたにも心当たりがありませんかッ? えっ……ない? わたしにはあるッ! とくに思春期はそんなばっかだったよ……。

そして、いろいろあって、ここねは二人目のプリキュア、キュアスパイシーに変身する。

バトル後、ここねは「(ゆいと)一緒だからできた」と、勝利の喜びをわかちあった後、「ずっとあなたに伝えたかった」と前置きし、「ありがとう」と伝える。

いやいやいやいや、「ずっと」って、まともに話してから1日経ってないよね? いきなり重いよ! でも、気持ちはわかる……。だって、こんなに自然に接してくれたの、ゆいがはじめてだもんね。この軽重がおかしい感じも、なんだかわかる……。

 

5話は、彼女の不器用ぶりがよりクローズアップされた回だ。

はじめてのお友達にとまどう彼女は、その名も「新しくできた友達と仲良くなる方法」というハウトゥ本で人付き合いをお勉強。一緒に暮らすことになった妖精のパムパムに、「そんな本を読むより、普通に楽しく遊べばいいパム!」と言われてしまう。これは、中年になったわたしの心にも効きましたね。我々は、「普通に楽しく」ができないんじゃーーーッ! ぐわっぐわっ。まさか語尾が「パム」の妖精に、痛いところを突かれるとは……。

 

朝、ここねはたまたま見かけたゆいに声をかけようとするが、どうやって呼びかければいいかわからない。気づいたゆいから、「おはよう、ここねちゃん」と下の名前で呼びかけられたここねは、心の中だけで大喜び! 瞳をキラキラさせたここねの顔に、「ここねちゃん」「ここねちゃん」という字幕が弾幕のように走る演出がなされた(笑)

その後、ひとりになったここねは、ふたたび「新しくできた友達と仲良くなる方法」を開く。「お友達を下の名前で呼んでみましょう」というアドバイスに、「ゆい……」「ゆいちゃん……」とひとりで練習。うん、わかる。下の名前で呼ぶのって緊張するよね。

 

コスメショップにやってきたゆいたち。「ゆい」と下の名前で呼ぶことができたここねは、ちょっと大胆に。リップを見ながら迷っていたゆいに、「薄いピンクならどんな服装でも合うし、しっかり色づけたいならこっちを……」と解説。得意なことなら、突然饒舌になる。このアンバランスッ! 

しかし、メイクに興味がなかったゆいは「でも、それっていつ使うの?」と無邪気に質問。「押し付けるようなことをして……ごめんなさい」と、ここねはシュンとしてしまうのであった。

そして、「解像度高ぇ~~~」と思ったのが、ここねがゆいの家に遊びに行くくだりだ。彼女、ゆいの母親には「はじめまして、芙羽ここねです」と表情明るく、自然に挨拶するのである。

これ、わかるんですよ。「はじめてお邪魔したお宅への、定型の挨拶」だからスラスラできる。で、「礼儀正しい子ね」とかなんとか言ってもらっても、その後の雑談がぜんぜんできないのだ……。フリースタイルになると! 弱いの! コミュ障は! 

 

と、『デパプリ』のここねちゃんは、前代未聞のコミュ障キャラなのだ。しかも、「暗い」「引っ込み思案」ともちょっと違う感じの描写が細かい。

プリキュア』は15年以上続き、多数のキャラクターが登場するシリーズだけれど、こういった書き分けがほんとうに上手い。

今後1年間、芙羽ここねちゃんの成長を見守り、わたしもその成長のエッセンスを取り入れたいと思います!

『デパプリ』は、Netflixで最新話まで見られる。入会している方は、ぜひ4、5話で、「異常に解像度が高いコミュニケーション苦手な人間の姿」を見てほしい*1

 

もうひとつ、「社会人になった後のコミュ障描写」でうなったのは、『根津さんの恩返し』だ。こちらは漫画。単行本は1巻が発売されており、pixivコミックやピッコマなど各種配信サービスでも読むことができる。

www.comic-brise.com

主人公は、自他とも認めるコミュ障OLの小宮祥子。彼女はある日、ことばをしゃべるねずみ・根津と出会い、あることの恩返しとして「願いを叶えてあげる」と提案される。祥子は思わず、「コミュ障を治したい」とお願いし、根津と二人三脚でさまざまなコミュニケーションにチャレンジしていくことになる。

 

こちらも、「飲み会では手持無沙汰だし、ドリンクを積極的に頼むのも気が引けるので、手もとのドリンクをちびちび飲む」など、「あ~~~これは『あるある』ですねえ」と言いたくなる描写が多い。

この作品のポイントは、祥子は話しかける勇気はないし、雑談が苦手なまごうことなきコミュ障なのだけど、周囲のことはよく見えており、優しい人物であること。

飲み会で、祥子は「一見にこやかにしているけど……。あの人吐きそうなんじゃない?」という男性社員を発見。しかし、その人は、話し始めるとなかなか離してくれない課長の隣にいて……。祥子は勇気を出し、「課長とお話してみたいので、お席変わっていただけますか?」と声をかける。しかも、すれ違いざまに男性社員にビニール袋を渡すのだ。もちろん、席を変わったものの祥子は雑談などできず、「つまらんじゃないか」と課長に言われてしまう。

上手く話しかけられないことを自覚している人間が、「席を変わってください」と声をかける。しかも、助けたい相手は、「吐きそうに見えるけれど、本当に吐きそうかどうかわからない」状況なのだ。

これがどんなに勇気がいるか、コミュ障なら痛いほどわかる。だからこそ、祥子の心優しさには胸を打たれるし、「たとえコミュ障でも、こんなふうに周りが見えていて、勇気が出せたらすてきだな」と憧れもする。

『根津さんの恩返し』は、「あるある」にうなずきながら、そんな祥子の姿に心洗われる作品なのだ。

『根津さんの恩返し』は、絵もほんわかしていて、とてもかわいい。試し読みで気に入ったら、裏切られない作品だと思う*2

 

「コミュ障あるある」「解像度高い!」と思える作品が増えてきたのは、「コミュニケーションが苦手なんだ」と、昔よりは言いやすくなった昨今ならではなのかなとも思う。「我こそはコミュ障なりぃ!」という人は、『デパプリ』と『根津さんの恩返し』をぜひチェックしてみてください。

 

 

写真は《コーナーの端に追い込まれたハリネズミのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20190421106post-19477.html

いわずもがな、ハリネズミのジレンマにちなんでの写真選択だよ、ちくしょー!

*1:『デパプリ』以前、プリキュアの最新シリーズ見逃し配信は、Tverのみだった。Tverでチェックできるのは最新話だけ。それ以外に見逃した回を見る方法は、DVD化された後にチェックするしかなかった。有料配信でいいから、最新シリーズも全回見逃し配信してくれよぅ……というのはファンの悲願。Netflixでの最新シリーズ配信は、本当に本当に画期的で、待望なんです……!

*2:あと、「会社内でのちょっと嫌なコミュニケーション」「緊張するシチュエーション」の描き方もとても上手いと思う