スーパーにて。
ほうれん草が、乱暴に束ねられ、積まれている。価格は99円。小ぶりだが茎に葉に、「いま獲ってきました」といわんばかりのみずみずしさが宿っている。スーパーの特売品コーナーのそんな光景を見ると、「ああ、冬だな」と思う。
夕飯に、そのほうれん草をクリームパスタにして食べる。
オリーブオイルにバターをちょっと足して、ベーコンと玉ねぎを炒め、ゆがいたほうれん草を加えて牛乳で煮る。味付けは顆粒のコンソメだ。沸騰しないようにかきまぜて煮詰めていくと、ほどよいとろみが出て、パスタによく絡む。
「ほうれん草が、おいしいね」
それを口にした夫が、開口一番に言った。
「旬だからかな」
わたしは答えながらいぶかしむ。たしかに甘みがある。おいしい。でも、むかし、ほうれん草はこんなに甘かったろうか。
また別の日。近所の直売所にて、葉がよく巻いた白菜を見つける。
段ボールの切れ端に書かれた価格は100円だ。
持ち重りのするそれを迷うことなく手に取って、料金箱に硬貨を入れ、ふうふう言いながら持ち帰る。
直売所の野菜は「野性」を感じる味がすることが多い。そして、どこで買ったものであっても、冬の白菜はおいしいものだ。期待は高まる。
その夜、さっそく鍋にして食べる。白菜を切って鍋に敷き詰め、豚肉を乗せ、また白菜を乗せる。ついでに油揚げなんかもすき間に詰めて、味噌と砂糖、日本酒を入れて蒸し上げる。白菜のとろみ、甘みがシンプルに感じられて好きなレシピだ。
「むかし食べた白菜って味がする」
今度は開口一番、夫がそう言った。スーパーで買った白菜に比べると甘みが少なく、「白菜の味」としか言いようのない、淡い味わい。シャリシャリとした繊維の食感も強く、水分も多いような気がする。しかし、おいしくないかというと、けっしてそうではない。透明感があるといっても、さわやかといっても言い過ぎな、さらりとした風味がある。
「スーパーで買う白菜でこの鍋を作るとさ、もっと甘いよね。でも、子どものころ食べた白菜って、ああじゃなかった」
夫のことばに、振り返る。子どものころ、家族で囲んだ鍋に入っていた白菜はこんな味わいだったかもしれない。シャクシャクとして、単独で「うまいね」と言われるものではなくて、でも鍋には欠かせなくて……。
「品種改良かな。トマトとかそうでしょ。青臭さを抑えて、甘みを強くして」
「にんじんもそうかもしれない。俺、むかしはにんじんが苦手だった。いまは平気だもんね」
夫は結婚当初、「にんじんは土くさくて……」とカレーを食べるときもなるべく避けていたが、最近は味噌汁を調理するとき、自ら具材に選ぶこともある。
むかし食べたにんじんは、白菜は、ほうれん草は、どんな味だったろうか。記憶の引き出しを開けながら、ふと思い当たる。
わたしたちは、年老いた。年老いたように感じるのではなく、実際に年老いた。
なぜなら、野菜の味は一朝一夕で変わるものではないからだ。長い年月、毎食いろいろなものを食べ、それらを通じて味覚の経験を育み、はじめて「昔の野菜といまの野菜は、味が違う」と言うことができる。すくなくとも20歳のころ、わたしはそんなことを考えもしなかった。
いま食べた白菜の味と、昔食べたそれを引き比べるとき、わたしたちは食卓のうえに、堆積した時間を見る。生きることは、食べること。だから、それらはこれからも積もりつづけるだろう。
当然、時間はわたしたちの上だけを過ぎるのではない。夫婦差し向かいの食卓には、人々が好む味の変化、品種改良の努力、土壌の改良、流通の変化など、そういった「歴史」も堆積しているのだ。
淡白な白菜といっしょに、わたしは老いの実感と時間の流れを咀嚼する。旬の味わいとともに、わたしはそれらも飲み下す。その複雑な味わいこそが、年を取る、ということなのかもしれないと思いながら。
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初出 Misskey.design 2023.02
画像はぱくたそからお借りしました。
白菜の表面をこんがいと焼くのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20170203044post-10366.html