母の体調がすぐれないというので、週末、実家へ帰る。
食欲はあるという母のために、料理を作ることになった。
母はひとり暮らしになって4、5年経つが、
それまでずっと家族の食卓を支えてきた。
誰かのために料理を作りつづけてきた彼女は、
自分のためだけに作るミニマムな献立に、
いまだに戸惑っているように見える。
いい加減な料理を覚えると、のちのち楽かもしれないと思い、
我が家の人気料理、キャベツのごま塩鍋を作る。
レシピはこちらから。
ざくざくキャベツを切れば、サクッと作れる簡単鍋だ。
夕飯には、帰省していた兄も同席した。
ふだん、2人用の料理に慣れているので、3人用となると勝手がわからない。
キャベツを1玉使いきり、水菜やらしいたけやらの野菜を入れてかさ増しをした。
「ほうら夕食だよ」と、鍋のふたを開けてみたものの、
実家のダイニングに置いてみると、それはひどくみすぼらしく見えた。
緑系野菜ばかりで彩りはなく、表面積の9割を占めるキャベツの切り方は乱雑だ。
母は「おいしい、おいしい」と食べてくれたが、
わたし自身は、いつもどおり「おいしい」と感じることができなかった。
家族とはいえ、兄も母も、生計は別だ。
それぞれに、暮らしがある。
兄は何事にもきちんとしている兄嫁の料理を毎日食べている。
母はこの食卓を、4、5年前まではさまざまな料理で彩ってきた。
いまは、「ずいぶんいい加減になったわ」と言っているが、
職場へ持っていくお弁当が、
「アスパラの肉巻きににんじんのグラッセ、ほうれんそうのお浸し。
毎日毎日一緒なのよ、恥ずかしい」と言っているので恐れ入る。
まったくもって、きちんとしているではないか。
かく言うわたしは、実家を離れて20年。
ひとり暮らしのいい加減料理から、
共働きの簡単料理へとグレードアップかダウンかわからない変遷を経て、
いまに至っている。
実家で作った「キャベツのごま塩鍋」を、
夫は「野菜もたっぷりとれるし、いいねえ、おいしい、おいしい」と
食べてくれる。
けれど、外に出すと、なんだか恥ずかしい。
「平服で」といわれたパーティー会場に、
ひとり、着古したジーンズとTシャツで行ってしまった気まずさ。
いや、お母さんの料理が大好きな子どもが、
「うちって毎日ごちそうが出るんだよ!」と自慢して友達を家に招き、
次に友達の家に遊びに行ったら、本物のごちそうが出てきた。
あっ、もやしと挽き肉のカレー炒め、わたしは大好きだけど、
よそではごちそうとは違うんだと悟る。
ごちそうって、鶏肉のソテーとか、こういう料理のことをいうんだ。
そんな恥ずかしさに近いかもしれない。
つまり、なまなましい暮らしの部分で、
夫は「内」の人間で、母と兄は「外」の人間なのだ。
そのことを身をもって感じたできごとだった。
自宅に戻り、忙しい平日、かろうじて肉を買い、キャベツをザクザク切って、
「キャベツのごま塩」を作る。
実家でこの料理を作ったとき、こんなことを感じたんだ、と夫に話す。
なんだかしょんぼりしちゃってねえ、と言うと、
「内」の人間であるところの夫は、
「ええっ、そうかなあ。だって、これ、おいしいよ」と
ニコニコしながら箸を進め、
「あっ、肉、これで終わりだったね……。食べちゃった」と申し訳なさそうにした。
それにしても、我が暮らしは「外」がなさ過ぎるのかもしれない。
人を招くこともないし、ごくまれに持ち寄りするときは、どこかでお惣菜を買っていく。
たまには「外」の風に当たらなければ。
実家での食卓を思い出すと、そんな必要性を感じるのだった。