※本記事はmeeさん主催「小説を書く人のエッセイ Advent Calendar 2024 - Adventar」
12月8日担当の記事となります。
秋のはじめの日曜の夜に、夫が倒れた。と書くと大げさだが、ほんの一瞬だけ意識を失ったのだった。
きっかけは、出先で夫がけがをしたことだった。ちいさな傷は存外深く、血はなかなか止まらなかった。その場では傷を水で流して消毒し、応急処置をして帰宅した。
異変が起きたのは、その数時間後。ばんそうこうをはがし、あらためて消毒していたときだった。
「あ。気分悪い。貧血みたい」
夫はそう言って、椅子に座ったまま頭を垂れた。視界に砂嵐がかかったようになっているというので、「すこし治まってからベッドへ行こうね」と言い含めた。肘をついたまま、手がけいれんのようなおかしな動きをしていたので握ると、てのひらがひんやりして、じめっと汗をかいていた。
夫が昏倒したのは、ベッドへの移動の途中、廊下でのことだった。わたしのほうを向いたまま、夫がゆっくりと後方に倒れたのだ。無意識下にあっても頭を守ろうとしたのか、それは腰を落として倒れていくようなゆっくりとした動きだったが、とっさのことで、わたしには夫の体を支えることはできなかった。
仰向けに倒れた夫は、口をただ開閉して、手をビクビクと震えさせた。目は開いたままで、眼球が落ち着きなく動いていた。
夫が意識を失っていたのは、時間にして1分もなかったと思う。まもなく視線を取り戻した夫は、ふつうのことを言った。「明日は朝から会社だから」とかなんとか。
「だいじょうぶ?」
「何が?」
「いま、倒れたんだよ」
「うそ。ええ……そういえば、俺、寝転がってる、こんな廊下で……なんでだろう」
夫いわく、机で頭を垂れているあたりから記憶がない。ただ、意識の中では、今まで、ずっと何か考え事をしていた、ということだった。
「思い出せないけど……。ふつうなんだよ。明日の仕事がどうとか、そういう、ふつうの考えごと。だから、時間が突然飛んだ感じ」と説明し、「びっくりした。俺、今、寝転がっている」とまた言って、ふふ、と笑った。
また倒れると怖いので、しばらく廊下に寝転がってから、匍匐前進をしてベッドまでたどりついた。
「たぶん、迷走神経反射ってやつだろうね。傷がきっかけになったんだよ」
わたしはスマートフォンで検索しながら言った。平時に考えれば、「とりあえず救急相談センターに電話すべき」事態だったのだが、やはり正常化バイアス、というものがあったのだろう。
「眠れるかな」
「とりあえず、横になっておきなよ」
異変があるといけないと思って観察しているうちに、夫は寝息をたてはじめた。寝息は規則的で、顔色も悪くない。うん、なんとか大丈夫そう。心の奥底の動揺をなだめ、言い聞かせる。
電気を消し、暗い部屋で夜間の救急相談の番号をメモアプリに控え、「意識 急になくす」などを検索しながら、時折、夫の横顔を見る。スマホのバックライトにかすかに照らされたその顔は、とりあえず、安らかだ。
わたしは上掛け布団にそえられた夫の手を、そっとなでる。なめらかな肌。骨ばった、腱がよくわかる手の甲。夫の寝顔を、ふたたび見る。まっすぐに天井を向いた顔の真ん中に、スッと鼻筋が通っている。
いつか夫の横顔をきれいだと言ったら、夫は義父が亡くなったときの話をしてくれた。棺に横たわる義父の鼻筋を見て、夫は「きれいだな」と思った、というのだ。結婚前に亡くなったため、わたしは義父とは会ったことがない。
親と似ている、似ていないの話をすると、夫はいつも、「オヤジはカーチャンパーマみたいなくせっ毛だったけど、俺はそれほどじゃないよ」という。それでも、食卓で向き合う夫の頭のてっぺんは、髪がどこかフワフワとしていて、やっぱりちょっと似ていたんじゃないの、と思う。
父から息子へ受け継がれたもの、受け継がれなかったもの。それらにこの先がないことを思う。わたしたちには子どもがいないからだ。夫の手の甲、浮き出た腱をそっとなぞる。この手の甲を受け継いだかもしれない、ぜんぜん似なかったかもしれない、そんな存在を思う。
暗い部屋の中で、「子を持たぬ人生」への諦念が胸にゆっくりと沈殿していく。一年ほど前までは、わたしをひどく悩ませたその澱が、胸の内の柔らかいところに、ゆっくりと静かになじんでいく。
夫もいつか、義父と同じところへいく。それがわたしより先なのか後なのかはわからない。けれど、思っているより遠いことではない。その実感が、ひたりと張りつく。
そして思い出すのは、結婚したばかりの夏の日のことだ。健康診断の結果、大腸の再検査が必要となった夫は、はじめての腸管洗浄液を飲み下していた。そのころ住んでいたのは、南向きに大きな窓が開いた部屋で、暴力的なまでに明るく、暑かった。
「こんなに飲めないよ」
珍しく、夫が弱音を吐いた。
「でも、飲まなきゃ」
ふたりとも、ひどく気持ちがせいて、不安だった。わたしは「夫の体にほんとうに異常があれば、きっとこのときのことを思い出すのだろうな」と思った。結果としては、大腸内視鏡検査は異常なし、と出た。ほっとしたわたしたちは言い合った。
「まあ、まだ若いしね。大丈夫だよね」
新婚時代の夏の日、ずっと先にあると思っていたもの。今は近づきつつあるもの。
夫の手の甲をなぞる。年のわりにはまだまだ張りがあってみずみずしい肌。この手の甲にもやがて皺が刻まれ、乾いていくことだろう。その日を思いながら、わたしは夫に触れている。この肌の感触を、夜のことを、記憶に刻もうとしている。
日曜が終わり、また月曜がやってくる。わたしたちは一緒に、すこしずつ老いていく。
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画像はぱくたそよりお借りしました
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