平凡

平凡

文学フリマ東京37、出店無事終了。ありがとうございました。

告知しておりましたとおり、11月11日文学フリマ東京に出店しておりました。

当日は、このブログを読んでくださる方もいらしてくださって、感動しました。ありがとうございました。

なかなかブースを離れられず、ブログ記事を収録していただいた「はてなブログ文学フリマ本」は入手できず。残念。後日、PDFが配布されるとのこと。同じテーマで書かれた、他の方の記事を読むのが楽しみです。

ありがたいことに、用意したものはエッセイ本、短編小説集、無料配布物にいたるまで、全部なくなりました。ただ、これは数を見誤ったなあ……という側面が大きいです。もうすこし、数をつくればよかったです。わたしは「多くの人に作品を知ってもらいたい」と思って物理本をつくり、出店したので、閉会の2時間半以上前に完売したのは明らかに機会損失であり……。

そしてもうひとつ失敗したのは、「自分の分を手元に残す」ことがすっぽり抜けていたこと。発行物はなにひとつ自分の手元に残っていません。

通販用に再版予定なので、忘れず手元に残したいですね!

 

出店にさいして、

 

・初の同人誌づくりで、人の手を借りまくったらすごくよかった件

・告知まわりをどうしたか

・誰も教えてくれない刷り部数の目安

・コピー本づくりの(物理的な)むずかしさ

・即売会の緊張感苦手人間がブースに入ってみてどうだったか

 

などなど、トピック別に書きたいことがあるのですが、おいおい。本日は当日の雑感を。

 

ブース内に立って感じたのは、文学フリマの来場者は、みんな「何かおもしろいものを買いたいな」と思って来場していること。「買う」モチベーションがとても高い!

ブースに視線をくれるお客さんは、完売後は明らかに減りました。

 

今回、エッセイブースは数がめちゃくちゃ多かったんです。開催前は「レッドオーシャンだ!」と不安でした。実際に体験すると、これは人気ジャンルということでもありました。多くの人に自分の作品もついでに見てもらえるので、悪いことばかりではなかったです。他のエリアのピークは見ていないのでわかりませんが、「いっぱいいるから埋もれちゃう」的な不利さは感じませんでした。

 

刷り部数を中心に、後悔していることはあります。一方で、できるだけのことをやったな、という自負もあります。全部、出店してみたから得られたことでした。出店してよかったです。そして、2回目出店するとしたら、そのときはまた、違った模索があるでしょう。

 

「はじめまして」の読者との出会いとともに、冒頭に書いたようにブログの読者の方が来てくださったり、Misskeyで交流がある方が来てくださったり。差し入れもいただいてしまい……。読んでいただいていること、支えられていることを感じた一日でした。

 

ブログを書きつづけてきてよかった。ネットでの活動をつづけてきてよかった。

 

今後も、いろいろ書いていこう。そんな思いを新たにした日でもありました。

あらためまして、ありがとうございました!

本日開催、文学フリマ東京37に出店します

今日はいよいよ #文学フリマ東京

さんざん告知しておりますが、あらためましてお知らせです。

サークル名「丸毛鈴の結婚と生活」

第一展示場E-27で出店します!

 

以下を持っていきます

 

このブログでも書いているようなエッセイ集

『丸毛鈴の結婚と生活』800円 102ページ 文庫サイズ

再録中心ですが、ブログ以外の発表作品もあり

 

短編小説コピー本

『たとえ何ひとつ叶わなくても』

200円 24ページ A5版

カクヨムなど発表した短編4篇収録。

 

無料配布のペーパー

書き下ろしエッセイ付き

 

詳細はリンクのWebカタログに!

気軽にのぞきにきてください!

お待ちしております。

 

11/11() 12:00〜開催

東京流通センター第一展示場

https://c.bunfree.net/e/asn

「はてなブログの文学フリマ本」に掲載されますッ! ありがとうございます!

 

11月11日開催の文学フリマ東京。

そこには我らがはてなブログも出店し、「はてなブログ文学フリマ本」を無料配布します。

その収録作に、この「平凡」の応募記事も選んでいただきました。

以下のブログ記事です。

わたしがブログを書く理由。 - 平凡

 

この文学フリマには、わたし自身サークル出店することを決めております。

リアルイベント初出店で力が入っているだけに、「文学フリマ本」に収録していただけるのは感激もひとしお。

文学フリマに行かれる皆さま、ぜひお手にとってくださいませ!

はてなブログのブースはA-49〜50です。

c.bunfree.net

 

はてなブログのブーストわたしのブースはまあまあ近くにございます。

参加者の皆さん、ぜひお立ち寄りくださいませ。

E-27 サークル名「丸毛鈴の結婚と生活」

サンプルとお品書きもアップいたします。読めますでしょうか?

新刊のエッセイ本はサークル名と同名『丸毛鈴の結婚と生活』。

覚えやすいですね。

Webカタログは以下でございます。

 

丸毛鈴の結婚と生活 [文学フリマ東京37・ノンフィクション|エッセイ・随筆・体験記] - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

お品書きです

サンプルです 1/2

サンプルです 2/2

『丸毛鈴の結婚と生活』表紙は冬野さん(Xアカウント@fuyunon0)。

組版は魚野れんさん(Xアカウント @elfhame_Wallen)にお願いしています。

 

仕事がぜんぜん終わらないうえ、短編小説集も持っていきたいな(再録予定だが何一つ作業していない)と思っており、ついでにいうとコイントレーも敷き布もまだ用意できていません。

当日はぜひ文学フリマ東京 東京流通センター第一展示場 E-27 でお会いしましょう!

おそらく疲れ切った顔をしていると思いますが……!

 

できあがった同人誌。さわり心地もすごくいいんですよ……!

 

11月11日文学フリマ東京に出店しますという告知と、名義変更のお知らせ

急に寒くなってまいりました。といいましても10月ですものね。秋です。  

秋といえば、11/11(土)に開催される「文学フリマ東京37」に出店します。

   

開催日程 11/11(土)12:00〜17:00    
会場    東京流通センター 第一展示場・第二展示場

ブースは第一展示場 E-27 

サークル名「丸毛鈴の結婚と生活」

 

こちらでは、このブログやMisskey.designに発表した文章を加筆修正したものに、新作数本を加えたエッセイ集を持っていく予定です。

ご来場予定の方いらしたら、ぜひブースに遊びに来てください!

よろしくお願いいたします。

 

サークル名は「丸毛鈴の結婚と生活」と奇妙なものですが、こちらの「丸毛鈴」がわたしのペンネームとなります。

こちらではハンドルネームがあるようなないような状態で、「平凡」と名乗っておりましたが、これを機に創作の名義を一本化。

カクヨム、Misskey.designに生息している丸毛鈴と同一人物です。

以後、丸毛鈴ということでお見知りおきをいただければ!

 

今年で、ここはてなブログで書き始めて8年になります。ブログで、カクヨムで、Misskeyで書き、そのつど新たな発見と学び、そして得がたい出会いがありました。

新たな場所には、新たな出会いがある。

次は、リアルイベントで新たな書き手、新たな読者と出会えたら。

そんなことを考え、はじめてリアルイベントに参加することにしました。

一年前まで、自分がこんなことを考えるなんて思ってもみませんでした。

物理的な同人誌を作るのもはじめて。

いま、いろいろな人の力を借りながら制作中です。

 

そんなわけで、今後とも丸毛鈴を、よろしくお願いいたします!

この世に恐ろしいものなどない。そう錯覚させてくれるのは、猫の寝息なのだ

保護猫カフェにて。

 

ごろんとあおむけになり、猫ちゃんが寝ている。手を顔のあたりに当てており、たいへん愛らしい

写真はお借りしたもので、文章中の猫とは無関係です

 

背の低い棚の上で、猫が寝ている。からだを伸ばし、前脚と後ろ脚をそれぞれクロスさせ、天板にぺったりとほおをつけて。ハチワレ猫のおなかは白く、からだの中でもひときわやわらかそうな毛に覆われ、ふくふくと上下している。

 

起こさぬようにそっとそっと、首のあたりをかいてやる。刺激に一瞬、ぴくりとなったものの、害意がないと悟ったのか、すぐにからだをぐいーと伸ばしてまた弛緩する。

 

すう、すうと寝息が聞こえてきそうなピンクの鼻。今度は額をかいてやると、すこし目が開く。起こしてしまったかと心配したけれど、その瞳は瞬膜に覆われているのだった。起きているときは、ビー玉のように完璧な弧を描く猫の瞳。それを保護しているのがこの瞬膜なのだっけ。

 

やがてハチワレ猫は、白い前脚を折りたたんであごを乗せる。今度こそ起こしてしまったかと思いきや、まだ白い腹は規則的にゆっくりと上下しているのだった。からだを丸めることもなく、人間の気配におびえることもなく、あたたかなからだはのびのびと。こまぎれで、一回一回は人間よりもずっと短いはずの眠りに身をまかせるその姿。
充足。
猫自身がどう思っているかはわからないけれど、そんなことばが浮かぶ。

 

ふたたび、首のつけねをゆっくりと丁寧に、かくようになでる。いま、このとき、ここには脅威はない。それをよく知るちいさな命が、目の前で眠っている。その安堵に、まどろみに、こちらの心もゆるんでいく。人生はそれほど怖いものではない。そう錯覚する一瞬がある。指から伝わるあたたかさに眠気を誘われる。

 

できればこの寝息を、家で聞かせてくれないか。わたしが眠る布団の上で、枕元で、あるいはお気に入りの座布団の上で。食って遊んで眠って満ち足りる。その生きざまを、間近に見せてくれないか。猫といっしょに目を閉じて、ふわふわの毛をなでながら、わたしは起きながらにしてそんな夢を見る。

 

*画像はぱくたそからお借りしました。

「ゴロ寝中のにゃんこのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20190218051post-19646.html

平凡な暮らしを、平凡に書く。それだけのことが、きっと

最初は、結婚生活を記録したかったのだと思う。

晩婚と呼ばれる年齢になってから出会った夫との暮らしは穏やかで、「平和な結婚生活」など想像したことがなかったわたしにとっては、驚きと喜びに満ちていた。

その喜びは、平凡な営みの中にあった。会社勤めの夫と朝ごはんを食べ、寝ぼけまなこで送り出して在宅仕事のわたしは家で一日働き、帰宅した夫と夕飯を共にする。夫の会社の上がりが早い日は、駅前で待ち合わせて町場の中華を食べることもある。休日は並んで散歩して、ちょっとした季節ごとの変化について話し合う。

でも、そういったことは、三日も経てば忘れてしまうから。せめて、覚えておきたかったのだと思う。だから、ブログをはじめた。第一回のタイトルは、「結婚したって実感した」。散歩で訪れる近所の池で見かける蛙の姿に四季の巡りを感じ、《今年も来年も再来年ももっと先も、こうやってこまごまとした変化をふたりで感じていく。そんな平凡な未来像が、鮮やかに私の中に浮かんだ。》と書いている。

いまでも、あの池に蛙がたくさんいたことは覚えている。が、記事に書いたように、初秋にちいさな蛙が一匹跳ねていたなんて細部は忘れてしまっている。何より当時のわたしの胸に満ちていた、「これから繰り返されるであろう未来」への期待のみずみずしさ。ブログを書いていなかったら、絶対に忘れ去っていただろう。

 

ブログをはじめて八年。ときどき過去に書いた記事を読み返すと、「書いておいてよかった」としみじみ思う。池で見たちいさな蛙の姿のように、いまでは忘れてしまったディティールや感動に出合うことができるからだ。

 

とはいえ八年も書いていれば、更新間隔が開くこともあれば、何かに取り憑かれたように毎日更新をがんばっていた時期もあった。そのつど、さまざまなことを書いた。時事や暮らしで気づいたハウトゥについて書いたこともある。それでもそのすべてが、わたしの平凡な暮らしの一部なのだ。ブログのタイトルが「平凡」なのだから、それでいい。

 

そうやって八年、書きつづけてきた。

 

ところでこの文章は、文学フリマ東京37で配布される「はてなブログ文学フリマ本」に応募するつもりで書いている。わたし自身、この文学フリマには、サークルで初参加する予定だ。このブログに書いている内容を新規参入したSNSに流したところ、ほめられたことがあった。「新しい場には、新しい書き手、読み手との出会いがあるのではないか」と考えるに至り、リアルイベントへの初参加を決めた。ブログを書いていなかったら、起こり得なかったことだった。

 

平凡な暮らしを、そのままのサイズで、平凡に書く。できるだけそのときの感興を覚えておけるように、ことばを選びながら。それだけのことが、きっとわたしを遠くへ連れて行ってくれる。新たなものを見せてくれる。その胸の高鳴りを忘れたくなくて、やっぱりわたしはここにこうして書いている。

 

くしくも文学フリマが開催される十一月は、ブログの開設月だ。九年目も、日々の喜びを綴っていく。

 

特別お題「わたしがブログを書く理由

「子どもがもてない」ことに対する、今のところの帰結

ゴールデンウィーク初日。

スマホを開けたら、知人からの「いろいろあって確実に産めるまで伏せていたけれど、実は妻が妊娠しておりまして……無事、子どもが生まれました」報告が目に飛び込んできた。

速攻で「おおおお、おめでとう!!!!」とメッセージを送って、「子どもめっちゃかわいいです」って文面見ながら、「わたしにはそういうことは一生起きないんだな」と思ったら悲しくなって、びっくりした。

びっくりしたのは、悲しくなったことじゃなくて。「わたしは子どもを持つことがない」「それが、悲しい」と、そのふたつを連続して、ちゃんと自覚できたことに驚いた。

知人や友人が妊娠・出産するのは今も昔もうれしいし、めでたい。お子さんの写真入りの年賀状やフェイスブック投稿も大歓迎。
「あのちっちゃかった赤ちゃんが、いまや雲梯を!?」と、すくすく育っているのを見られると幸せな気持ちになる。

友人たちにも、子どもたちにも、健康で、幸せでいてほしい。街中では親子連れを見たら、できるだけ手を貸したいと思う。

 

それは変わらないのだけれど、少し前のわたしは、友人の子の誕生を心からうれしく感じたあとで、混乱してしまうことがあった。
他人と自分の事象は切り離しているのだけど、こと「自分」の悲しさがコントロールできなかった。

いまならわかる。

「わたしは子どもがほしい」とはっきりと認められなかったし、「子をもつことがない」ことも受け入れられなかったからだ。もともと、絶対に子どもがほしいタイプでもないから、なおさらややこしかった。

不妊治療をバシバシにやってこれなら言い訳もたつ。

でも、わたしは病的な怖がりだ。最近では産婦人科の内診で過呼吸になりかけたこともある。性的なトラウマがあるわけではなくて、歯医者でも同じような感じ。

 

なにより、わたしにはどうしても「子どもを100%望んで医療行為を行う」ことができなかった。
いまや不妊治療はあたりまえで、人の話を聞いても「成功しますように」としか思わない。
しかし、いざ自分ごとになってみると、それはまぎれもなく生命倫理を問われる問題だった。
それを乗り越えるためには、「絶対に子どもがほしい」強い気持ちが必要だ。

そして「絶対に子どもがほしい」気持ちが必要な不妊治療は、成功の可能性は極めて低い。

わたしには何もかもが受け入れられない。

それが根性なしの限界だった。

 

夫の温度感も同じようなものだった。

夫婦で話し合い、「不妊治療はしない」「自然にまかせる」と決めた。年齢や今までの経緯を考えれば、それは妊娠はあきらめる決意とニアイコールだった。

しかし、ニアイコールはニアイコール。心のどこかでは、子どもを持つ人生をあきらめきれない。

 

わたしたちは大の猫好きなので、「子どもをあきらめたら猫を」と話していたのだけれど、それも「たられば」だからできた話。
現実的には、わたしのアレルギーを考えるとそれも難しい。数値はかなり高く、猫カフェに行くとマスクをしていても症状が出る。実家では猫と暮らしていたこともあったのだけれど。

 

そんな情けない自分の話を軽い気持ちでエッセイにしたためたら、あっという間に精神のバランスを崩したのが一年前。
半年様子を見てもあまり状態がよくならなかったので、以前お世話になっていたカウンセラーの先生を予約したのが秋のことだった。

子どもも猫も、問題は変えられない。

「どうしたらいいんですかね、これ」と問うと、「それを持ち運べる形にしていきましょう」と先生は言った。

それから半年、いろんな話をした。生育環境の話から、まったく関係なく思える仕事の話、創作の話。

カウンセリング料はわたしにとって、安くない。

はっきりとした症状が出ていない状態で通うのはムダじゃないのか? と思ったことは何度もある。

けれど。

いま、はっきりことばにできた。わたしは子どもがほしかった。でも、もてなかった。それが悲しい。というか、わたしは何より、夫の子どもが見たかった。夫に子どもを抱かせたかった。だから、女性よりも男性からの「子どもが生まれました」報告に動揺する。

ちゃんと育てられるか自信はないけど、子どもを育ててみたかった。でも、それはかなわない。そのことが、悲しい。

悲しい。けれど、心のどこかで、「子どものいない人生」を受け入れようとする音がする。気配がする。

きっとこの悲しさは薄れはしても、消えることはない。でも、それがわたしの人生なのだ。

 

カウンセリングに通ったことは、無駄じゃなかった。自分と向き合い直したことで、自分のことが前よりわかるようになった。

それはたぶん、創作やコミュニケーションにもよい影響を及ぼしている。「子どもをもつ」とか「小説書く」とか、それぞれ別物に見えるけれど、人生は全部が全部、人生だから。

 

悲しみが、わたしの胸の奥底で震えている。夢見たことはもう起きないと告げている。
でも、わたしにはそれが「わかる」。「そうだね」と答えることができる。「わたしはそれが悲しい」と口にすることができる。

 

消えない悲しさをよいしょよいしょと整える。

コンパクトに収納して、取っ手をつけて。

持ち運べる形にしたそれを、しっかり抱いて運んでいく。

人生はそうやって、進んでいく。