犬の本を出した。
イラストと短文で、保護犬であるうちの犬の来歴に思いを馳せる……というZINE(同人誌*1)だ。
正確には、イベントに印刷が間に合いそうになかったのでコピー本になったのだが、とりあえず文章とイラストを制作し、組版をして一冊分のデータは完成させた。
制作に着手したときは、気楽に考えていた。「文章の内容はだいたい頭にあるし、うちの犬の絵ならだいぶ描き慣れてきた。なんとかなるだろう」と。
が、文はいいとして、絵に関しては大きな壁にぶちあたった。
それは、お絵描き初心者のわたしには、「こういう内容の絵がほしい」と、オーダーに沿って絵を描いた経験がないことだった。
わたしはこれまで、「うちの犬のこの姿がかわいい!」「これなら描けそう」と考えて、気ままに犬の絵を描いてきた。好きなものを好きなように描くだけだから、上手く描けなくても、実力不足で描き上げられなくてもいっこうに困らなかった。


が、ひとつの筋にそって絵を用意するとなると、そうはいかない。「散歩中、左折してきた車に、犬がひどくびっくりしてフセの姿勢をとった」という内容の場合、最低限、犬がフセているところを描く必要がある。一目で伝わるのが理想だから、できれば左折してくる車だって描きたい。
頭の中にはイメージがある。視点は人間で、リードの先で犬がフセをしていて、そのさらに先に車が曲がってきていて……。
しかし、わたしは犬がフセをしたところを後ろから描いたことがない。とはいえ、これはなんとかなる。資料となる写真を撮りまくって、何回か鉛筆描きで練習すればよい。問題は車だ。わたしは車どころか工業製品全般、ほとんど描いたことがない。

あきらめて犬がフセをしているところだけを描くか……? しかし、それではいまひとつ臨場感が出ない。そこで、まずは車の模写をして何度か練習してから、デザインの権利上問題がない「架空の車種」を描いてみる。
動物や人間は、ある意味でソフトな画題だと思う。あまり実物に似ていなくても、印象が表現できていればそれなりに見える。しかし、車は車だ。誰もが見慣れているもので、しかも印象のブレがほとんどない。
車は描きたくない。どうやっても上手くは描けない。しかし、描くしかないので、できる限りの力で描く。
車ほど難しいわけではないけれど、「犬が突然のどしゃ降りにびっくりして、低木の下で雨宿りをした」をいざ描こうとすると、「どしゃ降り」や低木をどう描けばいいかわからない。また、このシーンは記憶の中にしかないから、犬の表情は、資料なしに描かねばならない。
そういうことが、ほぼ全ページにあった。一枚一枚、文章に合わせてどんな絵があるといいか考え、それを自分の力でどこまで表現できるかを判断しつつ、モデルとなる写真を探したり撮影したり、描いたことがないものを練習したり。
ひぃひぃ言いながら、一枚、一枚を仕上げていく。しかし、楽しい。苦しいけれど、楽しい。犬のしっぽを描きながら、「ああ、このときのしっぽの上げ方がかわいかったんだよなあ」と嚙みしめる。犬がわたしを見上げている絵では、瞳にハイライトを描き入れながら、目と目が合ったときのよろこびをふたたび味わう。

楽しい、いとおしい、苦しい、上手く描けない。楽と苦の比率は2対8ほどだ。しかし、描く対象がうちの犬だから、前に進める。
やがて、描き進むにつれてある渇望がわきあがってきた。
――うちの犬の姿を、「この子はどこから来たのかな」と思わず想像してしまうささいな仕草を残したい。人に伝えたい。
それが大きなモチベーションとなって、なんとか17枚の絵を描き上げることができた。
正直、うちの犬以外のテーマでは、イラスト+文章というスタイルで本は出せないな、と感じた。

この経験でもうひとつわかったことがある。わたしがキャラクターイラストを上手く描けない理由だ。
キャラクターイラストが上手な人には、「好きなキャラを描きたくて必死で練習した」「このカップリングを自給自足したくてがんばった」「その結果、オリジナルキャラクターも含めて今のように描けるようになった」と語る人が少なくない。
わたし自身はジェスドロ(人間の動きから受ける印象をすばやくとらえる練習法)を1年ほどつづけており、「人間を描く練習をしているのだから、もう少しキャラを描けてもいいのでは」と期待するのだが、てんで上手く描けない。顔や表情を描くのが苦手。なんだかダサいとしか言いようのない体形になってしまう。線のつたなさが丸わかりになる……。
たまに練習を兼ねて商業作品のキャラクターを描いてみるものの、その複雑さ、高度に設計されたデザインに驚くばかりで、「描いて楽しいな」とはならない。
わたしにだって、好きなキャラクターがいる。ことに物語にちょろっと出てきて出番を終えてしまったキャラクターに関しては、もしもキャラクターイラストが描けたら、新しい姿を自給自足できるわけで、そうなれたらすてきだなあと思う。
しかし、それはあくまで「そうなったら便利だなあ」程度の気持ちなのだ。「このキャラのその後を見たくて見たくてたまらないし、頭の中には明確なビジョンがある! 出力しなければはちきれてしまう!!!」といった渇望ではない。
上記はあくまで自分自身になぞらえたたとえだが、キャラクターイラストを熱心に練習し、上達していく、もしくは上手く描いている人たちの多くには、何かしらそこに「熱」があるのではないだろうか。燃えたぎるもの、渇望、願望、愛、飢え、欲望、そういったもの。
わたしには、キャラクターに対してそういったものがあまりないのだなあ、とあらためて思ったのだった。「このキャラのその後を見てみたい」と思っても、公式が出しているものだけでけっこう満足してしまう。二次創作的な想像力の広げ方ができないので、「自分で描いて/書いてやる!」とも思わない。
わたしは小説も書いているので、自作に登場するキャラクターを描きたい気持ちはなくはないが、頭の中にある像はずいぶんぼんやりしているし、「できれば文章から、読み手に自由に想像してほしいなあ」という気持ちが強いタイプの書き手だ。
なので、「キャラクターイラストって何すりゃ上手く描けるの~」とぼやいてばかりいるし、顔の描き方練習本を買っても投げ出して、リアルな人間をモデルに、全身を描くジェスドロばかりをやっている。

それがうちの犬になるとどうだ。上手く描けなくても描く。必死に観察して、その細部を、線で写し取ろうとする。しかもそれが楽しい。
成果物が良いものであればうれしいが、それは(比較的)二の次。線を引くたび、うちの犬の魅力が感じられること、つまり描いている過程にしあわせを感じる。
おそらく、キャラクターイラストが上手い人は、それと同じような感覚をキャラクターに抱いたことがあるのではないだろうか。
もちろん絵を描く人それぞれに歩みがあり、モチベーションがある。上記の「キャラクターイラストが上手い人は~」のくだりは、わたしの想像にしかすぎないし、「そんなんじゃない」という人もたくさんいると思う。幼少期から絵を描いている人のほとんどは、そんなことは考えずに手を動かしてきたのだとも思う。
「好き」や「情熱」は必ずしもことばにする必要はなく、心の中に自然とあるものだし、ある段階にきたら、「好き」なことは、「好き」と単純に言えないものになっていくことも多い。
いずれにせよ、犬についての本づくりを通じて、人それぞれに情熱のありかがあるのでは、とわたしは考えたのだった。そして、わたしにとっての情熱のありかは、いまのところ「うちの犬」なのだった。
絵の初心者へのアドバイスでよく言われる、「好きなものを描きましょう」。正直、最初はよくわからなかった。好きなキャラを描いてもいまひとつ楽しくないし、つづかない。「おっぱいを描きたい!」「手を描きたい!」といった強いフェティシズムもない。でも、動物を描くことやジェスドロは楽しいし、つづいた。そしてうちの犬の絵なら、難しいものも描こうかなと思える。それが「好きなものを描く」ということなのだろうと、やっとわかった気がする。
でも、こういうことは手を動かさないとわからなかった。
自分は何が好きか。何に情熱をかたむけられるか。いま、自分の心のど真ん中にあるものは何か。絵を描きつづけると、それがわかる。それは旅に似て、とてもおもしろいな、と思う。
というわけで、11月8日の文学フリマ東京43では、このような過程を経て制作された「君はどこから来たの」の印刷所で印刷、製本したバージョンを販売予定です。

おとなの保護犬であったうちの犬は、保護されるまでどこでどんなふうに生きてきたのかな? を考える内容です。
イベント後には通販も予定しておりますので、ぜひぜひよろしくお願いします!!!
※前提として、わたしは2024年3月から突然絵を描きはじめたお絵描き初心者です。
詳細はこの記事に。
*1:出たイベントがZINEフェス動物だったため、このような表記に
















































