平凡

平凡

これでいいのだ

あいかわらず、ゆるゆるとカウンセリングを続けている。

いろいろなことの底に、結局は昔のことがある。

 

 

たとえば子どものころ。

実家を新築した直後に、家族がバラバラになった。

あこがれていた新しい家は、空っぽになった。

そのせいか、いまだに古い家のほうが、そしてその中身が借りぐらしっぽくあればあるほど、落ち着く。

それはそれでよいのだけど、問題は、「わたしは古い家が好き」と言い切れもしないところだ。

「新築はなんかいやだなあ」「家を建てる人ってすごいなあ」「古い家のほうが落ち着くなあ」とは言えても、「だから、わたしはこんな家が理想!」と言えるものがない。

かといって、「住まいに興味はありません」というわけでもない。

なんらかの理想を抱ける自分でありたい、と思っている。

 

家は人生や暮らしのイメージに結びついている。

わたしの人生は、若いころに思っていたよりも、ずっとずっと落ち着いたものになった。

それはわたしにとって、とても好ましいことだ。

だったらそれに見合った夢を抱きたい。

古い家でも新築でもいいけれど、「わたしはこんな家に住みたい」とはっきりと思い描きたい。

でも、その夢を抱くために必要な何かが、とりあえず今のところは壊れてしまっている。

 

そんなことがいくつかある。

 

子どものころからこの年齢になるまで前進はしてきたけれど、この先のイメージが抱けない、といったところ。

「家」とか「家族」とか書くとごく個人的な話になってしまうけれど、「この先どう生きるか」が見えなくなってしまうのは、中年になったら多くの人が直面する壁なのだと思う。

その壁が、人よりちょっとぬるぬるしていて登りづらいとか、うっすらコーティングされていて壊しづらいとか、「そこに足場があるじゃん」と他人に見える足場が自分には見えにくいとか、そんな感じ。

 

心身の症状がそれほど出ているわけじゃない。

ほかにもっと大きな問題が出てくれば、「なんてちいさなことで悩んでいたんだろう」と思うに違いない。

この年になって、子どものころがどうこうなんて、ダサいなあ。

いまごろ?

しかも、たいしたことじゃないよ。

 

でも、それでいいんじゃないか。

 

たとえば、そういうことを友人にめったやたらと話して困らせてしまう、とか。

ちょっとした傷をアイデンティティに結びつけてしまう、とか。

そういうことがないのであれば、いいんじゃないか。

 

こうやってブログで発信しているのはどうなのか、というのは判断がつかないけれど。

 

大きな問題が出てきたとき、「ちいさな悩みだった」と悟ったとしても、そのちいさな悩みはなくなるわけじゃないのだ。

平時だからこそ、穏やかだからこそ、自分の底にあるものが見えている。

その状態は、そうそう愚かなことでも、悪いことでもないのではないか。

 

子どもがいない人生も、近いうち受け入れる日がくるんじゃないかなと思う。

ちいさくてあたたかい、猫を抱けない人生も*1

夫の子どもを、夫に見せてあげられなかった悲しみは、どうなるのかな。やっぱりいつか、穏やかに受け入れていくんだろうか。

 

カウンセリング代は正直、安いものではない。

お金を払って何してるんだろうと思うことはままある。

わたしの場合、投薬など受けておらず、わりかし健康なのでなおさらだ。

 

でも、カウンセリングを受けなかったら、「これでいいのだ」と思うことはなかった気がする。あるいは、思えるのが10年は遅くなったのではないか。

 

ブログにふっと「子どもをもつことについての本音の話」なんて書かなかったら、揺れている自分に気づくのは、もっと遅くなったのではないか。

 

まどいながら、ゆるゆると人生はつづいている。

ゆっくりとゆっくりと、でも、確実に動きつづけている。

それがわたしの人生なのだろう。

だったらそれでいいんじゃないか。

 

最近ふと、子どものころの負の感情に突き当たることがある。

それは、固くて黒い。

ああ、まだこんなところにあったんだ。

起きたことはたいしたことじゃない。

もっとたいへんな目にあっているひとはたくさんいる。

でも、わたしは嫌だったんだね、怖かったんだね、と思う。

家族はみんな必死で、だから誰もが相手に手を伸ばせなかった。

でも、誰かに助けてほしかった。

 

いつか、「これでいいのだ」と言い切れるといいな。

揺れながら、春を待っている。

 

***

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斜面にて春を待つスイセンの芽 - No: 23683520|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

*1:いろいろな理由で家と猫のイメージが強固に結びついているものの、わたしは諸事情で猫とは暮らせない

目医者

眼科へ行く。

視野検査のためである。

もともと10代前半から、眼科の定期通院が必要な身だ。そこに視野検査が加わったのは、30代前半のころだった。

 

「こういう人は緑内障になりやすいから、定期的に視野検査しましょうね」

 

それから10年経って、まわりはみんな「1年に1回ぐらい、視野検査はしたほうがいいらしい」と言うようになった。

40代になったら、「こういう人」であろうとなかろうと、緑内障のリスクはぐぐっと上がってくるということだ。

時代がわたしに……いや、年齢がわたしに……追いついたのか……?

何か違う気がするけれど……。

 

白い半球形のドームに頭を突っ込むようにして、光の粒を追う。見えたら手元のスイッチを押す。

見えた! 押す! 見えた! 押す!

視野検査はシューティングゲームをやっているようで、楽しくはある。

ゲームと違うのは、常に「視野がどっか欠けていたらやだなあ」と、不安が胸に渦巻いていることだ。

 

終わったらフロアを変えて、その他の検査。視力、眼圧、網膜や角膜の撮影、いろいろ。

「はい、こちらの機械で」「いったんここでお待ちになって」「今度はこっちで」。一フロアをぐるぐる回る。

わたしのほかには、金髪で白いロングコートを着た若者が、このサーキットレースに参加している。

 

「じゃー、コンタクトレンズを外しまーす。ちょっと下の方見てもらえるかな? 見える?」

 

検査の合間には、コンタクトレンズを外すことがあり、着脱は検査技師がやってくれる。隣の若者に対しては、検査技師はタメ口まじり。珍しい。

などと思っていたら、わたしの番だ。

 

「平凡さん、下の方見てくださいねー。まずは右から外します」

 

検査技師がわたしのまぶたに細くひんやりした指を当てると、ペチッとコンタクトレンズが外れる。

いとも簡単に。

他人のコンタクトレンズを外すなんて、わたしには絶対に無理だ。

 

「あ、左のレンズ、ちょっとズレちゃいましたねー。右上のほう見てもらえますかー」

 

ズレてもまったくあわてない。

 

ここの人たちは、訓練して他人のコンタクトレンズが着脱できるようになったのだろうか。他人への着物の着付けを習うように、お互いに練習したりしたのだろうか。この仕事に就く前は、「ヒトのコンタクトレンズをつけたり外したりなんて、無理ですよ~」と、素人と同じように思っていたのだろうか。

人間が、自然に「わたしは、差し向かった他人のコンタクトレンズを着脱できる」との発想に至るとは考えにくい。たぶん「無理ですよ~」と思っていたのだろう。

でも、いまでは、ズレたコンタクトレンズも、たちまちペチッ。

 

ちなみに隣の若者も、わたしも、着脱しているのはハードコンタクトレンズである。似たような問題を抱えているのかもしれない。

 

サーキットの終わりは、医師の診察だ。診察室の声は、ふだん聞こえないものだが……。

 

「めっちゃいいですよ~! 目にフィットしてるし! 最高です! このまま帰りたいぐらい!」

 

あの金髪の若者が、興奮気味に言っている。医師も看護師も、笑っている。検査技師がタメ口まじりになるのもわかる気がする。

おそらく初診。今日はハードコンタクトレンズを作るための検査に来ているのだろう。目にぴったり合ったコンタクトレンズを装着するのも、きっとはじめて。

ある種の問題があると、視力は眼鏡では矯正できないし、コンタクトレンズもその辺の店や眼科医では買えないし、こういう眼科医に来ても、即日コンタクトレンズを作ることはできない。それなりにカスタムしてもらう必要があるからだ。

 

診察室から出た後も、若者の興奮は冷めない。

 

「世界がくっきり見えました! はっきり見えると、人生、変わりますね!」

 

そのことばで、わたしは遠い遠い昔、ティーンエイジャーのころの記憶を呼び覚まされた。

病院の窓から見える緑がきらきら光って見えた。

履いていたスニーカーの先に、細かい傷がついているのを知った。

 

「世界って、こんなに明るいんや……」

 

わたしは大学病院の廊下で、目をしばしばさせながらつぶやいた。生まれてはじめて装着したコンタクトレンズの縁が視界の端で揺れ動き、目の中でゴワゴワゴロゴロしたけれど、それ以上に世界の鮮やかさに心を奪われた。

 

さかのぼることその一年ほど前。わたしの目の異変に気づいたのは、母親だった。

 

「平凡ちゃんの目、なんか変」

 

「気のせいやろ」で済ませようとすると、母親は鏡で自分自身の瞳をためすすがめつ見て、またわたしの瞳をのぞきこんだ。

 

「やっぱり、なんか、変。目医者、行こか」

 

近所の眼科医に行くと大学病院を紹介され、定期通院することになり、「高校生ぐらいになったら」と考えていたコンタクトレンズの装着を早々にすすめられたのだった。コンタクトレンズなら視力の矯正がかない、病状の進行を抑えることも期待できるとかなんとか。

 

「どうですかー」

 

中年の男性がしゃがみこんで、わたしを見上げる。わたしはあのとき、なんと答えただろう。ゴロゴロします、よく見えます、木の葉っぱって、あんな輪郭をしているんですね。それとも思春期に入ったばかりの気難しさで、あいまいに笑っただけだったろうか。

 

月に一回ほど学校を早引けして、大学病院への通院は続いた。診察が終わると、大学病院の喫茶室で、昼食をとるのが恒例だった。

お気に入りは、カレーとスパゲティを炒め合わせた「インディアン」。鉄皿に薄く卵が敷かれて焼かれ、そこにこびりついたカレーもカリカリとして、おいしかった。

 

ミルクセーキ、頼んでもええ?」

「ええよ」

 

茶店でドリンクまで頼むなんてぜいたくなこと。その自覚はあったけれど、なぜか通院の日は甘えてオーダーをした。

脚付きのグラスに入った、薄黄色の飲み物が運ばれてくる。卵と牛乳、それとお砂糖。ホットケーキを作るときに混ぜ合わせるそれらは、とくに美味しそうには感じないのに、こうしてすするとありがたい飲み物になる。それが不思議だった。

カスタードに近い、わかりやすい甘さ。

毎月、仕事を早上がりして、娘を病院へ連れていき、決して安くない外での昼食を食べさせて。母は、いまのわたしと同じような年代だったはずだ。何を考えていたのだろう。

 

視力検査ではなく、人から見た「瞳の外観」によってこの症例が見つかるのは珍しいと知ったのは、ずっと後のことだった。

 

「平凡さーん」

 

待合室で、我に返る。診察は、今度はわたしの番だ。遮光ののれんをくぐって、診察室へ入る。通う病院は何度も変わったけれど、そういえば、この診察室の暗さと薬くささは変わらない。

 

目に光を当てて、何かリトマス試験紙のようなもので目の縁をちょん、ちょんとされて。

 

「視野もその外も問題ありませんね」

 

自分でもわかりやすく、相好が崩れたのがわかる。

 

「ただ……」

「ただ……?」

 

医師がいたずらっぽく笑う。

 

「今回はすこし、久しぶりでしたね」

「もうちょっときちんと通います」

 

わたしはだらしなく笑って、診察室をあとにする。

そうだ、次こそは一年もあけず、半年ぐらいで予約を入れよう。そろそろ老眼も出てくるはずだ。付き合うべき友だか敵だかは、年々増えていく。

 

眼科を出ると、街は夕暮れに沈もうとしている。あの青年は、「これから仕事なんです」と言っていた。やがてできあがってくるコンタクトを着けて、はっきりくっきりした世界に感動して、何を見るのだろう。

 

電車に揺られて、家へ帰る。車窓の外に、たわんだ電線や、夕日に照らされ、輪郭をはっきりと浮かび上がらせたビルが過ぎ去っていく。葉を落とした木々の枝の繊細さ。

すべてに輪郭がある。わたしはそれをはっきりと見ることができる。レンズを通した世界は明るい。

いまではすっかり当たり前になったそれらを目に焼きつけながら、日常へと戻っていった。

 

***

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最強の“アッパー飯”ドリロコスは南米のお好み焼きだった!

「ドリロコス」。

Twitterユーザーなら、昨年、一度はこの料理名を目にしたのではないだろうか。

今日は、それを作ってみたらめっちゃ楽しかったー! という話。

 

ドリロコスとは?

「ドリロコス」は、メキシコで人気の屋台B級グルメ

作り方は簡単だ。

袋菓子として売られている「ドリトス」の封を開け、そこに好みの具を入れ、混ぜながら食べる。

以上。

「ドリロコス」の名はトルティーヤチップスの「ドリトス」の「ドリ」、「クレイジー」を意味する「ロコス」を組み合わせたものだそう。

 

SNSが火付け役

この「ドリロコス」、ストリートフード番組で紹介された、日本のテーマパークで提供されたなどの情報もあるが、SNSでの火付け役は間違えなくこのツイートだろう。

 

高山洋平さんはこれ以外にもドリロコスツイートをしており、それによると具は本当になんでもいいらしい。

「牛丼屋で買ってきた具と紅ショウガ」「レタスに加え、牛しぐれ煮と紅ショウガと唐辛子」、果ては高山さんの奥様が好んでいるという「おかかとネギを散らした冷ややっこ」なんてものもある。

 

これはなかなかおもしろそうだと気になっていた。

が、はじめてのことに楽しんでチャレンジするには、時間と精神的な余裕がいる。

そこで、餅・餅・餅の連続で至福の時間を過ごしていた正月二日、至福ではあるけれど変化もほしいと、試してみることにした。

 

材料&分量

まずは無難に南米風を作ってみようと、我が家が用意したのは以下。

★をつけたものはあったほうが絶対に楽しめる! と思ったもの。

 

ちなみに「ドリトス」は2袋入手できず、夫は「ドリトス」、わたしは「ドンタコス」でためすこととなった。

結果から申し上げると、「ドンタコス」のほうがややジャンクに仕上がります。

 

分量は、「実際に食べた量(2人分)」。

流れで次々入れたので多め。

もうちょっと少なくても成立すると思う。

自由さが楽しい料理ではあるものの、具材を用意するときの目安になれば幸い。

 

ベース

ドリトス…1袋

ドンタコス…1袋

 

具材

サルサソース…2/3瓶

★シュレッドチーズ(細切りで生食できるチーズ)…2/3袋

★カットサラダ(洗わず食べられるもの)…1袋

プチトマト…1パック弱

★アボカド…1個

ハム…2枚を適当にカット

缶詰コーン…1/3缶

 

具材の中でマストなのはチーズ。具材同士をつないでくれる。また、どんな具材を使うにしても、生野菜もあったほうがいい。

 

「具材を入れやすいから」と、袋の長辺をカットする人もあるようだが、うちは普通に袋の上部(短辺)をカットした。食べやすく、ほどよく混ぜやすい。うちは次も上部をカットすると思う。

 

とにかく楽しーーーい!

何かとマニュアルがほしい気質の我らが夫婦。

「『ドリトス』は先に割っておいたほうがいいのかなあ」などと最初は戸惑ったものの、適当に具材を入れてザクザクとスプーンで混ぜて一口頬ばると、そんなことは吹っ飛んでしまった。

生野菜のフレッシュさ、そこにクリスピーに絡むクルトン兼ドレッシングのようなチップス。フレッシュ、ジャンク、フレッシュ、ジャンク……行きつ戻りつする味覚をつなぐのは、サルサソースとチーズだ。さらにアボカドのクリーミーさがアシストする。

少しずつ野菜から水分が出てしっとりするのもまたよろし。

どう考えてもジャンクだが、生野菜がベースだと罪悪感は不思議と皆無。

 

何より好きな具を好きなだけ放り込む、ザクザクする、いろんなものが一体になった味を楽しむ。また好きな具を放り込む。すこしちがった味がする……。その繰り返しが単純に楽しい!

 

あまりきれいな写真ではなくて恐縮ですが、混ぜる直前の「ドリロコス」

 

「これ、お好み焼きに似てる!」と言ったのは夫だった。

お好み焼きはキャベツがベースになっていて、他に何を入れてもたいてい美味しくて、それぞれ好みの具材がある。何より楽しく、気分がアガる! 

たしかに「ドリロコス」はお好み焼きと似ている。

 

ひとりでも多人数でもOKなパーティーフード

ひとり1袋で大満腹。

具材を加減すれば、ランチにもディナーにもなるだろう。

食べ終わった後のスカッとした心持ちは、食後というよりレジャーの後に近い。

「ドリロコス」を世に知らしめたツイートには「アッパー飯」とあった。言い得て妙だ。

これはアガる!

 

やってみてわかった「ドリロコス」の良い点は、準備の簡単さだ。

具材を適当に用意して、ひとり1袋配ればパーティーっぽくみんなで楽しめる。給仕はいらない。お子さんがいるご家庭でも楽しいかもしれない。

封を開けるだけで準備完了する具材も多いので、アウトドアにも向きそう。

さらに袋菓子がベースなので、ひとりでも多人数でもOK。

 

何気ない一食が、思いがけなくレジャーになる。こんな体験ははじめてだった。

腹がくちくなって、最初に出てくることばは「あー楽しかった!」。

 

わたしは次、牛丼の具と紅しょうがを入れてみたいともくろんでいる。

最初はドキドキ、でも一口食べたら笑顔になるだろう。

そんな予感をさせてくれる食べものは、なかなかない。

 

皆さんも、気分をぶち上げたいときにはぜひお試しを。

 

***

そんなこんなで大晦日から1月2日まで、3日間楽しいことだけしていたら、かなり回復しました。いかに「やらねばやらねば」が頭に詰まっていたか……。そして、みんながいっせいにお休みするお正月って偉大ですね。

***

トップの画像は写真ACからお借りしました。《

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2022年、12月の夕暮れ

16時半。

発車に間に合うだろうか。

息を切らせて走ってようやっと、隣の隣の町までのバスに乗る。

あと数日で冬至だ。

日はもう暮れかけている。

電車でいけば迂回必須。

バスで行けば6キロ前後で40分あまり。

微妙な郊外の街へと向かったのは、そこにとあるチェーンのシネコンがあるからだ。

年内いっぱいで一時的に地方へ居を移す友人へ、そのチェーンで使える共通鑑賞券を贈りたかった。

鑑賞券を買って、ついでに映画を見てこようという寸法だ。

 

ふだん歩いている街を、高いところから見る。

バスの移動は、いつも不思議な感慨があって好きだ。

 

コロナ禍で前方の座席が封鎖されているから、陣取るのはいつも、後輪の上にあたる席。

そこで体を丸めて、窓に張り付く。

 

ああ、ここ、最初の緊急事態宣言のとき、夫とがんばって歩いた場所。

あの非常事態に、この何もない郊外にジェラート屋がオープンすると聞いて、ふたりでふうふう言いながら歩いた。

春にしては暑い日で、角っこのコンビニエンスストアでジュースを買って一休みして。

ジェラート屋は盛況とまでは言えなかったけれど、わたしたちのような中年夫婦のほか、近所で工事をしている人たちもいた。

それぞれが思い思いのフレーバーを選んでおり、「みんなのジェラート屋さん」という感じがしてよかった。

肝心の味や、どんなフレーバーを食べたのかは皆目思い出せないけれど。

この道は、ホットドッグがおいしいカフェを目指して来たこともあったっけ。

 

宙に浮いた、あの不思議な時間をしばし思い出す。

そういえば、あのジェラート屋はまだあるのかな。

インスタを開く気にもなれず、疑問を空に放り投げる。

 

坂を上って、くだって。畑の向こうの空は、もう昏いオレンジ色だ。

まさに「黄昏」。

葉をすっかり落とした木のシルエットは影絵のよう。

それを見て、急に不安に襲われる。

ヘッドホンを取り出して、米津玄師の「KICK BACK」を音量を上げて聞く。

 

来年はどうなるんだろう。

映画チケットを贈る友人は、いつごろ東京に帰ってくるのかな。

 

今日が暮れ、今年も暮れていく。

すべてのものには終わりがある。

冬至には、一番昼間が短くなる。

でも、冬至ははじまりでもある。

ここから日脚はのびていくからだ。

昔の人は太陽が力を取り戻すと考えて、冬至を「一陽来復」と呼んだ。

 

バス停に着くたび、冷たく乾いた風とともに、人が乗り込んでくる。

寒くなって寒くなって寒くなって、やがてある日、風のにおいが、肌ざわりが、変わっていることに気がつくのだ。

 

それまでは、生きていよう。

もう木々のシルエットは見えない。

家々の向こうに、夕暮れは尽きようとしている。

「KICK BACK」のボリュームをまたひとつあげて、わたしはバスの後輪のうえで、からだを丸める。

丸めてただ、バスが終着点に着くのを待っている。

 

***

今年最後の更新となります。

皆さま、本年もお読みくださりありがとうございました。

今年は12月に入り、ちょっとばかり、本当にちょっとばかり調子を崩してしまい、2022年がどんな年だったか、よくわからなくなってしまいました。

来年はもうすこし……なんというか、元気いっぱいにお送りしたいですね!

来年もご愛読いただけたらうれしいです。

新年が皆様にとって、よきものになりますように。

 

***

画像は写真ACからお借りしました。

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未知なる生物……? 犬

今日も今日とて、保護犬の譲渡会なるものに行ってみる。

そして今日も今日とて、お目当ての犬がいる。

ネットで見かけたある犬の、能天気な笑顔とつぶらな瞳にノックアウトされたのだ。

 

寒風吹きすさぶなか、たどりついた譲渡会場は市民センターの一角。

手指の消毒と検温を済ませて引き戸を開けると、7~8頭ほどの犬がいた。

目当ての子はすぐにわかった。

ひときわリラックスして、腹を上にして人にわしゃわしゃとなでてもらっていたからだ。

ほとんどの犬は緊張している。隣に控えるボランティアさん(たいていはその犬と一緒に暮らしている預かりさん)にぴったり寄り添ったり、あるいは壁と一体化したり、丸まって寝たりフリをしている犬の中での、ヘソ天である。

短毛雑種のその犬は、いったい何犬がまじっているのか、こんがりとした小麦色をして、適性体重にもかかわらずお腹はぽっこり、どことなく脚が短く見えた。

「こんにちは」

と、人と犬に声をかけ、話を聞く。

犬は近寄るわたしたちを見て、さすがに姿勢をフセに戻した。

が、別の来場者が頭をなでるとおもむろにゴロンと腹を出し、手を止めると前脚でちょいちょいとつつき、さらなる「なで」をうながすのだった。

誰にでもフレンドリーではあるが、見ていると、やはり犬扱いに慣れている人に対しては、「ゴロン」に転じるのが速い。

話を聞いた結果、その子と暮らすにはどうにもこうにも車が必要なことがわかった。預かりさんはそこまで言わなかったが、状況を考えると、夫婦ともに運転ができることが望ましいだろう。

その理由の詳細も、預かりさんが書類を見せながら説明してくれた。

我が家は車を持っていない。わたしは運転が大の苦手で、独身時代の一時期、実家に帰ろうかと毎日運転の練習をしていたのだが、三か月目に事故を起こしそうになってやめた。

なかなか厳しいものがある。

ちょっと他の子にも挨拶してきます、と腰をあげる。

「おびえている子が多いけれど、人になれる訓練のためには必要なこと。ひと声かけて、いっぱいなでてあげてくださいね」

 

会場にはいろんな犬がいた。

目を合わせようとすると「僕はいません……」と目をそらしつつ、「あっ、でもちょっと気になるかも……」と近づき、「やっぱり怖っ、僕はここにはいません……」とソワソワしている若犬は、家ではたいへんアクティブでやんちゃだということだった*1

「力も強いので、はじめてのお迎えだと、ちょっと厳しめかもしれません」

預かりさんは、その犬のことをいろいろと教えてくれる。そこには人間に都合のいいこともあれば悪いこともあるけれど、犬の性質を語ることばはすべてフラットだ。短所も長所もない。ぜんぶがその犬の特徴なのだから。

 

5カ月の女の子は、栄養失調だったとかで、一部の毛がはげてしまっていた。からだを丸めているが、手を差し出すと姿勢を変えずにちらりと見上げて、くんくんとかいでくれた。喉のあたりをなでると、ときおり、ちらりちらりとこちらを上目づかいに見る。

「この子はビビり(怖がり)で……。いろんなことがまだまだ怖いので、今はお散歩が楽しいものだと思ってもらえるようにがんばっているんですよ」

と、預かりさん。それには、まず人間が楽しむこと。犬がおびえても人間は動じないこと。できるだけその犬が怖がるものを先読みして、落ち着かせてあげること。怖がったときは抱っこして、「だいじょうぶ」と伝えてあげること。

そうやって育てたビビりの子が成長したあかつきには、とてもかわいくなりますよ、と預かりさんは言った。

「飼い主一筋になりますからねえ」

5カ月の子に限らず、たいていの犬は近寄るわたしたちにおびえながらも攻撃性は見せず、こちらをちらっと見る。その視線にドキッとする。愛らしい、と思う。

忠犬を求めているわけではない。ただ、この視線がある日、まっすぐ自分だけに向けられたら――。たまらない気持ちになるだろう。

「でもね、ビビりな性格は治るわけじゃないんですよ。怖いことも飼い主さんと一緒だからなんとかできる。そうなるだけなんです」

 

黄金色の中毛がうつくしい犬をなでようとしたところ、「この子は参加犬ではないんですよ」と声をかけられた。

「この団体の卒業犬なんです。わたしが預かっていたんだけど、すごいビビりで……。結局、うちの子になっちゃった」

中毛の犬は、お座りをしてまっすぐに飼い主を見つめる。他の犬がちょっかいを出しても、人が寄ってきても、積極的にかかわりはしないものの、儀礼的に軽くあしらっている。

落ち着き、信頼、できあがった体格。「飼い主がいる犬」は、こうも違うものかと思う。

犬の知識も経験も豊富な人と暮らし、愛情とともに最高のしつけを受け、食事にも散歩にも気をつかってもらい……その結果としての理想的状態がそこにはあった。

ここまではなかなかできない。わたしたちには無理だろう。でも、この十分の一の状態にでもなれたらとてもすてきだろうな。

そんなふうに思わせるものが、ひとりと一頭にはあった。

 

どの預かりさんにもたいてい、「今日は目当ての子がいるんですか」と尋ねられた。

ヘソ天ちゃん(仮名)です」と答えると、「いい子ですよね!」と激烈におすすめされるのであった。

わかる。

 

譲渡会場の空気があたたまってきて、犬たちもすこしずつ場所を移し、ほかの犬と交流をはじめた。

人間同士がしゃべっている間、ヘソ天ちゃんはシレっと他の犬にマウンティングをかまそうとして、相手の犬にガウッと一喝されていた。

ヘソ天ちゃんは、「ええ~なんでなんで? 怒られたんだけど~。ねえねえ納得いかないんですけど~。悪いことしてないのに。なぐさめて~」と上目づかいで預かりさんを見つめ、その悪びれない態度が会場中の笑いを誘っていた。

 

来歴には不明な点が多いものの、どこにどんな状態でいて保護されたかは公開されている。苦難の道のりを歩んできているはずなのだが、ヘソ天ちゃんはあっけらかんとしている。

 

そういえば、ヘソ天ちゃんの隣にいた若い犬をなでていたとき。

「この子は若いから、まだ肉球が柔らかいんですよ」と預かりさんにうながされてポウをさわった。

猫にくらべてずっと大きな肉球は、ふにっとやわらかかった。

ヘソ天ちゃんはどうかな~」

どさくさにまぎれてさわると、その肉球は若い犬に負けず劣らずやわらかかった。

ヘソ天ちゃんは8歳の中型犬だ。

ほんとうに、どういう暮らしをしてきたんだろう。

 

会場を出るころには、「ヘソ天ちゃん、おすすめだよね」「しあわせになってほしいよね」という気持ちになっていた。

ヘソ天ちゃんには多くの申し込みがあるはずだ。実際、その日もわたしたち以外にも、名指しでの問い合わせがあったと聞いた。そのうちのひとつやふたつやみっつぐらい、車をすぐに出せるご家庭があるだろう。

でもそれは、ウチではない。

 

しかし、収穫もあった。

まだまだ犬経験値は浅いわたしだけれど、先の譲渡会に比べれば、落ち着いて犬をなでられるようになった。

まず下から手を近づけてにおいをかいでもらい、それから首筋あたりをなでる。譲渡会に出られるぐらい人になれた犬は、おびえてはいても受け入れてくれる。それも難しい犬には、無理強いをしない。

 

犬というものへの自分なりのイメージも、多少はできてきた。

犬は人間より強い。なのに、大なり小なり怖がりだ。しかし、ほとんどの犬はむやみに人間を攻撃しない。そこにはもちろん最低限の人間の介入あってこそだが、好戦的に攻撃したくて攻撃する犬はほぼいないように思える。

長い年月、伴侶動物として生きてきた犬は、本能的に人間との暮らしを求めている。このあたりは猫も似ているけれど、犬は一対一で関係を結んだ人間が隣にいることを望んでいる。そういった人間がいてはじめて犬は安心し、その犬らしく生きることができる。

 

英語圏の犬動画や犬記事には、「we don't deserve dogs」が頻出する。直訳すれば、我々人間は犬に値しない。転じて「犬はすばらしい」といった意味合いだ。

猫だってすばらしいのだが、犬には「deserve(値する)」を使いたくなる種類のすばらしさがある。

それは犬が人間と一対一の関係を望んでいることとつながっている。

そういえば、ネットで有名な動物愛護読本「犬を飼うってステキです-か?」は、以下のことばで結ばれていた*2

犬を飼うってステキです

あなたがステキな人なら

ね。

 

動物愛護読本 東京都福祉保健局

 

だから、今週のお題、「2022年のビフォーアフター」は、“犬なれ”だ。

飼い主とトコトコと路上を歩いている「なんかかわいい生き物」から、自分とかかわりのある(かもしれない)生き物へ。

我々の年齢を考えるとあまり悠長にしていられないけれど、来年はさらなるステップが踏めたらいいなと思う。

 

***

ちなみに2022年、犬関連の歩みはこちら

前回までのお話 

未知なるもの、犬。そして夕暮れ。覚悟がある者だけが得られるものについての話 - 平凡

未知なる生物、犬 - 平凡

未知なる生物、犬2 - 平凡

 

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画像は写真ACからお借りしました。

犬と散歩する 防波堤の上 - No: 25348225|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

*1:「いまはこんなですけど、家では犬っぽいことをたくさんしていますよ!」と預かりさんが胸を張っていたのがおかしかった

*2:人間社会で素晴らしい人間である必要はないが、その犬にとって素晴らしい人間であることが求められるのだろう。ただ、犬にとって素晴らしい人間であろうとすることは、人間的成長を大なり小なりうながすものではあると思う

誰でもサンタになれるチャリティー「ブックサンタ」をやってみた!

年末、歳末、クリスマス。

年賀状、パーティー、大掃除、いろいろあるけど、チャリティーの季節!

というわけで(?)「ブックサンタ2022」というチャリティーに参加してみました。

ブックサンタってどんな取り組み?

「ブックサンタ」のキャッチフレーズは、「あなたが選んだ本を、サンタクロースが全国の子どもたちに届けます」。で、「子どもたち」には、「様々な事情で困難な状況にある子どもたち」と注釈がついています。

詳しはこちら。

booksanta.charity-santa.com

 

サイトにかなりわかりやすく説明されていますが、かいつまんで流れを説明すると、以下。

 

寄付者は新品の本を選び、贈る

主催者がそれを整理し、提携している全国の子ども支援団体に贈る

子どもたちの手元へ本が!

 

どうやって参加するの?

主な参加方法は3種類。

本を選んで寄贈したい場合は、「1」か「2」ですね。

 

1.リアル書店

めっちゃ簡単です。

参加書店へ行き、子どもに贈りたい本を選び、レジで「ブックサンタに参加します」と伝えて支払う。それだけ。

参加書店は以下で確認できます。なんと全国47都道府県779店舗!

ブックサンタ書店一覧ページ | NPO法人チャリティーサンタ

今回、わたしはこの方法で参加しました。

 

2.ネットショップで

専用のネットショップから本を贈ることができます。

ただ、タイトルは限られており、事務局が子どもの希望などを反映してセレクトしたもののみ。

とはいえ、流行りの本から名作までかなりの数がエントリーされています。

乳児、幼児、小学生、中高生向けと分かれているのも便利。

細かい話ですが、この年齢区分け別タイトル一覧、スマホサイトのほうがタブで切りかえができて便利でした。

また、「サンタにおまかせ」と、タイトルを指定しないコースもあります。

「子どもが身近にいないから、何がいいのかわからない」という人には便利です。

ブックサンタオンライン書店

 

3.クラウドファンディング

「サンタにおまかせコース1冊」または「シンプルに(活動を)応援」3,000円~支援ができます。

価格のことをいうのはいやらしいですが、上記の「ブックサンタオンライン書店」にも「サンタにおまかせ」メニューがあり、そちらは幼児向け1,200円。

キリのよい数字で活動を応援したい! という場合はクラウドファンディングがよいのかなと思います。

クリスマスや誕生日を諦めた子ども達へ「本を届ける」 #ブックサンタ へ応援を! - CAMPFIRE (キャンプファイヤー)

 

番外編

pixivとのコラボチャリティーもあり。

タグをつけてクリスマス作品を投稿すると、なんと全体の投稿作品数×500円がこのプロジェクトに寄贈されるというもの。

けっこう太っ腹ですよね。2~3作品につき、絵本1冊ぐらいは購入可能な計算になります。実際は事務費などあるでしょうが、その辺はさっぴいて。

pixiv小説子どもチャリティー企画~ブックサンタ2022~

 

どんな本を贈ることができるの?

公序良俗に反しないものであればなんでもOKだそう。ただし、はっきりと学習まんがとわかるもの以外、まんがは除外。

対象年齢も乳児向けから中高生までと幅広いので、名作絵本を選ぶもよし、大人目線で「この前、読んでおもしろかったベストセラー」を選ぶもよし。

この活動、以前は絵本限定で行っていたらしく、その後、「子どもたち」に対象が拡大したようです。

そのため絵本が集まりやすい傾向にあり、小学生向けの児童書が不足するとのこと。

 

わたしの参加方法

前述したとおり、書店で参加しました。タイトルについては、ネットショップのリストを参考に、以下を考えて選びました。

 

・できるだけ楽しいもの

・本が苦手な子でも手に取ってもらえそうなもの

・人気のもの

・世間で名作とされているもの「以外」

 

理由は、エンタメ的な作品で楽しい気持ちになってほしいというのがひとつ。

ふたつめは、大人のわたしが考える「読ませたい本」と、子ども自身が「今、読みたい本」は別だろうな、と考えたから。プレゼントなので、できるだけ子ども自身が読みたい本を選びたい。また、ニーズが高い本のほうがマッチングしやすいのでは。

本当は、子どもたちに図書カードを握らせ、好きな本を買ってもらうのが一番いいんでしょうけど、その方法のチャリティは難しいだろうな~というのもわかります。なので、なるべく押しつけにならないように。

 

そこで選んだのが、ベタですが、以下の3冊。小学生向け2冊、中高生向け1冊。

絵本は集まりやすいとQ&Aに書いてあったので除外。

かいけつゾロリ きょうりゅうママをすくえ!』(原ゆたか著)

『飛行機のサバイバル1』(ゴムドリco. 文 / 韓 賢東 絵) 

『うたうおばけ』(くどうれいん著)

 

ゾロリ』は人気と聞きますし、初回配本限定特典でイシシ&ノシシのおきあがりこぼしがついているのも、プレゼント感あっていいなあと。また、背景にキャラが隠れている、カバーやそでに切り取れる“特典”があるなど、本自体にもたくさん仕掛けがあるらしく、「所有すること」に喜びがあるんじゃないかなとも思いました。

 

『サバイバル』は、とにかくテッパンの大人気だと、子どもがいる友人たちから聞いたことがあったので。わたし自身はアニメ映画と原作1作品にふれたぐらいですが、学習まんがとしてすぐれているイメージもありました。

ただ、「1」とナンバリングがあり、続きがあるのは確認不足でした。単体で読んで面白そうか、店頭で確認すればよかった。

 

くどうれいんさんは、比較的若い書き手であること、好きな子は好きだろうなと思って。たぶんこのタイトルは、子どもの希望がないとリスト入りしないんじゃないかなあ……などと推測してチョイス。

参加すると店頭でもらえるチラシとステッカー

参加すると、お礼のチラシとシールがもらえます。チラシの裏には、寄付者限定ページにアクセスできるQRコードがあります。プロジェクト進捗と、クリスマス後の子どもたちの声を掲載予定だとか。

 

これは個人的な思いなんですが……。

ぶっちゃけ、「喜びの声」なんて聞き出さなくていいよって思います。

こういうの、2~3割のお子さんに喜んでもらえたらいいんじゃないかな、ぐらいの気持ちなのです。人生なんて変わらなくていい。一瞬の喜びにしてもらえたら本当にラッキー。

あとは、プレゼントが用意できなくて気にしている親御さんがいるとしたら、その心のつかえが取れたらうれしい。

一方で、チャリティーを継続させ、広げるためには、親御さんやお子さんの喜びの声を届けたり、「本を贈るのってすてきだよね」とPRしたりするのは必要だとも理解しています。

 

なぜ参加したのか

わたしは思春期のある時期、家庭の事情で通学に必要なもの以外が何もない住環境に暮らしたことがあったんですね。貧困や困窮とはちょっと違う状況だったのですが……。

楽しみは、学校の図書室で借りてくる本と、兄が買って置いていってくれる「ファミ通」でした。「ファミ通」は本当になめるように読んでいました。大好きなゲームが思うようにできなくても、誌面を読んでいると、すごくわくわくしたんです。

今だとネットやスマホがあるから状況が違うのかもしれませんが……。

本や雑誌、まんが(「ブックサンタ」では除外品ですが)は、限られたスペースで、自分のペースで、電源や電波なしでも簡単に楽しめるもの。

そして、一瞬の楽しみが心を支えてくれることもある。

少しの時間だけでも楽しい気持ちになってもらえたらいいし、ずうずうしい望みだけれど、本や雑誌やまんがっていう楽しみが世界にはあるよって、ひとりでも知ってもらえたらいいなあと思っています。

 

寄付するときに気をつけていること

ここからはブックサンタの話と離れて、寄付について。

わたしは生活が困窮していない限り、年に1回ぐらい、なんらかの寄付をするようにしています。

寄付するときは、いちおう、団体のサイトには目を通します。また、比較的新しい団体の場合、代表者の名前で検索することもあります。

一方で、ネットの「叩き」みたいなものがあった場合は、あまり気にしません。そもそも寄付という行為自体に好意的ではない人の発言が多いからです。

強めの発言になっちゃいますが、「やらない善よりやる偽善」なんて言う必要ないでしょ、当たり前でしょ、と思っています。

「遠い国の飢えた子どもには思いを馳せるのに、自国には……」的なこともよく聞きますが、遠い国の何かに寄付している人って、自国内の団体にもたいてい寄付しています。

それと、わたしは絶対的貧困にある人、戦乱に巻き込まれた人たちへの寄付は「世界の底上げ」として意味があると考えています。

ただし、「このチャリティのやり方はどうなの」といった、各チャリティの方法への批判は考慮に入れます。

 

寄付で恐ろしいのは、お金が間違えた方向に使われること。お金isパワーなので、誰かが私腹を肥やすよりもっと恐ろしいことがありえるんですね。

 

たとえばわたしが関心を寄せている動物の保護関係だと……。

「どんどん動物を引き取って世話ができなくなった」とか(かといって主催者が豪遊しているわけでもない)、「寄付が集まりやすい疾患を抱えた子だけに医療費を過剰にかけているのでは」疑惑が出るとか、「支援品を処理しきれず、山積みのまま劣化している」とか、「去勢、避妊を一切やらない保護団体」って例があったりします。

動物保護団体については、寄付のみならずTwitterで何かRTするときも、「ネットに掲載されているのが、動物に寄った写真ばかりではないこと(部屋の環境もわかる画像が上がっていること)」「収支を報告していること」「遊んだり、くつろいだり、動物の楽しそうな様子も掲載していること」などをなるべく調べています。

 

わたしの寄付対象は、寄付控除がある団体(認定NPO)が基本です。

「ブックサンタ」は認定NPOではないので、控除はなし。今回は出版界の片隅で飯を食っている人間として、業界を盛り上げたいなあ、という気持ちもあったのでした。

 

というわけで、寄付への思いも書いていたらあっという間に4000文字近くに。

来年もなんらかの寄付ができるよう、がんばって生活していきたいと思います!

日記に憧れている

人の日記を読むのが好きだ。

といっても、のぞき見したいわけではない。

公開されているブログ、あるいはツイートの中でも、「今日は何をした」「どう感じた」と淡々と書き綴っているものに惹かれるのだ。

最近、はてなブログが推奨している“純日記”にあたるものなのだと思う。

 

 

日記文学も大好きで、なかでも武田百合子氏の『富士日記』はお気に入りだ。

武田百合子氏は、『ひかりごけ』で知られる武田泰淳氏の妻。

武田夫妻は富士の麓に別宅を持っており、東京の自宅と頻繁に行き来していた。

「別宅にいる間のことを、書いておくように」と泰淳氏からすすめられた百合子氏が、言いつけ通りにつけた記録が『富士日記』だ。

「言いつけ通りに」と書くと従順な妻を想像するかもしれないが、日記を読んでそのような人物像を想起する人はまずいないと思う。

百合子氏は好き嫌いがはっきりしていて、自信もあり、思ったこともすっぱりと伝えるタイプである。

 

富士日記』のキャッチには、よく《天衣無縫の文体》という表現が使われる。

何が起きた、何を見た、何を買った、何を作った……といった淡々とした記録に「どう感じたか」を簡単に加えたものなのだけど、その視点が透徹していている。

鳥やもぐらの死を突き放したように描写したかと思えば、よく昼寝した日は《くらげのように体がやわらかくなってしまう》と温度感のある表現が出てきもする。

必要最小限の字数で描写された落葉や花の色、地元の販売所に売られている農作物の種類などが、季節の移ろいと山の自然の厳しさを伝えてくれる。

 

肩肘張って「書いてやろう」という気負いは一切感じられない。サラサラと小川の水が流れるがごとく、日常の合間につけたであろう記録。しかし、それが写し取る人の営みがなんとも愛おしい。こんなふうに物事を見られたら、書けたら……と、つい憧れてしまう。

 

『新潮』が数年に一度行うリレー日記企画も大好きだ。

1年の52週の各週を、52人が担当。

たとえば2018年の企画だと、川上弘美氏、古井由吉氏、町田康氏といった小説家はもちろん、建築家の磯崎新氏、比較文学研究者の四方田犬彦氏、演出家の飴屋法水氏などが名を連ねる。

基本、日記なので淡々と綴るものが多いのだけど、その濃淡やエッジのきかせ方が人それぞれで、わくわくする。

 

自分自身もそういったものを書きたいと憧れる。

が、オープンな場ではやはり、このブログのように、「がっつり書きたいときに、2000字~4000字でまとまったものを書くこと」を優先してしまう。

たとえば「インターネットの備忘録」のはせおやさい氏は、2020年頃まで気づきをまとめたエッセイ・コラム的な記事のほか、日々の記録もアップされていた。どちらも読んでいて違う楽しさがあった。

ああいったスタイルには憧れるものの、いざ自分がひとつの場でやろうとすると難しい。なぜかはわからないけれど。

 

かわりに、Evernoteに純粋な日記をつけている。「今日はこんなことがあった」「こんなことを感じた」「こんなものを食べた」「夫がこんなことを言った」といった私的記録。

たとえば2014年の日記には、《近所の緑道を歩いている途中、夫が「主電源落とすと部屋暗いね」をドイツ語風に上手いこと言っておかしかった》などと書いてある。

そんなことはすっかりと忘れている。

たまに夫婦でしゃべっていて、「箱根に行ったのはいつだったっけ」と疑問が出ると、Evernoteで検索する。

2015年のゴールデンウィークであることがわかる。

さらに日記を読むと、義実家を訪問してから箱根へ出発し、わたしたちの荷物を見た義姉が「山登りへ行くみたい」と笑ったとか、干物屋の駐車場にたくさん猫がいて、子どもがしつこくかまったら猫パンチをかましたが、周囲の人間は「しつこくするから」と猫の味方だったとか書いてある。

Everenoteには写真も貼り付けられるので、それを見ることでより鮮明に思い出せる。

ただし、これが写真だけだったとしたら、空気感やあったことまでは思い出させてくれないだろう。

「ことば」に「写真」を添えることで、日記は雄弁なアルバムとして機能してくれる。

 

アルバムとして機能させるためのコツは、「感じたこと」をあっさりさっぱり添えること。楽しかったことも悲しかったことも、描写を厚めに、感情はサラリと。凹んだことやドロドロしたことも、そうひと言書くだけ。

 

吐き出しではなく、記録をメインにするメリットは、続けやすくなることだ。未成年のころは、ドロッとした感情をめいっぱいノートにぶつけていたが、そうしてしまうと体力も気力も持っていかれる。また、思考が迷走してより煮詰まってしまいがち。

記録にとどめることで、軽やかに長く続けることができる。

若い頃は、逆に「そんな日常書いて何が楽しいの」と思ったかもしれないが、今はそういったことも次々と忘れてしまう。また、日々は同じようでいて不変ではないことも、年を取ればとるほどわかってくる。

記録することで見えてくるものもある。それがたとえ、「この時期は直売所巡りをよくしていたけれど、最近はしていないな~」とか、「スムージー飲まなくなったなあ」とか、そんなものであっても、自分自身にとっては貴重な生活史に思えるのだ。

なんでも検索すれば出てくるインターネット時代にあっても、それは自分が記録しなければどこにも残っていないものだから。

 

昔は、ある映画を見たかどうかを忘れることなんて考えられなかったけれど、今では「タイトルは知ってるけど、あれ、見たんだっけ?」と惑うことも多い。

忘却の流れをせき止めることはできないけれど、せめて遠くからでも「そこに何があったか」がなんとなく見えるように。

目印、一里塚のつもりで日記をつけている。

 

と書いたのだけれど、この一年はほとんど日記をつけていなかった。ブログや小説などに可処分時間を使っていたからだ。

日記を書くのはわずかな時間があれば十分なのだけど、別の習慣ができると、どうしても他に気が回らなくなる。

 

記録がない日々はむなしい。やがて曖昧模糊として思い出せなくなるそれは、「空白期間」のように感じてしまう。

今日から、今から。また記録を始めようと思う。

 

今週のお題「日記の書き方」

 

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画像は写真ACからお借りしました。

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