平凡

平凡

コミュ力がなくても生き延びてくれ。低く、渋く、息長く

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先週末、ライターの間で大きな話題を呼んでいたのがこの記事だ。

 

elabel.plan-b.co.jp


簡単にまとめると、

「大人のなりたい職業」を成人男女1231人にアンケートしたところ、

「ライター」が1位になったというもの。

 

記事にある、

《ライターといったらフリーランスであることがほとんどで、収入も不安定でコツコツと物を書き、お世辞にも華やかな職業とは言い難いでしょう。それでも数ある職業の中でライターが1位となったのは、意外な結果と言えるのではないでしょうか。》

という身も蓋もないライター像はまさにそのとおりだと思う。

てか、この記事もライターさんが書いているので、当然っちゃ当然だ。

 

では、何が話題になっているか。

わたしの観測範囲内では、以下のアンケート回答に対する意見や感想が多い。

 

《「社会人になってから、会社のしきたりや人間関係に悩まされることが多く、組織に所属して働くことの大変さを痛感しています。ライターの方は、在宅で自分のペースで仕事をされている方が多いイメージで羨ましく思いますし、私のように人と接することに少し苦手意識のある人には働きやすそうに感じるのでなりたいです」(女性 / 20代 / 岩手県)》

 

このアンケートに限らず、「コミュニケーションが苦手だからライターになりたい」と希望をつぶやく者があると、太古の昔から繰り返されている反論。

それが、「ライターってコミュニケーション能力(コミュ力)必要だよね」だ。

 

わたしはいちおう現役ライターだけれど、この反論が出るたび、「ちょっと待って!」と言いたくなる。

 

とはいえ。

「ライターにはコミュ力必要」。

それは一面、真実だと思うのもたしかだ。

インタビューにせよ、店や企業広報への取材にせよ、ライターは人の話を聞いてまとめるのが仕事だ。

発注を受けたら、編集者はじめクライアントの希望をよく汲み取り、それを文章に反映させる必要がある。

上記2点を考えても、コミュ力は「いる」。

「なーんだ、コミュ力に自信がない人間にできる仕事なんてないんだ。だまされた」と思ったコミュ力低人間の皆さんは、ちょっと待ってほしい。

 

なぜなら、わたし自身は上で紹介したアンケート回答を書いた、岩手の20代女性に近い。

というか、そのままだ。

友人は少なく、就職活動は上手くいかず、会社勤めにもなじめなかった。

そんなわたしでも、まがりなりにも15年、フリーのライターとして糊口をしのいでいる。

なぜか。

 

それは、主に「会社などの組織で必要とされるコミュ力」と

「対個人で必要とされるコミュ力」は別物であり、

フリーのライターというのは後者をメインに生きていけるからだと思う。

 

わたしは会社勤めは2度、社保ありのフリーターとして1度就職した。

そのときに漠然と感じたのは、組織にはいろんな不文律があるということだ。

服装、しゃべり方、しゃべる内容、気づかいなどなど。

20代のころ、わたしはその多くが理解できなかった。

というか、理解できていないことも、理解できなかった。

そういう人間は、当然、就職活動でも、「組織が何を求めているか」がわからない。

まず、書類選考が通らない。

 

以前、とある人が言った。

「就職活動ってルールがあったじゃないですか。

ルールがわかれば楽勝のゲームじゃないですか」

わたしはびっくりした。

あの就職活動にルールがあったなんて!

働いたことのない学生に「志望動機」を語らせたり、変化球のオモシロ質問でなんだかんだと機転を試してくる就活は、わたしにとっては終始曖昧模糊としていた。

加えて言えば、就職活動にかぎらず、文章化されていないルールがわかったためしがない。*1

とくに、組織が絡むとその靄が濃くなる。

 

そんなわたしでも、2回会社勤めをした。

ということは、いちおう、応募して採用にいたったわけだが、いずれも、エントリーシートから一次面接、二次面接、と過程を踏んだわけではない。

新卒で就職した会社でさえ、自分で見つけた細々した求人に自前の履歴書を送り、2、3時間がっつり面談して「で、いつから出社できます? まだ学生さんだっけ?」と決まったものだった。

機械的な面接ではなく、個人vs個人のコミュニケーションに持ち込めたので、なんとか決まったのだと思う。

そうして就職した会社はかなり体制が古く、「セクハラは流すもの」「飲み会絶対」などの空気が蔓延しており、うまくはなじめなかった。

業績不振を理由に追い出されたが、やっぱりその辺のなじめなさにも原因があったのではと、わたしは思っている。

 

2回目の就職は、ライター業を主とする小さな編集プロダクションだった。

そこの面接でわたしは、

「あの……でも、仕事として書いたことはなくて」

「好きな文章を好きなようにしか、書いたことがなくて」

と自信がない発言を繰り返し、面接した上司に

「えっ、で、なんなの。書くのはいちおう好きなんだよね? だからウチ受けたんだよね?」

と確認される始末だった。

ルールどころではない。

よく採用してもらえたものだ。

 

***

えーと、これは完全に話がずれますが……。

わたしが「書くの好きか」と聞かれたのは上司が業を煮やしたからであって、 ふつうはあんまり聞かれないし、 書くことが好きでもあんまりアピールするもんではないかなと思います。

ライターって、実は書く以外の業務も多いですし。

何より、書くのは業務の一部。

転職活動の面談で「経理が好きです!」とは言わないようなもので……。

***

 

話をもとに戻す。

そういった経験からわたしが学んだのは、不文律は、多くの場合、「組織」「職場」で発生するということだ。

 

コミュ力に自信がない人に、一度想像してみてほしいことがある。

「職場」で人間関係が発生せず、黙々と仕事ができるとしたら、どうだろうか。

会社組織として人が集まっているのだから、当然、協力はしあう。

しかし、助力を願うときは挨拶や社交辞令一切抜きに用件だけを書き、メッセンジャーでやり取りをする、

もしくは掲示板に困ったことを書くと、手が空いた人が手伝う、といった形。

気遣いは最低限。

案外、「それだけなら上手くできる」と思う人は多いのではないだろうか。

もちろん、そういった世界が理想といっているわけではない。

人間は組織をつくり、コミュニケーションを緊密に取り合うことで大きなことを成しえることができるし、成しえてきた。

これはそこからこぼれ落ちてしまう人のための、思考実験だ。

 

フリーになって仕事をするということは、「それだけ」、つまり、「業務だけ」に近いとわたしは思う。

空気や不文律が多く含まれる「職場」「組織」ではなく、「個人vs個人」で、業務の話だけをする。

業務を正しく遂行しさえすれば、おおむね評価され、次の仕事が来る。

その業務のなかに、ある種のコミュニケーションが含まれる。

が、それはあくまで業務だ。

会社での世間話や根回しに比べたら、ずっと道筋や目的がはっきりしている。

そして、エントリーシートに「志望動機」を書かなくても、仕事を求めるならポートフォリオがあればよい。

「これをやりました」「これができます」「こんなことに興味があります」それだけで事足りる。

シンプルでわかりやすい。

仕事が上手く回りはじめたら、ポートフォリオさえいらない。

「この仕事をやった」という事実が、次の仕事を運んでくれる。

 

当然、さまざまなフリーランスがいるので、業務の能力に加え、卓越したコミュニケーション能力でバリバリ仕事をしている人もいる。

けっこういる……。

何度も断るが、これは「こぼれ落ちたわたし」が、どこかにいる「こぼれ落ちそうな人」のために書いている文章なのだ。

 

こうして考えていくと……。

世間では「コミュニケーション能力」はざっくりひとつにくくられているが、組織内で必要なものと、個人間で必要とされるものは、別物なのだと思う。

もしくはふたつは一部重なるが、重ならない領域も大きい。

また、「コミュニケーション能力」はある/ないではなく、「グラデーション」があり、その濃淡は条件により変わってくるのではないか。

 

職場での世間話が苦手な人も、「趣味」というフックさえあれば、ガンガンコミュニケーションを取ってツイッターでつながり、同人活動をし、アフターでしゃべりまくる、なんて例はたくさんある。

「趣味」が電極となって、その場に必要なコミュニケーション能力を呼び覚まし、人と人とをつないでいる。

 

仕事の領域も、同じなんじゃないかと思う。

たとえば、わたしだったら、「ライティング」の分野でなら、それをフックに業務に必要なぐらいのコミュニケーションはできる。

人間は、得意な分野であれば、

「コミュニケーション能力を発露しやすい」

「もしくはコミュニケーション能力の低さをカバーしやすい」

「カバーできなくても改善案を模索しやすい」

のではないか。

 

この社会には、「ベストじゃなければ全部ダメ」の呪いが蔓延していると、わたしは思う。

「ライターだってコミュ力がいるよね」が、あっという間に「コミュ力ないヤツは何やってもだめ。どこにも居場所がない」に変換される。

これは人から他人へと発せられるメッセージに含まれることもあれば、自分のなかで変換して、落ち込んでしまう人も多いんじゃないかと思う。

てか、わたしはそうだ。けっこう落ち込む。

 

そりゃ、ライターだってコミュ力が高いにこしたことはない。

世間話をできるひとは、ライターに限らず強い。

じゃあ、コミュ力ないやつぁライターのなれないのか。

そんなことはない。

「最強」「強強」「誰もが認める理想の」ライターにはなれなくても、なんとか生きていくことはできる。

 

同様の呪いに、「会社員にもなれないヤツが、フリーランスになって上手くいくはずがない」もある。

そりゃ、会社員をやれる能力があって、それでもあえてフリーランスになる人は強い。それに越したことはない。

ただ、じゃあ、会社に馴染めない人はどこにも居場所がないのか?

稼ぐ権利がないのか?

そんなことはないと、わたしは信じている――というと生ぬるい。

「会社員になれないヤツは、何をやってもダメ」という言説に関しては、耳を貸さないようにしている。

これは生き死にに関わる問題だ。

そんな人間でも、たいていは何かで稼いで生きていきたいと思っているのだから。

 

そしていま、わたしは

「人間は稼ぐものだ」

フリーランスが最後の居場所だ」

ともとれる物言いをしている。

これも一種の呪いだ。

フリーランスで上手くいかなくても、稼げなくても、人にはどこかに居場所がある。権利がある。幸福を、よりよい居場所を追求していける。

世間はそう言っちゃくれないので、自分で言い聞かせるしかないのがつらいところだ。

 

世間では、「中長期にわたり、賢く安定した人生を送る計画性」が賞賛される。

賞賛される、ならまだいい方で、「標準装備」とみなされることがある。

まるで「明日も明後日も、無事に生き延びれるのが当たり前」と言わんばかりだ。

しかし、ある種の人間にとって、明日を生き延びられるのは当然のことではなく、安定も中長期の計画も、まず、明日を生き延びねばありえない。

 

わたしはこれからフリーランスとして老いていく。

この先、50代、60代と年を重ねて食い詰めたら、「会社員でいればよかった」と思うだろうか。

答えはノーだ。

会社員で居続けることは、できなかった。

もしその方向で努力していたら、早晩精神を病んでいただろう。

いまが一番、「長く生き延びているシナリオ」なのだ。

しかも、ありがたいことに、そこそこ健康に。

あのとき「わたしは何をやってもダメなんだ」と絶望して道を模索しなかったら、あのとき死んでいたら、そもそもこの年齢まで生きてはいない。

考えるべきことは、「このシナリオでできるだけ長く生きること」。

 

だから。

「ライターにもコミュ力いるよね」

「てか、ほとんどの仕事にコミュ力いるよね」

なんてやり取りを見かけるたびに、その言外に漂うものに落ち込むとき。

わたしは心の奥でこう呼びかける。

 

世界のどこかにいる仲間たちよ。

世間が求めるものを満たしていなくてもOK。

低くでOK。

細く長くでOK。

手持ちの札で勝負できる方法を探して、

どうか生き延びてくれ。

わたしもとりあえず、明日を生き延びるから。

*1:厳密に言えば、乗りこなせたルールがわたしにもひとつだけある。それは「小論文の書き方」だ。

羽毛布団を失った傷は、羽毛布団で癒やす

今週のお題「あったか~い」

 

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ぐっすり寝ていたところを起こされて不機嫌な猫さんのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20190219051post-19652.html

 

 

我が家の「あったか~い」といえば、羽毛布団だ。

 

以前、こんな記事を書いた。

5年前のことだ。

要約すると、「思い出がある羽毛布団をなかなか捨てられない」という話だ。

 

hei-bon.hatenablog.com

 

実は、記事を書いた後も、なかなか羽毛布団を捨てられなかった。

ゴミ袋から引っ張り出し、この年の冬も、結局、同じ羽毛布団を使っていたような記憶がある。

ぺしゃんこの羽毛布団と毛布を併用する日々。

寒さで睡眠の質が下がっているのではと重い腰を上げたのは、一年でもいちばん冷え込む2月のこと。

どうせならいいものがほしい。

しかし、価格はピンキリ。

さらに、費用対効果が見込めるのかどうかわからないものが跋扈しているのが寝具の世界。

そのなかで、信用できそうで、かつ、現実的なお値段だったのが、ビックカメラで扱いがある「生毛工房」だ。

 

www.biccamera.co.jp

 

羽毛布団の品質を決めるのは、羽毛がダックかグースか。

また、肌に触れる側生地が何でできているかだといわれる。

 

「生毛工房」の羽毛布団は、以下のようなポイントを押さえていた。

・最低ランクのものでも、高品質とされる「グース」の羽毛が使われている。

・側生地について、「ツイル織(綾織)で仕上げました」と説明がある。それがどういう生地のかよくわからないが、こだわっているのはわかる。

ニトリ無印良品の布団に比べれば高いが、羽毛布団のなかで同品質のものと比べると価格が良心的。

・アフターケアの案内があったこと。現行の羽毛布団のようにぺしゃんこになる前にメンテナンスができそうなこと。しかも、打ち直しのさい、ダウンの充填が無料。

とくに、最後のアフターケアは大きかった。

思い出の布団を知らず知らずのうちに使いつぶしてしまったショックが大きかったのだ。

 

実店舗へ夫婦で足を運ぶと、「生毛工房」の羽毛布団は見るからに軽くてあたたかそうだし、側生地のしなかやかな肌触りにも安心感があった。

実際は、カバーをかけて使うので、直接ふれることはめったにないのだが……。

ともあれ、そんなこんなで購入に踏み切った。

選んだのはこのPR-310。

PR-310/ナチュラル|生毛(うもう)ふとん|商品情報|生毛工房(うもうこうぼう)

 

使ってみると、軽くてあたたかいことこのうえない!

かけるとたちまち、ぬくもりが広がる。

熱が逃げず、それでいてこもらない。

また、このメーカーの布団は縦横ともに通常サイズよりも大きく、余裕があるのもいい。

シーツが純正品しか使えなくなるのは、玉に瑕だ。

 

ただし、あたたか過ぎて、東京だと真冬以外は出番がない。

というわけで、冷え込みが厳しくなってきたいま、今年もこの「生毛工房」の布団の出番とあいなった。

使い始めて4年ほどたったろうか。

毎年、シーズンはじめは、ふかふかとしたあたたかさについつい眠りすぎてしまう。

この布団をはじめて使った日もそうだった。

気持ちよすぎて、次の日の昼過ぎまでぐっすりと寝てしまい、夫と「買ったのが土曜日でよかったね」と言い合ったものだ。

 

そういえば、羽毛布団としては良心的とはいえ、一枚5万円弱の布団を買うのはやはり思い切りが必要だった。

緊張で喉が渇いて、購入後、どでかい布団を抱えたまま喫茶店に入った。

真冬なのに、あの日はめずらしくアイスティーを頼んだっけ。

 

古い羽毛布と同じく、新しい羽毛布団にも思い出と、ごく個人的な歴史が積み重なっていく。

これが我が家の「あったか~い」愛用品。

今夜もあの布団で眠るのが楽しみだ。

書くことの不思議

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何も書かれていないメモ用紙とペンのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210902249post-36518.html

 

「頭のなかにあるうちは傑作。書いたら駄作」

とは、創作界隈ではよく言われることば。

つまり、構想しているときは名作になりそうなのに、興奮して書きはじめると、そうでもない……。

 

ブログでも小説でもなんでもそうだ。

なんなら、仕事で書く原稿でも、そういうことがある。

さすがに仕事は数をこなしているので、ギャップを感じる機会はすくないし、感じても断崖絶壁レベルではないけれど。

 

とにかく、「書きたくて書く」文章については、

「こういういい感じの情感を込めよう! エモい!」

「これはかっこいいシーンになるぞう!」からの、

「こんなはずじゃなかった……」の繰り返しだ。

 

自分のなかからアウトプットした時点で、まず、その落胆がある。

めげずに自作をネットの海に放流すれば、第二の落胆がある。

同じお題で書いた他人の文章を読んで、ひねりや技量、あるいはとんでもなく力強いストレートに驚愕し、かえりみて自分は……と落ち込んだり、

他者からの反応の多寡で、自分の立ち位置がわかってしまうこともある。

 

すみません。

「こともある」は嘘です。

そんなことばっかりです。

 

不思議なのは、

「書かなきゃよかった」

「ずっと頭のなかに納めておけばよかった」

「誰の目にもふれさせず、ローカル保存しておけばよかった」

とは思わないこと。

 

結果がしょっぱくても、また書いて、発表しようと思う。

 

立ち位置がわかるのはつらい。

上手く書けないのは情けない。

「才能がない」と直視するのは痛い。

それでも、また打席に立ちたいと思う。

ボールを投げたいと思う。

できることなら、次はもうすこしだけでも上手く、ほんのすこしだけでもひとの心を打つものを。

 

超速球を投げ、打席に入ればホームラン連発、いつも観客をわかせている、てな剛腕な書き手は別として。

おそらく、ネットで文章を発表しているひとの多くは、同じようなメンタリティを持っているのではないかと思う。

 

ただ、自分自身に関しては――。

嫌なことは極力やらない。根性がない。気力がない。

会社員時代は、通勤が嫌過ぎて、会社の近くに引っ越した。

そんなわたしが、どうしてそのようなメンタリティを持てるのかは皆目わからない。

 

書くことの不思議。

「書くことには、それだけの魔力がある」なんてピンとこない。

「書く」のはコミュニケーションの一手段だ。

なのに、どうして我々は、いや、わたしは、虚空に向けてボールを投げつづけてしまうのか。

あるかないかもわからないボールにバットを振りつづけているのか。

 

理由も機序も何もわからない。

 

頭のなかにある妄想も、胸をしめつけるあの想いも、取材に行ったいい感じの店の「いい感じ」も、ぜんぶ書きたい。

元気に思考できるうちは、できるだけ長く書いて、できるだけ遠くへ届けたい。

人生の残り時間を頭の片隅に、手書きで、ブラインドタッチで、フリック入力で、何かを書きつづっている。

20年目のブーツと未来へ歩く

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オフィス街の横断歩道を渡る人たちのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210337085post-34003.html

 

ショートブーツのファスナーを上げる。

と、スライダー(つまみ)がファスナーから外れた。

「ありゃ」

もう捨てるか、と一瞬考える。

何しろこのブーツ、もう20年近く使っているのだ。

 

そのショートブーツを買ったのは、新卒で入社した会社に勤めていたころ。

「これからは多少、きちんとしたかっこうをしないと」

そう思い、銀座の靴屋で買い求めたものだ。

黒くてヒールが低い、プレーンなデザイン。

スクエアトゥがやさしい雰囲気なのが、気に入った。

革がやわらかく、履いた瞬間、足が包まれたように感じた。

価格はたしか、5万円未満。

ショートブーツにしては安いが、当時のわたしには思い切った出費だった。

「長くお使いいただけますよ」

支払いを済ませると、にっこり笑って、店員は紙袋を差し出した。

それを受け取りながら、わたしは、「いいものを、長く使う」という「すてきな未来」を漠然と思い浮かべた。

 

はじめてそれを履いて出勤した日。

ツイードの赤いワンピースと合わせて、落ち葉舞う道を、さっそうと歩いた。

ブーツは軽くてやわらかくて、どこまでも歩いて行けそうな気がした。

 

ほどなくわたしは失職し、ブーツはしばらくお蔵入りになった。

無職時代のわたしは身なりにかまわず、たいていジーンズにスニーカーを履いていた。

これではいかんとアルバイトを始めた巨大雑貨店でも、靴はスニーカーが指定されていた。

ある日、デパートのショーウィンドウに映った自分を見て愕然とした。

眉間にしわ、髪は伸び放題。

春が近いというのに、サイズが合わないぶかぶかのダウン。

足元に目をやると、履きつぶしたスニーカー。

そういえばもう何か月も、「新しい服や靴がほしい」と思ったことがない。

服を楽しんで選ぶこともなく、毎日めんどうくさいなと思いながら、ただ身にまとう日々。

ひとりのときは、いつも泣いているか、イライラしているか。

これはヤバいなと、転職活動をはじめた。

 

編集プロダクションで働きはじめると、ふたたびショートブーツが活躍した。

適度にきちんとしたかっこうにも合って、しかも下手なスニーカーより歩きやすい。

取材では立ちっぱなしのことも多く、ときにはカメラマンをサポートして駆けずり回ることもある。

休日、遊びに行くときも、足元が疲れづらいので助かった。

そんなこんなで履いていれば、靴底が減る。

何度か修理屋へ持って行き、張り替えてもらった。

 

独立後、まだ仕事が少なかった時期、ショートブーツは意外な局面で重宝した。

小づかい稼ぎになればと不定期でやっていた、携帯電話の売り子バイト。

携帯ショップに入るときは、「黒いズボンと黒いパンプス、貸与のジャンパー」が指定の服装だった。

ズボンを履いてしまえば、パンプスもショートブーツも見分けがつかない。

店頭にいる間はまず座れない環境で、長年履き慣れたブーツには、おおいに助けられた。

 

そうこうするうち、仕事が軌道に乗ってきた。

たまの出張には、必ずショートブーツを履いていった。

どんな服装にも合って、歩きやすい。

そこそこ高級な店を取材するときにもカジュアル過ぎない。

「これがあれば、だいじょうぶ」

いつしか、そんなふうに思うようになっていた。

それは、コーディネートのうえなのか、取材中の足回りなのか、ゲン担ぎなのか、そのぜんぶなのかわからないけれど。

 

サイドにあるファスナーを閉める。

「よし、行こう」と一歩を踏み出す。

ショートブーツは戦友のような存在だった。

 

そうして、気づけば20年。

戦友にだってガタは来る。

冒頭に書いたように、ファスナーが壊れた。

靴底が減ることはあれど、「履けない」不具合が出たのははじめてだ。

そろそろ捨ててもよいのでは、と考える。

駅前の靴修理店に持ち込み、「靴底もだいぶ減っているので、しめて7000円はかかる」と言われ、

やっぱり次の10年を戦えるブーツでも探したほうがいいのでは、と心が揺らぐ。

 

それでも10日後、わたしはピカピカに磨かれたショートブーツのファスナーを上げ、取材に出かけている。

 

このブーツを、わたしはいつまで履きつづけるのだろう。

「いいものを、長く使う」

あの日考えた漠然とした未来を、今、生きている。

その先は?

「若いときに買ったものを、大切に使う」から、「死ぬまで使いつづけた」になるのだろうか。

 

ファスナーを上げながら、ふと思う。

そもそも、わたしはいつまで、自分の足で歩けるのだろう。

ブーツの寿命の前に、わたしの健康寿命が尽きる。

そんな未来もありえるのではないか。

わたしは首を振って気持ちを切り替える。

なるべく食生活に気をつけて、リングフィットも怠けずにやって……。

 

そうしてわたしは、今日も一歩を踏み出す。

相変わらず曖昧模糊としていながらも、わずかに「おしまい」が見えはじめた未来に向けて。

20年目を超えたブーツとともに。

「赤」に込めた祈りは、結果として叶えられたのかもしれない

今週のお題「赤いもの」

 

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多色のカラーペンのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210927249post-36520.html

答案用紙はいつも真っ赤だった。

原稿用紙を模した答案用紙には、見知らぬ中高生が書いた小論文。

鉛筆書きで、筆跡はさまざま。

わたしは万年筆を握り、その欄外に赤字を書き入れていく。

ときに鉛筆書きの文章の横に傍線を引き、

「ここは具体的で伝わってきます!」

「ここをもっとこう膨らませてみましょう」

などなど。

かならず、いい点を一点以上。

そして、修正アドバイスは、できればいい点を引き立つようなものを。

――ぜったいに、書くのが嫌いになってほしくない。

――できれば、書くことは、「悪くない」と思ってほしい。

その思いで万年筆を走らせる。

文言に迷って、ときには赤字を消して書き直す。

修正液のたぐいは使用禁止。

塩素の香りがする液体を消したい文字に垂らし、ティッシュでふき取る。

ドライヤーでゴウゴウと紙を乾かし、また新たな文字を書き入れていく。

熱された紙は、存外熱い。

書き損じがつづくと、塩素のにおいで胸が焼けるよう。

六畳ひと間にカリカリと万年筆が走る音が響いた。

それが、大学時代にやっていた、小論文添削バイトの思い出だ。

 

さいきん、小説投稿サイトを利用するようになった。

小説を書き、読むのはごく個人的な行為なので、つながりなどないかと思っていたら、そうでもない。

趣味が合う作者同士は自然に読み合うようになり、SNSで交流している。

「書く」ことにまつわる悩みとその解決法は、みんなシェアしたいものだ。

創作論も盛んで、ときには論争を見かけることもある。

そのなかで、根強いのが「テンプレ小説と、それがウケることへの反発」だ。

テンプレとはテンプレートの略で、投稿サイトにおいては、いわゆる「俺TUEEE」と呼ばれる、主人公がとくにかく無双しまくるものや、「チーレム」などがある。

「チーレム」とは、「異世界へ転生し、なんらかの理由で"チート"な能力を得た主人公が複数の女性に好かれる」展開をさす、らしい。

ランキング上位には、そういった展開を期待させるタイトルが多い。

読者から人気のジャンルなのだ。

一方で、「安易な展開」「ヒロインがちょろすぎる」などの批判も多い。

欲望に忠実すぎる、ということなのだろう。

そういった批判は筋では理解できるものの、「ああいった小説が質を落としている」とまでなると、ちょっとよくわからない。

わたしは投稿サイトには多様な小説がアップされ、それを求める読者でにぎわっていてほしい。

その大半がわたしに理解できるとかできないとか、そんなことは関係なく。

 

というのも、Web小説の読者には、既存の小説になんらかのハードルを感じる、もしくは魅力を感じない読者層がそれなりにいるのではないかと感じるからだ。

彼らはWeb小説が、商業ベースの小説と同様に”質が高い”ものになったら、暇つぶしの娯楽に活字を選らばないだろう。

漫画、スマホアプリ、サブスクリプションサービスで配信されるアニメ、映画。

今どきは可処分時間の奪い合いだ。

もっともこれには根拠はない。

アップされている小説群と感想などを眺めての、ただの推測だ。

 

ただ、もしも。

「テンプレを使ったWeb小説『なら』読む」層がいるのだとしたら。

活字を読む層、つまり、文字の連なりから、何かを想像することを娯楽とするひとたちが世の中に増えたということにならないか?

そうだとしたら、わたしはうれしい、と思う。

なんだか何様って感じではあるけど。

 

「読む」なんて個人的な営みだ。

文字を追うのは楽しい。

けれど、ひとがどう楽しむか、そんなことは自分には関係ない。

そう思って生きている、と思っていた。

でも、わたしはそれが「広がってほしい」と思っていたのだ。

 

そう気づいたとき、ふーっと胸によみがえったのは、塩素の香り。

真っ赤に埋められた答案用紙。

万年筆がカリカリと紙面を走る音。

冒頭にあげた、小論文の添削だった。

あのときは、「読む」ではなく「書く」だったけれど、わたしは「書くことを楽しむひとが、ひとりでも増えてほしい」と思っていた。

「書く」ことなんて、ごく個人的な営みなのに。

 

たぶん、きっと、だれにも届かないけれど。

うまく伝えられないかもしれないけれど。

朝活か国語の授業かで、おそらく無理やり文章を書かされて辟易している彼ら、彼女らのひとりだけにでも。

「前より上手く書けたな」と感じる瞬間がきたら。

「書くのも悪くない」と思ってもらえたら。

万年筆を強く握りすぎて、たくさん書き過ぎて、いつも手が、指が痛んだ。

それは祈りにも似ていた。

 

現在のわたしは、「書く」「読む」喜びを広げるために、具体的に何かをしているわけではない。

ただ、時代は変わり、ネットの発達で多くのひとが「読む」「書く」が手軽にできるようになった。

このブログだってそうだし、投稿サイトもそのさいたるものだ。

わたしの意志とは関係なく、世界は変わる。

その結果、「答案用紙を埋めつくす赤字」に込めたわたしの祈りは、叶えられたのかもしれない。

キーボードを打ちながら、そう思う。

よ、読まれねえーーーッ

今週のお題「叫びたい!」

 

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空き箱の中で大あくびする猫のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20190210051post-19647.html

タイトル通りである。

このブログをはじめて5年。

最高のアクセス数は、どれぐらいだろう。

世の中に言ったら鼻で笑われるような数字であることは、まちがえがない。

 

それでいいと思っていた。

なにしろタイトルは「平凡」だ。

平凡な暮らしのよろこびをつづろう、そう思って開設した。

備忘録のつもりだったのだから。

 

振り返れば、テキストサイト、ブログ、mixiツイッター、そして最近は小説投稿サイト。

インターネットの歩みとともに、ときのサービス上で、ずっと文章を書いてきた。

 

しかし、いまのことばでいうなれば、バズったことは一度もない。

一方で、ありがたいことに、常に読者はゼロではない。

どのサービスを使っていたときも、数人は読んでくれる方がいた(いる)。

それと、テキストサイト時代に比べれば、ブログの検索流入のチカラはすごい。

だって、何かが書いてさえあれば、一日のアクセス数がゼロってことはまずないのだ。

こうした「お題」記事で、ほかのユーザーとつながる機会もある。

たとえほとんどの訪問者が、即ブラウザバックしたとしても、いちおう、開いてはくれるのだ。

これって夢のようです、ほんとうに。

 

ついでに言うなら、小説投稿サイトも同じことで、何かを本気で書いていれば、それなりに読んではもらえる。

ブログよりさらに純度を増した、書きたい、読みたい人の集いである。

そんな場所がこの世にあるなんて!? 

最後の桃源郷なのか!?

と驚きつつ、気づけば自分も、ひとの小説やエッセイを、むさぼり読んでいる。

 

こうしたサービスの恩恵を感じると同時に、悟るのだ。

「開いてもらえる機会はあるのに、読まれない。これって力不足ってことだよね」。

 

思えば、わたしは「ひとに読ませないこと」を前提に文章を書いたことは、ほとんどない。

Evernoteにつけている日記ですら、「未来の自分」という他人が楽しめるように、だれか酔狂で感性が合った他人の目に入ったとき、最低限、読んで苦ではないように、意識して書いている。

 

何より、「書く」ことは、コミュニケーションの手段なのだ。

吐きだし、記録、といった意味合いもあるけれど、こうして外へ公開している以上、コミュニケイトを意識していることは間違えがない。

ほぼ返ってこないボールを投げて、投げて、投げて、投げて。

ある日、気づくのだ。

肩が疲れたな。

 

趣味性が強い文章を、たった数人でも読んでくれる。

繰り返すけれど、それはすごいことだ。

そりゃ、わかっちゃいる。わかっちゃいるけど、気づいてしまった。

わたしはもっと、読まれたい!

 

そのために。文章のクオリティが足りない、詰めが足りない。

それを埋めるための思考が足りない。

インプットが足りない。

試行回数が少ない。

とかく、不足が多い。

そして、内容もそうだが、「読まれたい」ともっと開示することや、

自分のスタイルを保ったままで、「読まれる」ための努力をすることも、もっと必要なのではないか。

 

読まれたい、読まれない、それは苦しい。

なれば、どうするか考えるしかない。

だって、書くことはやめられないのだから。

 

とにかく、「読まれねえーーッ!」「読まれたい!」。

それがわたしのいまの叫びだ。

 

何かを叶えたいならば、求めつづけるしかない。

そして、その第一歩は、不足に気づくことなのだ。

不足を、そして、自分が何かを求めていることを悟ることは苦しい。

でも、わたしは信じている。

「求めよ、さらば与えられん」。

さみしさを埋めるため、読書を通して究極の孤独にふれる

今週のお題「読書の秋」

 

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一面の落ち葉とベンチのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20181208347post-18996.html

この前まで暮らしていたちいさなアパートには、敷地内に大きなけやきの木が生えていた。

外から帰ってくると、建物よりも先に、そのけやきの木が目に入る。

 

冬は丸裸の枝が、空をバックに繊細なシルエットを描いていた。

早春の芽吹きは、まさに萌黄色。あざやかで若々しかった。

初夏から夏にかけての緑陰は、しばしば暑さにへきえきした通行人の憩いの場になった。

九月も半ばを過ぎると、少しずつ葉を落とし、夏の終わりを教えてくれた。

そして、秋本番。

冬迎えを急ぐかのごとく、落葉のスピードが上がる。

 

冷え込む晩、夜中にひとり、キーボードを打つ。

ふと手を止めて、台所であたたかい飲み物を入れる。

そんなとき、窓ごしに、からり、からりと落ち葉が一枚、また一枚と落ちる音がした。

降り積もった葉のうえに、新たな落ち葉が重なるときの、乾いた音。

それはぞっとするようなさみしさを感じさせた。

 

その音を聞きながら、わたしはいつも『黄色い雨』という小説のことを思い出した。

主人公は、過疎の村で最後の住人となった老人。

建物という建物が朽ちゆき、イラクサがはびこる廃村での、すさまじいまでの孤独を描いたスペインの作品だ。

そのなかで、ポプラの落葉を、ひいては押し寄せる忘却の波すべてを「黄色い雨」とたとえるくだりがある。

忍びよる死の足音を聞きながら、老人が思い出す村での記憶、そして夜闇の深さ。

 

けやきの葉が一枚、また一枚と、絶え間なく落ちゆく音を聞きながら、わたしは老人の孤独を思ったものだった。

 

そして今年。

引っ越しをした。

わたしは数年ぶりに、けやきの落葉なしの秋を迎えている。

窓を開けると、隣家の敷地に柿の木が見えるけれど、すでに葉はすべて落ち、橙色の実だけが目に鮮やかだ。

夜中に仕事の手を休め、紅茶を淹れて、わたしは思う。

落葉のさみしさがなくて、さみしい。

人生には、いろんな感情がある。

 

そこで、わたしはこの秋、数年ぶりに『黄色い雨』を手に取っている。

そこに描かれた、究極のさみしさにふれるために。

そのさみしさで、現実のさみしさを埋めるために。

人生には、いろんな欲求がある。

 

読書と現実に、そんなことを教えられる秋である。