この、腹に響くものはなんだろう。
夫の料理を食べるたびに考える。
が、答えは出ない。
「料理って、家事のなかでも特別な気がする」と、夫は言う。
掃除や洗濯に比べて、やってもらったときの「ありがたい」度が高いのだと。
「人間の生命維持と関わっているからかな」。
そうかなあ、そんな気もする。
答えながら考えるけれど、やっぱりわたしにはよくわからない。
ここ数カ月で生活に変化があり、夫が料理をしてくれるようになった。
これまでの人生で、夫はまったく料理をしたことがない。
義母はわたしが義実家へ行っても何もさせないひとで、それは夫や義姉に対しても同様だ。
ただ、夫は、料理に興味はあるようだった。
以前から、「時間があったら、料理はやってみたい」としばしば口にしていた。
わたしが作った料理について、「これは……しょうがとニンニク?」「これは焼いているの? 蒸しているの?」など、聞くことも多かった。
我々家族の生活に変化があった時期、わたしは激烈に忙しかったため、
夫はいきなりひとりで料理を担当することになった。
ただ、わたしが横にいるとかえってやりづらいようで、それは彼にとってよいことだったのかもしれない。
「いちょう切り」がいかなる切り方なのか、「中火とは何か、弱火とは何か」などの基礎知識は、ネットで調べられる。
いまある食材を検索窓に打ち込めば、それらを使い切れるレシピは山のように出てくる。
夫はいつも、「すこし食材を厚く切りすぎた」「ぜったい火を入れ過ぎた」など、さまざまな心配をしながら料理を仕上げた。
インターネットの恩恵を受けつつ、おっかなびっくり作る夫の料理は、どれも驚きのおいしさだった。
食材の切りそろえ方、火の通し方、そして盛り付けまで、どこにも乱暴なところがなく、すべてが行き届いている。
心配性で丁寧で、まずはマニュアルをよく読むタイプ。
そんな夫の善性が表出している。
品数は多いが、一品一品は荒っぽいわたしとは真逆だ。
夫がかなり初期に作ってくれた料理に、焼きうどんがあった。*1
醤油を使った、和風の味付け。具材は油揚げとネギだけ。
醤油を吸った油揚げがややカリッとして、くたっとなったネギの甘味が絡み合う、素朴で安心できる味。
――これは小学生時代、半ドンのときに近所のやさしいお兄さんが作ってくれた焼きうどんの味……。ああ、あのお兄さんはタイムリープした夫だったのか……。*2
実際には、近所のお兄さんも、彼が作ってくれた焼きうどんも存在しない。
が、そんな偽の記憶が生まれるほどの味だった。
想像力が広がる、というのはすなわち情動が動くということ。
夫の料理を食べるたび、軽く涙ぐんだ。
味覚ばかりか、腹に、心に響くもの。
これはなんなんだろう。
以来、考えつづけるけれど、わたしには、よくわからない。
そこでひとつ思い出したのは、母の再婚相手、すなわち義父の思い出だ。
義父はおおよそ表情を変えない昭和の男だったが、母の手料理を前にすると、相好を崩した。
母の料理を食べて、ではない。
母の手料理が並ぶ、それだけで、ほかでは決して見せないやわらかな表情をした。
実父は「妻が料理を作るのは当然」という人だったので、この反応はわたしにとっては驚きだった。
大人の男が、配偶者が料理を作るだけで、うれしそうにする。
そこに家庭の食卓がある。そのことに、喜びを示す。
それも、子どものわたしにもはっきりとわかるぐらいに。
長じて結婚すると、夫も同じような反応を見せた。
わたしはそう料理が得意なほうではない。
それでも、食卓に何かが並んでいるだけで、夫はうれしそうな顔をする。
悪い気はしない、というか、うれしい。
ただ、わたしには、夫の気持ちも、義父の気持ちも、我がこととして理解はできなかった。
「作られて喜ぶひと」の気持ちは、他人事だった。
「仕事から帰ってきて、食事があったらそりゃうれしいか、そうか」。
でも、そうじゃなかった。たぶん、それ以上のものがあるのだ。
夫が料理を作ってくれるようになってから、わたしにもそれが理解できた。
「それ以上のもの」が何なのかはわからないけれど。
今日の夕食は、夫の手による豚の生姜焼き。
ズッキーニとたまねぎも一緒に炒めたもの。
付け合わせとして、レタスとトマトが添えられている。
「生姜焼きに合わせるのはキャベツって思い込んでいたけど、レタスもいいもんだね」と夫は満足そうに言う。
炒め物をするとき、「付け合わせの生野菜」を用意するのは、けっこうめんどうくさい。
わたしはそう思っている。
だからこそ、夫がそれを付けてくれたひと手間がうれしい。
ちょっと生姜が多めの味付けは、夫婦ともに好きな味だ。
ほどよく食感が残ったズッキーニ、よく炒められたたまねぎの甘み。
それについてふれると、夫はズッキーニとたまねぎを投入するタイミングをズラしたと説明する。
「ズッキーニが入っていると、夏の料理って感じがするね」。
もし、最後の晩餐が選べるなら、こんなものを食べたい。
メニューはなんだっていい。
季節の食材を使い、わたしたち好みに仕上げられた味。
食材について、ちょっとした工夫について、語り合いながら味わうそんな食卓。
夫の料理を食べると、いまもすこし、涙ぐんでしまう。
その理由は、考えてもやっぱりわからない。