なんか知らんが、ずーっと勉強している。わたし自身の話ではない。夫の話だ。
顕著なのは英語だ。暇さえあれば、「Anki」や「reminDO」などの単語暗記アプリを試したり、単語レベルを調整できる「Newsela」で英文時事ニュースを読んだり。通勤時は英語のポッドキャストやら、単語帳付属の音声データやらを聞いている。しかも、3年ほど前までは、英検を受けるわけでも、TOEICを受けるわけでもなかった。何を目標とするわけでもなく、ただ英語を学んでいた。
「スマホをダラダラいじっている」というと、ソシャゲかSNSを連想するが、彼の場合は、たいていアプリを使って英語学習をしている。あまりにもライフワークなので、彼にとってベッドに寝転がって「reminDO」でおさらいをしている時間は、「ダラダラ」に該当するらしい。むしろ漫画を読んだり、Netflixで好きな映画を見る時間こそ、「作らねばならないちゃんとした休息時間」で、「がんばらないと作れない時間」にあたるらしく、何かが捻転している気がしないでもない。
彼の勉強を見ていて驚いたのは、大学受験勉強時の知識が、そのまま今の英語学習につながっているところだ。かなりカッチリした英文法解釈のもと、読んだり話したり(話すのは発展途上のようだが)を実践しようとしている。
英語のニュースで気になるものがあり、「この英文が読めないのだけど」と相談すると、「SVOCは」「これは関係代名詞だから……」とか言って説明してくれる。「グラマー」なんて言葉は高校に置いてきたままのわたしは、ただただ「すげーな」と思う。
たとえばいま、わたしがTOIECの勉強をするとしたら、適当にテキストを買ってきて、高校時代の知識とつなげる気もなく学び始めるだろう。もちろん身についているものがないではない。それでも、「高校時代の知識と地続き」とは思わないはずだ。「受験英語は無駄」といった意識がどこかにあるのかもしれない。
顕著なのは英語だが、夫はなんでも学習しようとする。仕事で文章を書かねばならなくなったときは、山ほど文章の書き方本やブログの書き方本を借りてきた。まずは図書館で手当たり次第に借り、ササーッと目を通し、いいものだけをじっくり読む。手元に残したいものは購入する。
わたしはライターをしているが、恥ずかしながら、振り返れば文章の基礎の基礎について、まともに学んだことはなかった。夫の姿勢を見て、「あ、文章って学べるんだ」と気がついて、文章の書き方本を読むようになった。これは夫から受けた影響のなかで、最も良いものだと思う。
夫は、心身に不調をきたせばその症状について信頼に足る書籍を読みふけり、家事をやるようになれば、最適解を求めてネットの海で情報を渉猟する。「とりあえずやる」か、「意味なく悩む」かしか選択肢を持たないわたしにとって、その姿勢は新鮮だ。
手を動かしながら「何が一番いい方法か」を調べ、常に考える夫の家事は、クオリティが高い。ひとり暮らしが長く、手癖だけで15年超やってきたわたしは家事の大先輩であるはずだが、もはやまったくかなわない。
夫は「俺は頭がよくないし、器用じゃないから」と、いつも言う。だから、まずは調べる。上手くできたら、手を動かしながら「どうやったか」を頭のなかで言葉にし、説明しているのだという。「そうしないと、不器用な自分には再現ができないから」。
そのせいか、彼は説明がとても上手い。
印象に残っていることが、ふたつある。ひとつ目は、新婚旅行でハワイに行ったときのこと。シュノーケリングが上手くできないわたしに、「まず、シュノーケルをくわえて」「次、吸って、吐いて」と、レクチャーしてくれた。彼が言った手順をきっちり守ると、落ち着いて息ができた。のちに、「シュノーケリングをどこかで習ったことがあるの」と尋ねると、彼は首を振った。「自分が上手くできたから、どうやっているのかを順を追って考え、それを言葉にした」のだそうだ。
もうひとつは、夫婦で「やり直し中学数学」のような書籍を読んだときのこと。ふたりともわからない問題があった。うんうん唸っているうちに、夫は自分がわかっていることをひとつひとつ説明しはじめ、そのうちにその問題を解いてしまった。
わたしはこういったことができるのを「頭がよい」と形容するのだけれど、彼の自意識はあくまで「そんなに頭がよくない。だから、説明が上手い」らしい。なので、どんなにアホな質問をしても、彼はけっしてバカにしたりしない。
最近、夫は理由あって、TOEICや英検を受けるようになった。好きなように勉強するのと、苦手なジャンルも含めて試験対策をするのでは、プレッシャーが違うらしい。試験前は顔をしかめて勉強し、終わると晴れ晴れとした顔をしている。
この前は英検を受け、「これでやっとやりたかった『英語のハノン』と『黄リー教』*1が思い切りやれる!」とうれしそうにしていた。いま、暇さえあれば「ハノン」を開けてノートに何やら書き綴っている。
「英語の息抜きが英語かよ」と思わないでもないけれど、その姿を見ていると、「ああ、合否がある試験って、こんな感じだったなあ」となつかしく思う。わたしはこの先の人生で、何か合否がある試験に挑戦することはあるのだろうか。締め切りには常に追われているけれど、期限を決めて学習し、合否を待つ経験は、遠い昔のものとなっている。
ふり返れば、大学受験はそれなりに努力……はしたのかもしれないが、家庭の状況が荒れ、わたしの精神もアレだったので、系統だって学習した記憶がない。なんとなくやっていると成績が上がる科目を駆使し、なんとなくの域を出ないがんばりと一抹の執念をもって、希望の学校に合格した。いまの仕事についてからも、やっていることは、「なんとなく」の域を出ないような気がしている。
独立して10年ぐらいまでは、毎日忙しいのだし、仕事があればそれでいいと思っていた。しかし、ここ何年か、「なんとなく」だけでいろんなことを乗り切ってきた限界や害を感じるようになった。
夫を見ていると、確実に遠くへ行けるのは、どんなに遠回りに見えても、愚直なまでに努力を重ねた者なのだ、などと思う。
達成すべき目標と、学習することの関連性が明確ではないとなかなかがんばれないものだが、できるだけ遠くへ、何かに届くために。わたしもすこしは学習習慣をつけようと思っている。
今週のはてなブログのお題欄に表示されているのは、「大人だってずっと勉強」。結局、たぶん、そういうことなのだろう。
今週のお題「試験の思い出」
画像は《ペンを持つ手とノートのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20140437120post-4117.html》
*1:「基本文法から学ぶ 英語リーディング教本」の略。2021年末に出版されて以来、英語学習者の間で大ヒットしているらしい。ちなみにうちには、「黄」の前身である「青リー教」、つまり「英語リーディング教本」があり、彼はこれも以前から読んでいた