平凡

平凡

夢の永久機関、その名は豆苗

鍋物ざんまいだった冬。*1
苦しまぎれの中華鍋に、豆苗を入れたときだった。
「豆苗って、家で栽培できるんだって!」と夫が興奮気味に言った。
好奇心旺盛な夫は、豆苗のパッケージをふんふんと読んでいた。
そして、「水につければ収穫できます」と、
ご丁寧に「豆の上からカット→ふたたび豆から芽が出てくる」イラスト付きで
解説されているのを見てしまったようだ。

わたしとて、過去に豆苗のひとつやふたつ、再生栽培したことがないではない。
しかし、なんとなく風味が落ちる、あるいはエグみが出る。
夏場は豆にカビが生えるなどの理由で、今は好んで挑戦はしない。

そう話すと、夫は
「へえ、そうなんだー。平凡ちゃんが嫌ならやめておこう」と聞き分けよく答えていた。

しかし、一緒にスーパーに行くと、夫は豆苗を手に取る取る。
「豆苗って、もう一回収穫できるんだよー」
「これって永久機関じゃない?」
「すごいよ、袋に書いてあるんだよ! 商売あがったりなのに!」
とまくしたてる。
夫はわたしの言ったことを簡単に忘れる男ではない。
とくに、嫌がることは注意深く覚えている。
その夫が、豆苗を買って栽培したいという。
「豆苗の再生栽培に関しては、クリティカルな嫌がりではない」
「押せばいける」と判断しているのだ。
そして、それはその通りなのであった。
ぐぬぬ
見透かされている。

スーパーに行くたびに目をキラキラさせている夫に根負けして、わたしは豆苗を購入した。
季節は春になっていた。
ちょうど余っていた駅弁の空き箱がジャストサイズなので、それを使って再生栽培をはじめた。

気温が低いころは、芽がのびるまでに、5日ほどかかった。
5センチほど伸びたところでカットし、鍋物に入れることにした。
夫は豆苗をキッチンバサミで切りながら、
「お相撲さんの断髪式みたいだね……」とうれしそうにしていた。
伸びるといっても、売り物のように太くしっかりはしていない。
まあしかし。
窓辺でわずかとはいえ、何かを収穫できるのは、
育てる喜びもあるし、来るべき食糧難への対抗策として、心強くもあった。
水をこまめに換えたおかげか、頼りない食感ではあるものの臭みはなく、
豆苗はそこそこおいしくいただけたのだった。

さらに5日ほど再生栽培を続け、2回目は、味噌汁に入れた。
歯ごたえもボリュームも、売り物にははるかに及ばない。

私はふたたび豆苗を購入し、鍋に使った後、再生栽培を試みた。
その頃には、春もたけなわ、だいぶ暖かくなっていた。
豆苗は、3日ほどでわさわさと伸びる。
材料を深く考えて料理する余裕がない日が続き、ほうっておくと、
さらにわっさわっさと生い茂り、シンクのほうまで垂れ下がってきた。
豆苗を使う機会がないまま、さらに土日で家を空ける。
もはや絡まり合い、もつれ合い、どこから切ってよいかわからない。
水もどんどん吸う。
容器がジャストサイズなこともあり、1日2回の水換えでも追いつかない。
さらに、小さな羽虫が豆苗を隠れ蓑にすることが判明。
けっして「わく」わけではないのだが、あまり気分のよいものではない。
暖かい時期は、あらゆる意味でコントロールが難しいと思いいたり、再生栽培を打ち切ったのであった。

結局、夫婦で至った結論はこうだ。
豆苗の再生栽培で、それなりにおいしくいただけるのは、おそらく1~2回だろう。
ベースの「豆」から栄養を得ているので、限界がある。
しかし、栽培の楽しさがあるので、収穫が終わればまた新しいパッケージを買ってしまう。
また、再生栽培後だと、パッケージの豆苗が、いかに完璧かがわかる。
完璧な豆苗を楽しみ、栽培を楽しみ、また完璧な豆苗が恋しくなり……。
豆苗は、永遠に収穫できる永久機関とはいえないが、
マーケティングとしてはかなり強い継続購入力があるのでは? 
だから、パッケージで再生栽培を促しても、「商売あがったり」にはならない。
「うまくできているねえ」と、夫も納得したようすで、めでたし、めでたし。

我が家の豆苗ブームは去った。
と同時に、鍋物頼りができるシーズンも去った今、
これから食卓をどうしようか……と考えている初夏である。

*1:最低限、野菜を切って適当なスープに投入するだけで完成するのだから、共働きにもやさしい料理といえよう