結婚して2年ぐらい経ったある日。
会社から帰るなり、夫が「うちだった!」と言った。
なんでも、家の外でとても美味しそうなにおいをかいだのだという。
「どこの家の夕飯だろう」と思って鍵を開けたら、「うちだった」というわけだ。
そのとき作っていたのは、カレー風味の炒め物だったように記憶している。
かように家の外に流れ出る夕餉のしたくのにおいというものは、魅力的で郷愁を誘うものだ。
それから数年が経った。
ここ最近、自ら料理をするようになった夫は、他の家の換気扇からただようにおいにも敏感になったようだ。
最近しきりと、
「あれ、あのにおいってなんなんだろう。こっくりして、たぶん醤油を使っているような……」
と言っている。
それは間違えなく、和風の煮物のにおいだろう。
しょうゆやみりん、酒を使って煮込むとき、なんともいえない香りが立ちのぼるものだ。
そういえば、夫のレパートリーには和風の煮物はない。
そこで、じゃがいも、にんじん、玉ねぎが余ったある日、「肉じゃがにしてみたら」と提案してみた。
小一時間ほど経ってできあがった肉じゃがは、こっくりしつつも、澄んだ味わい。
おそらく、丁寧にあくを取ってくれたのだろう。
じゃがいもは大きめに、夫本人がちょっと苦手なにんじんは小さめに切り揃え、いずれも火はしっかりと通っていながらも煮とけていない。
じゃがいもが崩れた肉じゃがも乙なものだけど、そうでないものがこんなに上品な味わいになるなんて!
と、ここに書いたことをそのまま伝えながら舌鼓を打っていたところ、夫がしみじみと言った。
「俺が最近、よく『なんのにおいだろう』って言っていたあのにおいは、肉じゃがだったんだなあ……」
よそのお宅のいいにおい。
「カレーだな」「肉じゃがかな」と推測しているうち、それを作りたくなる。作ってみる。
よくあることだけれど、夫にとってははじめてのこと。
正確には、「肉じゃがのにおい!」とピコーンと理解して、それを作ったわけではないけれど……。
「今日外を歩いていた人は、『このいいにおいはなんだ』と思ったかもね。夫と同じく」
と言うと、夫はえへへと笑う。
「しょうゆとみりんと出汁で煮ると、なんでも似たにおいになるじゃん。今度は煮魚とかやってみたら」
「煮魚かあ。何煮るの」
「……鯛、とか、かな」
「う~ん、今度、ロイヤル行ってみよう」
ロイヤルとは、近所にある質が高い魚を売るスーパーのことだ。
よそのお宅のいいにおいが広がる。
うちの料理のいいにおいも広がる。
夫のレパートリーも広がっていく。
我々を少し先の未来へと連れて行ってくれるのは、そんなちいさな広がりだけ。
しっかりと形が残ったじゃがいもとともに、そのことを噛み締めている。
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画像は《一切の手抜きがない栄太郎の煮物の炊き合わせのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20170358089post-10811.html》
煮物のイメージです。この画像は、岐阜県高山市奥飛騨にある平湯温泉とのコラボ。ご当地の旅館はすべて源泉かけ流しだそう。栄太郎はこのお宿です。行ってみたいなあ……。https://oyado-eitaro.com/