平凡

平凡

わたしがワクチン3回目接種を決めた理由。その長い長い説明

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新型コロナウイルスワクチン3回目の接種がはじまっている。わたしはこのワクチン、3回目も受けると決めている。で、なんでこんなふうに決めているのかな~と考えると、話は東日本大震災福島第一原子力発電所の事故までさかのぼる。

 

東日本大震災津波による原発事故が起きたとき、東京在住だった。被害はまったくなかったが、いや、なかったからこそ、いろいろなことを考えた。

まず、被災地に対して、東京在住で体を鍛えてもいない自分は何もできないこと。自分の仕事は、家事ネタ街ネタやエンタメ系記事中心のライティング。それらはあくまで平時の楽しみのためにあるものだ。命や暮らしの危機に瀕しては、何もできない職業なのだと痛感した。

自分が地元を離れ、根無し草としてそういった”余剰産業”に従事していられるのは、電気の力と文明の発達が前提だ。その前提を支えてくれていたのが原発であり、土地に根付き、農産物を作る人たち、第一次産業に従事する人たちであった。そして、原発事故はその人たちに甚大な被害を与えた。

そのこと自体もショックだったが、衝撃はそれにとどまらなかった。それまで国産野菜を安心、安全として賞賛していたであろう人たちの一部が、福島の農家の人たちに暴言を吐いたのだ。やんわりと自然派で、「人権は大事」「差別はいけない」と平時は言っているような人たちが、被害に遭った農家を叩いている。それも、決して人に言ってはならないような言葉で。地震に遭い、津波に遭い、原発事故に遭い、当時、一番、困っていた人たちを、まるで加害者のように扱った。ごく一部の人たちであっても、それはわたしに強い衝撃を与えた。

 

それと、原発事故にさいしては、過去の自分の態度を反省した。チェルノブイリ原発事故当時、幼かったわたしは、「ウクライナから遠いヨーロッパ産の農産物、乳製品が敬遠され、風評被害にあっている」とのニュースを見て、「そんなの当たり前じゃん。日本よりは近いし、なんか怖いし」と思ったことを覚えている。あまりにも残酷だった。「なんとなく怖い」が、被害や誤解を拡大し、その結果、甚大な打撃を受ける人たちがいるというのに。

 

SNSを情報が駆け巡るなか、自分の愚かしさにも直面した。「放射線量が上がったら、うがい薬を飲むとよい」というデマを拡散してしまったのだ。そういった情報は、すぐに本職の医師や物理学者に「愚かすぎる」と否定されていく。フォロワーが少ないとはいえ、あわててリツイートを取り消し、お詫びと訂正をツイートした。

この体験から、センセーショナルな情報は拡散されるが、訂正情報は拡散されづらいこと、訂正自体しない人が多いことを学んだ。また、政府や大会社は利益のために嘘をつく可能性があるが、市井の人たちもまた、自覚なく、結果的に嘘をつくことがある。それらは「怖い」「みんなに知らせなきゃ」など、素朴な感情や善意がトリガーのため、断罪されづらく、後々の責任を問われることもほとんどない。

それと、政府や大会社が嘘をついている可能性があるなら、市井が正しいというように、いわばシーソーのように真偽を考えていることに気がついた。それらは連動しているわけがない。両方が間違えていることも、正しいことも、混在していることもありえるのだ。

 

そういった経験を経て、非力な自分は科学によって生かされているにもかかわらず、科学のことを何も理解できていないと実感した。そして、科学が引き起こした有事にさいしては、科学に対する理解を進めないと、判断ができないことも。ツイッターでフォローするアカウントを増やし、科学や物理、医学に通じる人たちが何を言っているか、世の中に対して何をどう説明しているかを注視した。

そのうちに、科学や医学に通じる人たちの「将来的なことはわからないけれど」という前置きが、自分が考えるものとニュアンスが異なっていることを理解した。科学者や医学者は、わからないことはわからない、という。将来の影響はわからない。ただ、今の数字を見てどうかを判断し、予測する。無責任でも冷たいのでもなく、それだけなのだ。

未曽有の事故に対し、国も専門家もはっきりしたことはわからない。事故に対する大きな責任は国と東電にあるが、日々の判断は、自分自身で行わなければならない。

 

前段に書いたように、わたしは都会で「支えられて」生きてきた人間だった。空気を読めず、共同生活が苦手なわたしは、電力や文明なければ、大きな息苦しさを抱えていただろう。そんな人間として、福島や北関東産の農産物を、「なんとなく」避けることだけはしたくなかった。本当に危ないと判断したならば、避ければいい*1。でも、「なんとなく」は嫌だった。

幸い、物理や医学の知識がある人たちは、啓蒙に熱心だった。放射性物質についての知識を発信し、各自治体が出している計測値が正しいかどうかを自前で計測していた。彼らの政治的立場や個性はさまざまで、ときにその人たち同士でケンカが勃発した。が、科学的見解では一致していた。てんでバラバラな彼らが、皆が皆、政府に忖度しているとは思えなかった。

わたしはかつて、「なんとなく自然なものがいい」と思って生きてきた。だからこそ、「数値を見て、科学的に判断をしよう」と考えるようになってからも、誰かを絶対的に正しいとは思わないようにした。それでは、新たな依存先を見つけただけで、解決とはいえない。誰もがこの事態に対しては道なかばであるという前提をもって、市井の専門家たちの動向をざっくりと見るようにした。

グレーゾーンにとどまり、曖昧なものを曖昧なまま、わからないものはわからないまま、それでも何かを判断していく。めんどうでコストも高い方法だが、先が見通せないときには必要なことだ。

 

わたしはできるだけ放射性物質の種類や性質、「量の概念」を学び、今の基準値に対してどう考えるかスタンスを決め、日々、自治体が発表する放射線量や主な農産物の放射性物質測定結果をチェックした。スーパーではそれとにらめっこしながら買い物をした。その結果、手に取った農産物を棚に戻したことは一度もなかった。

誰も見通しが立てられないなら、いま、このとき、自分自身で判断したかった。

誰もが先の予想がつかない。こういった事態は、今後の人生で一度ならず訪れるだろうと予感があった。そのために、自分なりの判断法を身につけなければと考えた。

 

ただし、当時の状況で、危機を感じるのは当然だと思う。自分自身は東京に残り、数字を見て判断することを選んだ。生活を考えれば東京から離れられなかったのもたしかだが、それもまたひとつの選択だ。

わたしは当時、東北や関東から退避した人の判断をまちがっているとは思わない。「あの人は東京から逃げた」と責める言説にこそ、嫌悪を抱く。しかし、これは重ねて断言するが、自分が危機を感じているからといって、被災者を攻撃することは許されない。

 

「国も専門家も、誰もが予測がつかないこと」。それは10年近くの歳月を経て、新興感染症の形でやってきた。新型コロナウイルスの蔓延にさいし、わたしはふたたび、専門家の意見を幅広く集め、判断している。

わたしは新型コロナウイルスに関して、後遺症も含めて脅威を感じている。もう少し細かく言えば、収集した情報と自分の性格を加味して、「わたしにとっての脅威である」と位置付けている。

新しく開発されたワクチンの長期的な影響はわからない。ただ、治験の規模や結果などの数字を調べ、それを幅広い立場(政治的には右の人もいれば左の人もいる)の医療従事者たちがどう判断しているかを追い、その結果、「先のことはわからないが、現時点ではワクチン接種が安全であり、コロナやワクチン接種のリスク(なんのワクチンであっても、副作用の可能性はゼロではない)より『利』が上回る。そういった可能性にベットする」と決めた。「なんとなく打たない」も、「なんとなくみんなが打っているから打つ」も、自分自身の態度としては避けたいところだ。

感染症において、個人の自由と公衆衛生が対立する部分が多いので難しいが、「ワクチンは危険だ」「ワクチンは打たない」と判断するのもまた、個々人の自由だ。「なんとなく嫌だ」などの感覚も、その人独自のものなので尊重されるべきだと思う。「『なんとなく』が嫌」なのは、それはそれでわたしの感性であり生き方であり、他人と共有するものでもない。

わたしの立場からは、「個々人の意思を尊重した結果、医療体制に負担をかける」といった問題が起きるともいえるのだが、個々人の判断の自由がない状態が一番恐ろしい。マスクに関しては……率直な気持ちと、「自由は尊重されるべき」という考えの整合性がなかなかつけづらい……。

 

上記のような判断は、子がいないからこそ、夫婦ふたりの生活だからこそ、と感じる部分もある(2011年は独身だったが)。このコロナ禍においても、個々人の事情により、状況は大きく異なる。子どもや高齢者と同居しているか。その子はいくつなのか。家族は、あるいは自分自身は基礎疾患をもっているか。どのような職業に従事しているか。マスクを着用できない事情を抱えているか。

 

何を判断するにせよ、どこまで自分の頭での判断なのか、どこまでが世間にしたがっているのか。それは区分がつくようなものではない。えらそうなことをあれこれ書いたけれど、数年前のHPVワクチンと同じような逆風が、この新型コロナウイルスのワクチンに対して吹いていたら、果たして同じ判断をしたかどうかはわからない。

 

なぜこのような思考の記録を書き残すか。理由はいくつかあるが、ひとつは、身近な人が自然系のマルチにハマりそうになったとき、これらの体験を切々と語ったら聞いてもらえたことがあるからだ。「わたしはあのとき、こんなふうに考えて、こんなふうに情報収集をしたんだ。市井にはたくさん専門知識がある人たちがいて、その人たちは決して一枚板ではなく、情報発信だって自由にしている。だから、『市販のミネラルウォーターにもマイクロプラスチックが入っている』『うちの浄水器だけがそれを浄化できる』というのは、わたしには信じられないんだ」。

偏ったひとりの体験だが、発信することに何か意味があるかもしれない。

何より、自分自身の考え方やスタンスは、この10年あまり、変わり続けている。その記録として、コロナ禍2年超の今、この記事を書き残しておこうと思う。

とはいえ、ワクチン2回接種後に引っ越したため、3回目接種には申請が必要だ。申請書を提出したものの、まだ接種券は届かない。予約ができ次第、ファイザー2回に次ぐモデルナの交差接種をするつもりだ。わたしは医学の力にベットしつづけている。

 

画像は《ワクチン接種証明書が表示されたスマホ(2回接種済み)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20220129031post-38639.html

*1:そのうえで、農家の方々の支援を訴えたり、自分で支援できることがあればしていけばよい