今週のお題「デスクまわり」
デスクまわりを充実させたい。それが最近の願いだ。しかし、それをこばむのは、「デスクそのもの」なのだ。
いま使っているのは、木製の片袖机。
昭和前半のものとおぼしき古物だ。がっしりしていて重い反面、引き出しの建て付けはがたがた、ゆるゆる。
アンティークというほどのものではない。価格も4~5万円程度だったと記憶している。かといって、いまから新しく作られる可能性は限りなく低い品。
こういうものに憧れて、古道具屋を巡って買ったものだ。
昨年秋の引っ越しでは、作業環境をアップデートすることも目標のひとつだった。そのため、この机を処分することを考えていた。お高めのワークチェアを買った場合、この片袖机のスペースには入らないと思われたからだ。この手の机は引き出しがあるぶん、足を入れる空間が狭いのである。
ただ、捨てるのはどうにもこうにも抵抗がある。貴重なものではない。ただ、先ほども書いた通り、このタイプの机はこの先も作られることはない。そういうものを、望んで古道具で買ったのだ。まだ使えるうち、自分の代で終わらせてもよいものだろうか。
買うときは考えなかった、そして、他人から見たらどうでもよいであろう責任感がわき上がる。
購入した古道具屋に連絡すると、写真で査定をしてくれた。予想される最低買い取り価格と送料はトントンぐらい。買い取ってもらえないことも覚悟していたので、これは朗報だった。
しかし、引っ越しは(予想通り)混乱を極め、わたしは片袖机を次の住まいに持ち込んだ。
そして、いよいよワークチェアを購入。
「やっぱりこの机には、ワークチェアが入らないよ~」と、今度こそ机を買い換える決意がつくと思っていた。が、新しくやってきたイトーキの「アクト」は、なんとその狭いスペースに収まってしまった。ぜんぶ入るわけではないが、肘を置いて作業するには不都合ない。
どないしよ。
じゃあ、ずっとその机を使えばいいじゃんという向きもあろうが、わたしは近い将来、大きめのディスプレイを購入し、ノートパソコンと組み合わせてデュアルディスプレイにしたいのだ。そのために、ディスプレイアームをつけたい。いずれ目がかすむときに備え、ディスプレイの位置を思った通りに調節したいからだ。
しかし、当然、背面にさまざまなパーツがついている机なので、ディスプレイアームをかませることはできない。
ついでにいうと、冬に導入したかったパネルヒーターも、足置きになる位置に走る「柱」が邪魔であきらめた。
昭和の机は昭和の机なのだ。現代の作業環境には向いてはいない。
この片袖机を夫の作業用に譲り、わたしは新しい机を買う案もあるが、自分が使って不便なものを、人に使わせるのは気が引ける。この不便さを愛せるのは、この机を自ら選び、思い入れが深いからだ。
そうこうしているうち、脳内で囁くものがある。
「ちょっと前に読んだ『&Premium』で、いしいしんじさんがこういう机にノートパソコン置いて使ってたじゃない。ああいうのに憧れてるんでしょ~~」
いや、憧れている。憧れているけど、作家と商業ライターの作業まわりは一緒にはくくれない。
同業者はたいていシステマチックな作業環境を構築している。作家のなかにもそういう人は多いように思う。
が、同業の知り合いのなかにも、すてきなインテリアで仕事をしている人もいる。すっきりとした無垢材のテーブルを仕事用に転用。椅子は座り心地はよいけれど長時間の作業には向かなさそうな北欧製。照明は、ペンダントライトにもうひとつスタンドライトを置いて補完……とか。
そう考えていくと、気づく。
システマチックか、インテリアか。どちらにせよ、みな、何かを選び取っているのだ。意識するにせよ、しないにせよ。
自分の作業の快適さを考えると、事務用の机に、すこし高めのワークチェアしか考えられない。
あるいは、長く過ごす住空間が無機質なんて、ありえない。
そのどちらもがライフスタイルであり、ライフスタイルとは無数の選択肢で成り立っている。
この年齢になるまで住環境のことがよくわからず、しかしなんとなくすてきでおしゃれな暮らしに憧れていたわたしは、「ライフスタイルはなんだか自然に生えてくる」ぐらいのぼんやりした意識で生きてきた。が、そうじゃない。
たかが机、されど机。
「わたしは多少の不便があっても、この古い机が好き。大切に使いたい」
「年齢を重ね、次の20年を戦うために、ガラリと作業環境を変えました」
どちらもアリなのだ。
ライフスタイルは勝手に生えない。選び取るのである*1。
どちらを選ぶにせよ、わたしは「古道具との向き合い方」のフィックスを迫られることになる。
わたしはこの片袖机のようなアンティーク未満の古道具や木製品が好きだ。だが、一度手に入れると性格上、手放すのはかなり難しいと今回の件で身にしみた。また、重量もそれなりなので、これから年齢を重ねたときのハンドリングを考えると不安になる瞬間がある。
この片袖机を手放すなら、購入した古道具店に売却するのがベストだ。この机の価値をいちばんわかってくれるし、こういうものが好きなお客さんが集まってくる。ただ、いつまであの店があるだろう――。
こう書きつつも迷うわたしは、心を落ち着かせるために天板の手前をなでる。キーボードを打つとき擦れるのか、そこは角がなめらかになってさわり心地がよいのだ。
「『不惑』とは名ばかり。迷ってばかりですよ」
「年を重ねるにつれ、自分のスタイルがわかってきたんです。いらないものを買わなくなりました」
そんなふたつの言説が同時にインターネットを流れていく昨今。下手すりゃすてきに暮らしているひとが、同時にそれらを口にする。
どっちなの? みんな迷うの? 迷わないの?
すてきな暮らしを夢見つつ、すてきになれない人間の末路。
何も決めてこなかったわたしは、いまさらになって、決断の練習を迫られている。
写真は《不自然に取り残された机と椅子のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20200226037post-25624.html》