平凡

平凡

雨の季節に愛用品の来し方行く末を思う

ブーツにつづいてまたかよ、と思われるかもしれないが、わたしの傘は20年(弱)選手だ。

ブーツと違うのは購入時期で、ブーツは新卒で就職したとき、傘はフリーライターになったばかりのころに買った。

 

ブーツについては、以下の二記事を書いている。

20年目のブーツと未来へ歩く - 平凡

わたしの、新しい靴「2022年買ってよかった」 - 平凡

 

 

若かりしころ、粗忽なわたしは「どうせなくしちゃうしなあ」と、ビニール傘ばかりを使っていた。しかし、ビニール傘とていつもいつも忘れるものではない。運よく手元に残り続けた場合、繰り返し使ううちにビニールはくもり、骨が錆びつき、なんともみすぼらしいありさまになってくる。なまじまだ使えるだけに、捨てどきがわからない。そのうち台風の強風にやられ、傘地がはがれる、骨が折れる。そうしてようやくビニール傘は寿命を終える。そうなっても長さがあるだけに「不燃ごみ」と出すのもやっかいで、「ビニール傘なら気楽です」とも言い切れないなと、うすうす感じはじめていた。

 

さらに、一本の傘を捨てたあとで困るのは、買い時のわからなさだ。急な雨に降られたときなら「えいやっ」と買えるが、そうではない場合、どうするか。「いま、家に一本も傘がないしな~」と、晴れた日にわざわざビニール傘を購入するのもなんとなく気が進まなかった。

「わたしは自ら選んで、恒常的にビニール傘を使っています!」と割り切りができなかったのだろう。

 

折り畳み傘だけを使ってもよいのだけど、やはり風も強い日には心もとない。

 

そのころ、フリーランスとして独立したわたしのもとに舞い込んだ仕事のひとつが、ラグジュアリー系ショップの新店舗取材だった。ニューヨークでセレブが履いていると話題のパンプスショップ、エクストリームな値段のジュエリーが並ぶ宝石店、話題のアートスポット……きらきらした世界に、きらきらしていないわたしは月イチで迷い込むことになった。

わたしはファッション好きの元同僚に見立ててもらった洋服にジャケットを羽織り、ショルダーバッグにパンプスでなんとか“武装”して、きらきらに対抗した。

そこで困ったのが、傘だった。

たとえば「大人の落ち着きを表現したシャンパンゴールド」の内装の店には、モダンでミニマルなデザインの金色の傘立てがあるわけで。

そこにくたびれたビニール傘を立てると、浮く。

まあそんなこと、ひょっとしたら誰も気にしないのかもしれない。わたしがきらきらしていないことは、わたし自身を見ればよくわかる。

でも、そのころのわたしはすこしでも武装して、安心したかったのだ。

 

そんなとき、運よく銀座の百貨店の傘セールに行きあい、一本の傘を買い求めることができた。モスグリーンで、傘地のふちには甘すぎない花の刺繍がほどこされたシビラの傘。ビニール傘よりは高いが、ブランド傘にしてはそう高くはない値段だったと思う。わたしはその落ち着いた色合いをいたく気に入って、雨の日の取材には意気揚々と持っていったものだ。

 

それから20年近くがたった。在宅稼業で出番が少ないからか、傘はまだ現役だ。いつぞや住んでいた部屋で、玄関の近くに立てかけておいたら柄に壁紙の白がついてしまったなどの汚れはある。“武装”としてはいささかどうだろう? と思う向きはあるが、それは雨の日の装いにまだまだ自信を与えてくれる。

 

もちろん20年も使っていれば、何度か忘れたことはある。しかし、そのたび運よく傘は帰ってきた。

 

その傘を持って、この間、銀座・ミキモトホールで開催されていた「真珠のようなひと-女優・高峰秀子のことばと暮らし-」(現在は閉幕)に足を運んだ。

わたしは高峰秀子のエッセイの大ファンであり、そのゆかりの品をどうしても見たかったのだ。ガラス器や洋服、真珠のネックレス、夫・松山善三とそろいのトランク。どれも品よく、質がよく、センスよく、いまでもきれいに保存されていた。

パネルには写真とともに高峰秀子のことばが掲示されていて、そのうちの一枚に、「いいものだけをそばに置き、長く使う。これらのものはわたしが亡きあと、新しい主人のもとにわたるだろう。どうぞよろしく」といった内容が引用されていた。いま、引用元のエッセイ本が手元になく、うろ覚えであることはお断りしておく。

 

わたしは手元の傘を見た。この傘は、わたしにとってはそれなりに高価で長年愛用しているが、「次の主人」を探せるような名品ではない。わたしが死んだらどうなるのだろう。なんらかの形で遺品整理され、きっと捨てられるだろう。客観的価値はどう見てもなく、誰が整理をするとしても「捨てる」選択は容易なはずだ。

それはそれでよい。傘など一代限りのものだ。

しかし、ほかのものは? 思い浮かんだのは、仕事用の机だ。わたしは古道具が好きで、昭和の木製片袖机を使っており、できればダイニングのテーブルも、いつか古道具やアンティーク、あるいは新品でも木製のものに変えたい憧れがある。

 

昭和の木製片袖机は、わたしのように愛好する人はいるにはいるが、それほど高価ではなく、貴重でもない。しかし、もう二度と新しくは作られないものだ。

購入した古物商では、不要になったら引き取ると言っていたが、持ち主であるわたしの死後の処遇はわからない。それほど丁寧に使っているわけでもないので、使用感は年々募るばかり。それは味わいというよりは劣化といったほうがふさわしい。

 

わたしの前に誰かが使い、わたしの手にわたされた、もう二度とこの世では作られないもの。それほど少量生産品でもないけれど、減りゆく一方のもの。それをわたしの代で終わらせるのか。ものの命を確実につなぎたいなら、生前に古物商に売り戻し、現代の大量生産品を使うのが筋なのかもしれない。

 

わたしは高峰秀子のように審美眼もなければ有名でもなく、所有する「よきもの」といっても値段が違う。次の主人にどうぞよろしく、なんてとても言えない。

今後、大きな家具を買うときに、古道具屋アンティークを選ぶなら、それ相応の覚悟がいる。ダイニングのテーブルは、現代の大量生産品をみつくろうのが適当なのでは。

 

気に入ったものを長く使うのは、しあわせなことだ。傘もブーツも昭和の片袖机も、そのことを教えてくれた。

しかし、老いゆくわたしの手におえるのは、ひょっとしたらこの傘のような、ちいさな品物だけなのかもしれない。

 

傘の柄をぎゅっと握りしめる。どうしたらよいのかわからないことだらけだ。でも、できるだけ長く、この傘を使いたいと思う。

 

ミキモトホールを出ると、雨は上がっていた。そうして、わたしは傘を忘れないように注意しながら、電車を乗り継いで家まで帰り、片袖机に向かって、この文章を書いている。

 

机が出てくる記事はこちら

また新しい夢を見る - 平凡

 

今週のお題「レイングッズ」

 

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画像は写真ACよりお借りしました。

横断歩道を渡る歩行者と街並みぼかし風景 - No: 26429112|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK