平凡

平凡

継続した学びが、知への信頼を育てるっぽい

夫はよく言う。

「昔より、上手くなってる。わかるようになっている」

彼のライフワークである英語を学んでいるときも、何か小難しい文章を読んでいるときも。

果ては、「ファミコンのゲームも、今やったら、子どものころより上手くできると思うんだ」。

実際、レトロゲームカフェで「スパルタンX」をやったとき、それを実感したのだと言っていた。

 

いまあげたのは英語、読書、ゲームの具体例だけれど、彼の中では対象がなんであれ、絶対的な「今がいちばんできる」信頼があるようだ。

だから、「昔、苦手だった数学もさ、いまのほうが理解できそう」なんてことも言う。

 

それを聞くたび、わたしはぼんやりと不思議だった。

昔、苦手だったことが、いまのほうができることってある?

人間ってそんなに成長するかな?

これは同時に、わたしは「これ、昔よりできている!」と実感したことがあまりない、ということでもある。

仕事なら多少成長を感じたことはあるけれど、プライベートでは皆無。

そう思っていた。

 

「そういえば、昔、できなかったことができている」と気がついたのは、新聞の政治面を読んでいるときだった。

子どものころはなめるように新聞を読むのが日課だったけれど、「なめる」のはせいぜい一面のコラム、事件の詳報が多くを占める三面、文化面ぐらい。がんばって社説。一面も、政治や経済色が強いニュースは読みこなせなかった。

難しかったのだ。

いまでは、一面も政治経済面も国際面も、難なく読むことができる。そちらに時間を割くので、三面はかえって読まなくなった。

大人になってから、ずっと新聞を読んでいたわけではない。ブランクがあるので、いつそうなったのかわからない。なぜ政治経済面が読めるようになったのかも不明。

わたしはいまも、政治や経済には疎い。疎いながらも、子どものときよりも政治家の名前などの固有名詞が蓄積され、理解できるようになったのか。それとも、知性が発達したのか。

不明づくしながらも、新聞を丸々読めるようになっていることだけはたしかだった。

「いまのほうができるようになっていること、あるのかも」。

それは、断続的とはいえ、「子どものときからやっていたこと」があるからこそ、つまり継続があるからこその気づきだった。

 

同時に思い当たった。夫が成長を信じているのは、「継続」があるからではないか。

以前にも書いたことがあるが、夫は英語を継続して学んでいる。

夫にとっての「英語」は、「会話」を意味しない。「国語」が「日本語のスピーキング」を意味しないのと同様だ。大学受験の英語知識をベースに単語や文法を勉強し続けている。おそらく、わたしと出会う前から。高校、大学、社会人を通じてずっと。

そこにとくに目的はない。小説が好きな人が小説を読むように、テニスが好きな人がテニスをするように、ただただそのとき話題の英語学習法をためしたり、英単語アプリをためしたりしている。TOEICや英検など目標がある時期もあったが、大半はただライフワークとして学んでいる。いまはネットで気ままに時事記事を読みあさったり、TEDを見たりするのが楽しいようだ。

 

ある特定の「学び」を長年続けているからこそ、夫は自分の成長がわかるのではないか。昔、読みこなせなかった長文が読める。ニュース記事が読める。それがわかるから、「いまが一番できる」と自分の成長を強固に信じられるのではないか。

つまり、継続が知と成長への信頼を育てるのだ。

その信頼がファミコンのゲームにまで及んでいるのは、ちょっとよくわからないけれど。

 

そんなことを考えていたある日。

わたしはMisskeyに何か放流しようと、いろいろなところで書き散らかした過去記事を整理していた。読み返していると、思ったよりも旅をモチーフにしたものが多い。

古くはmixiにアップした「バカンス」というエッセイがあった。結婚前に夫と行った、沖縄・石垣島でのできごとを書いたものだ。ビーチもきれいだったけれど、いちばん印象に残っているのは、台風到来で閉じ込められ、ホテルで見て聞いた雷であり、嵐の様子だった、という内容だ。

上記の内容がほぼそのまま、シンプルに書かれていた。複雑さばかりを愛するわけではないけれど、今ならもうすこし違う書き方をするだろう。

そう思いながら、やはり同じ旅ネタである、4年前に書いたこのブログ記事を開いた。

海外旅行へ行く理由 - 平凡

この記事では、ニューカレドニア旅行と台湾旅行での体験を、「海外旅行へ行く理由」に落とし込んでいる。

「海外旅行へこんな理由で行っています」というテーマがあること(お題ではあるが)、ふたつの体験を組み合わせることで、体験をストレートに書いた「バカンス」より、印象はだいぶビビッドだ。

 

ところで、最近読んだ『一生ものの「発信力」をつける 14歳からの文章術 』では、よい文章の基本として、主張を一貫させること、論拠をできれば2つあげることが提示されていた。論拠のひとつは書籍や識者のことば、データを引用すると、説得力ある文章が書けると。

この本は基本的には自己PRから論文まで、「論理的な文章を書く」を前提にしているのだけれど、エッセイに転用できる内容だなと感じた。

エッセイに論拠は必要ではないものの、読んでいていいなと思うエッセイは、当初の話題に意外なイメージを組み合わせたり、作者が別の場所で見聞きしたものを引っ張ってきていることが多い。これは、上記書籍の「2つ目の論拠」に近いのではないだろうか。

「海外旅行へ行く理由」では、それほど上手くできているわけではないし、意外性も少ないけれど、少なくともふたつの体験を組み合わせ、ひとつのテーマ(主張)を設けている。

 

つまり、昔より、成長しているのではないか? そう思ったとき、驚いた。

正直、こうしてプライベートで書いている文章で、「成長」なんて概念自体、考えたことがなかったからだ。

これも、書きつづけていたからわかったことだ。

同時に、「わたしはまだ、成長していけるのではないか」「よりよいものを書けるようになるのではないか」と希望がわいた。

 

「年を取るって失うものも多いけどさ、まだまだ成長していけるんだよ、俺たち」

夫は笑顔で言う。

そのすがすがしさの意味が、わかった気がする。

 

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画像は写真ACよりお借りしました。

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