受験シーズンである。
夫は以前にも書いたとおり、大学受験の延長線上で、ずーっと英語を勉強しつづけている奇特な人間だ。
なので、「平凡ちゃんは高校生のとき、英文法はどんな参考書を使っていたの?」と何気なく尋ねることがある。
そんなもの、なにひとつ覚えていない。
「ふつう、受験のことなんて覚えてないよ。もう二十五年ぐらい前なんだよ」と答えていたが、振り返ればひとつだけあった。
小論文だ。
大学受験勉強中、わたしは小論文を書きまくっていた。
第一志望の大学は、受験科目が変則的で、英語、国語、小論文だったからだ。
細かい暗記ができず、世界史に悪戦苦闘していたわたしにとって、これはありがたいことだった。
さらに調べてみると、当時、いくつかの大学では、社会科と小論文を置き換えて受験することができるとわかった。
そこで、がぜん小論文に力をいれた。
というのはあとづけで、本音は小論文を書くのがおもしろかったからだ。
と話すと、「小論文が好きなんて、立派なご意見をお持ちだったんですね」的なことを言われるが、これは大いなる誤解のひとつ。
大学受験における小論文に、立派な意見なんていらない。むしろ、大言壮語すると「現実的でない」「高校生らしくない」と、点数が低くなる。
少なくともわたしの時代には、「意見」のクオリティや新規性は問われなかった。
ただし、今の受験ではどうなっているかわからない。ディベートなど、自発的に意見を発信する教育に力を入れているとしたら、もっと高度なものが求められている可能性はある。
では、何が大切かというと「型」だ。というか、型以外に必要なものなんてない。
どこで読んだのか忘れてしまったが、「大学受験の小論文は字数が少ないので、『起承転結』ではなく、『起・承・結』で書け」とあった。
なるほどーと書いてみると、これが気持ちよくハマる。
たとえば。
冒頭で、「何々は何々であるべきだ」「なぜならナントカだからだ」などと軽く結論を述べる(起)。
次に、なぜそう思ったか、卑近な例をあげる(承)。
最後は、「だから何々であるべきだ」と、「起」と同じ結論でしめる(結)。
「起」「結」が同じことを恐れてはいけない。
これは、歌にたとえるとわかりやすい。
たとえば物語性のある歌において、サビの歌詞がリフレインしても、一番と三番では違って感じるはずだ。
それは、Aメロ、Bメロなどの歌詞で物語が展開するから。
文章もそれと同じで、具体例を挟むと、結論が違って見えてくる。
「起」を、問題提起や疑問ではじめてもいい。その場合も「承」は具体例、「結」は結論となる。
手順としては、書けそうな結論をまず決める。
次に、書けそうな具体例を思い浮かべ、書けそうなことを時間内に書き上げる。
「書けそうな結論」と、サイズ感から先に決めているわけで、おのずと立派な論は出てこなくなる。
スピーチコンクールや弁論大会と違い、「立派さ」「キラリと光る独自性」は評価されないので、ちょうどいい。
なぜそのような加点減点傾向がわかったかというと、国語教育の専門誌の小論文添削コーナーに投稿していたからだった。
そこは丁寧かつぶっちゃけた添削を返してくれたので、「高校生らしからぬ壮大なことを書くとウケが悪い」ことなどがはっきりとわかった。
で、肝心の実戦たる大学受験だが……。
第一志望の大学は、小論文の出題設定が変わっていることで知られていた。わたしの年は、ある書簡が示され、「これに対する返事を書け」とかそんな問題だった……ような記憶がある。
何を書いたか、「起・承・結」を意識したのかも覚えていない。
対策とは……?
そんでもって、最近気がついたことがある。
そもそも小論文を書き始める前に、わたしに文章の「型」を教えてくれたのは、新聞の一面コラムではないか。
新聞の一面コラムとは、たとえば朝日新聞なら「天声人語」、産経新聞なら「産経抄」、東京新聞なら「筆洗」。
字数は時代によっても変わるけれど、どれも600字から650字と猛烈に短い。その字数のなかで「起承転結」がつけられているため、強引なことも多い。
だが、それだけに「型」がはっきり見えるし、「型」があれば強引であっても文章として成立することがよくわかる。
「型」があれば、どれくらい強引な展開でも読ませられるかの線引きも自然に学べる……かもしれない。
一定の年齢層の読み書き大好きっ子はたいていそうだと思うけれど、わたしは読書はもちろん、新聞を読むのも好きだった。
おそらく、一面コラムを読みながら感じていた「型」を言語化してくれたのが、小論文だったのではないか。
そんなこんなの受験生時代は遠くなり、わたしはいま、商業ライターをやっている。
近ごろ自覚したのだけど、わたしは仕事の原稿を書くとき、小論文の鉄則「起・承・結」をいまだにベースにしている。
お店やらなんやらの紹介に「起」も「承」もないような気がするけれど、「起」はどんな店かをビビッドに端的に、「承」では具体的サービスをさらに詳しく、「結」ではその結果こんな時間がすごせます、と割り振り、応用している。
三つ子の魂百まで。いや、小論文は三歳のときに学んだわけではないけれど……。
なんにせよ、こんなに高校時代に学んだことを使うなら、あのとき、もっともっと意識して文章の書き方を学んでおけばよかった。
いまからでも遅くないのだけど、やはり若いころに学んだことは、定着の仕方が違うのだ。
たとえば本多勝一の『日本語の作文技術』とか、あのころに頭に叩き込んでおけば……。
まあ、ともかく。
受験で学んだことや学生時代に夢中になったことは、長じて役に立つこともある。
役に立たなかったとしても、「役に立たないし、興味がないことにもまんべんなく、強制的に触れられる」のは、義務教育や高校での学習のよさだと思う。
三角関数はわからなくても、少なくとも世の中に三角関数が「ある」ことを知っている。三角関数は使いこなせなくても、測量に使われると聞いて、「ああ~、あれね」とわかる。それってすごく大事なことだと思うのだ。
受験は大変だけれど、がんばってください、と若い人にエールを送ってこの記事を終える。
なお、このブログ記事に「起承転結」はあるか……?
読者の方々があまり意識しないでいてくれることを願う。
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画像は写真ACより