先週末、ライターの間で大きな話題を呼んでいたのがこの記事だ。
簡単にまとめると、
「大人のなりたい職業」を成人男女1231人にアンケートしたところ、
「ライター」が1位になったというもの。
記事にある、
《ライターといったらフリーランスであることがほとんどで、収入も不安定でコツコツと物を書き、お世辞にも華やかな職業とは言い難いでしょう。それでも数ある職業の中でライターが1位となったのは、意外な結果と言えるのではないでしょうか。》
という身も蓋もないライター像はまさにそのとおりだと思う。
てか、この記事もライターさんが書いているので、当然っちゃ当然だ。
では、何が話題になっているか。
わたしの観測範囲内では、以下のアンケート回答に対する意見や感想が多い。
《「社会人になってから、会社のしきたりや人間関係に悩まされることが多く、組織に所属して働くことの大変さを痛感しています。ライターの方は、在宅で自分のペースで仕事をされている方が多いイメージで羨ましく思いますし、私のように人と接することに少し苦手意識のある人には働きやすそうに感じるのでなりたいです」(女性 / 20代 / 岩手県)》
このアンケートに限らず、「コミュニケーションが苦手だからライターになりたい」と希望をつぶやく者があると、太古の昔から繰り返されている反論。
それが、「ライターってコミュニケーション能力(コミュ力)必要だよね」だ。
わたしはいちおう現役ライターだけれど、この反論が出るたび、「ちょっと待って!」と言いたくなる。
とはいえ。
「ライターにはコミュ力必要」。
それは一面、真実だと思うのもたしかだ。
インタビューにせよ、店や企業広報への取材にせよ、ライターは人の話を聞いてまとめるのが仕事だ。
発注を受けたら、編集者はじめクライアントの希望をよく汲み取り、それを文章に反映させる必要がある。
上記2点を考えても、コミュ力は「いる」。
「なーんだ、コミュ力に自信がない人間にできる仕事なんてないんだ。だまされた」と思ったコミュ力低人間の皆さんは、ちょっと待ってほしい。
なぜなら、わたし自身は上で紹介したアンケート回答を書いた、岩手の20代女性に近い。
というか、そのままだ。
友人は少なく、就職活動は上手くいかず、会社勤めにもなじめなかった。
そんなわたしでも、まがりなりにも15年、フリーのライターとして糊口をしのいでいる。
なぜか。
それは、主に「会社などの組織で必要とされるコミュ力」と
「対個人で必要とされるコミュ力」は別物であり、
フリーのライターというのは後者をメインに生きていけるからだと思う。
わたしは会社勤めは2度、社保ありのフリーターとして1度就職した。
そのときに漠然と感じたのは、組織にはいろんな不文律があるということだ。
服装、しゃべり方、しゃべる内容、気づかいなどなど。
20代のころ、わたしはその多くが理解できなかった。
というか、理解できていないことも、理解できなかった。
そういう人間は、当然、就職活動でも、「組織が何を求めているか」がわからない。
まず、書類選考が通らない。
以前、とある人が言った。
「就職活動ってルールがあったじゃないですか。
ルールがわかれば楽勝のゲームじゃないですか」
わたしはびっくりした。
あの就職活動にルールがあったなんて!
働いたことのない学生に「志望動機」を語らせたり、変化球のオモシロ質問でなんだかんだと機転を試してくる就活は、わたしにとっては終始曖昧模糊としていた。
加えて言えば、就職活動にかぎらず、文章化されていないルールがわかったためしがない。*1
とくに、組織が絡むとその靄が濃くなる。
そんなわたしでも、2回会社勤めをした。
ということは、いちおう、応募して採用にいたったわけだが、いずれも、エントリーシートから一次面接、二次面接、と過程を踏んだわけではない。
新卒で就職した会社でさえ、自分で見つけた細々した求人に自前の履歴書を送り、2、3時間がっつり面談して「で、いつから出社できます? まだ学生さんだっけ?」と決まったものだった。
機械的な面接ではなく、個人vs個人のコミュニケーションに持ち込めたので、なんとか決まったのだと思う。
そうして就職した会社はかなり体制が古く、「セクハラは流すもの」「飲み会絶対」などの空気が蔓延しており、うまくはなじめなかった。
業績不振を理由に追い出されたが、やっぱりその辺のなじめなさにも原因があったのではと、わたしは思っている。
2回目の就職は、ライター業を主とする小さな編集プロダクションだった。
そこの面接でわたしは、
「あの……でも、仕事として書いたことはなくて」
「好きな文章を好きなようにしか、書いたことがなくて」
と自信がない発言を繰り返し、面接した上司に
「えっ、で、なんなの。書くのはいちおう好きなんだよね? だからウチ受けたんだよね?」
と確認される始末だった。
ルールどころではない。
よく採用してもらえたものだ。
***
えーと、これは完全に話がずれますが……。
わたしが「書くの好きか」と聞かれたのは上司が業を煮やしたからであって、 ふつうはあんまり聞かれないし、 書くことが好きでもあんまりアピールするもんではないかなと思います。
ライターって、実は書く以外の業務も多いですし。
何より、書くのは業務の一部。
転職活動の面談で「経理が好きです!」とは言わないようなもので……。
***
話をもとに戻す。
そういった経験からわたしが学んだのは、不文律は、多くの場合、「組織」「職場」で発生するということだ。
コミュ力に自信がない人に、一度想像してみてほしいことがある。
「職場」で人間関係が発生せず、黙々と仕事ができるとしたら、どうだろうか。
会社組織として人が集まっているのだから、当然、協力はしあう。
しかし、助力を願うときは挨拶や社交辞令一切抜きに用件だけを書き、メッセンジャーでやり取りをする、
もしくは掲示板に困ったことを書くと、手が空いた人が手伝う、といった形。
気遣いは最低限。
案外、「それだけなら上手くできる」と思う人は多いのではないだろうか。
もちろん、そういった世界が理想といっているわけではない。
人間は組織をつくり、コミュニケーションを緊密に取り合うことで大きなことを成しえることができるし、成しえてきた。
これはそこからこぼれ落ちてしまう人のための、思考実験だ。
フリーになって仕事をするということは、「それだけ」、つまり、「業務だけ」に近いとわたしは思う。
空気や不文律が多く含まれる「職場」「組織」ではなく、「個人vs個人」で、業務の話だけをする。
業務を正しく遂行しさえすれば、おおむね評価され、次の仕事が来る。
その業務のなかに、ある種のコミュニケーションが含まれる。
が、それはあくまで業務だ。
会社での世間話や根回しに比べたら、ずっと道筋や目的がはっきりしている。
そして、エントリーシートに「志望動機」を書かなくても、仕事を求めるならポートフォリオがあればよい。
「これをやりました」「これができます」「こんなことに興味があります」それだけで事足りる。
シンプルでわかりやすい。
仕事が上手く回りはじめたら、ポートフォリオさえいらない。
「この仕事をやった」という事実が、次の仕事を運んでくれる。
当然、さまざまなフリーランスがいるので、業務の能力に加え、卓越したコミュニケーション能力でバリバリ仕事をしている人もいる。
けっこういる……。
何度も断るが、これは「こぼれ落ちたわたし」が、どこかにいる「こぼれ落ちそうな人」のために書いている文章なのだ。
こうして考えていくと……。
世間では「コミュニケーション能力」はざっくりひとつにくくられているが、組織内で必要なものと、個人間で必要とされるものは、別物なのだと思う。
もしくはふたつは一部重なるが、重ならない領域も大きい。
また、「コミュニケーション能力」はある/ないではなく、「グラデーション」があり、その濃淡は条件により変わってくるのではないか。
職場での世間話が苦手な人も、「趣味」というフックさえあれば、ガンガンコミュニケーションを取ってツイッターでつながり、同人活動をし、アフターでしゃべりまくる、なんて例はたくさんある。
「趣味」が電極となって、その場に必要なコミュニケーション能力を呼び覚まし、人と人とをつないでいる。
仕事の領域も、同じなんじゃないかと思う。
たとえば、わたしだったら、「ライティング」の分野でなら、それをフックに業務に必要なぐらいのコミュニケーションはできる。
人間は、得意な分野であれば、
「コミュニケーション能力を発露しやすい」
「もしくはコミュニケーション能力の低さをカバーしやすい」
「カバーできなくても改善案を模索しやすい」
のではないか。
この社会には、「ベストじゃなければ全部ダメ」の呪いが蔓延していると、わたしは思う。
「ライターだってコミュ力がいるよね」が、あっという間に「コミュ力ないヤツは何やってもだめ。どこにも居場所がない」に変換される。
これは人から他人へと発せられるメッセージに含まれることもあれば、自分のなかで変換して、落ち込んでしまう人も多いんじゃないかと思う。
てか、わたしはそうだ。けっこう落ち込む。
そりゃ、ライターだってコミュ力が高いにこしたことはない。
世間話をできるひとは、ライターに限らず強い。
じゃあ、コミュ力ないやつぁライターのなれないのか。
そんなことはない。
「最強」「強強」「誰もが認める理想の」ライターにはなれなくても、なんとか生きていくことはできる。
同様の呪いに、「会社員にもなれないヤツが、フリーランスになって上手くいくはずがない」もある。
そりゃ、会社員をやれる能力があって、それでもあえてフリーランスになる人は強い。それに越したことはない。
ただ、じゃあ、会社に馴染めない人はどこにも居場所がないのか?
稼ぐ権利がないのか?
そんなことはないと、わたしは信じている――というと生ぬるい。
「会社員になれないヤツは、何をやってもダメ」という言説に関しては、耳を貸さないようにしている。
これは生き死にに関わる問題だ。
そんな人間でも、たいていは何かで稼いで生きていきたいと思っているのだから。
そしていま、わたしは
「人間は稼ぐものだ」
「フリーランスが最後の居場所だ」
ともとれる物言いをしている。
これも一種の呪いだ。
フリーランスで上手くいかなくても、稼げなくても、人にはどこかに居場所がある。権利がある。幸福を、よりよい居場所を追求していける。
世間はそう言っちゃくれないので、自分で言い聞かせるしかないのがつらいところだ。
世間では、「中長期にわたり、賢く安定した人生を送る計画性」が賞賛される。
賞賛される、ならまだいい方で、「標準装備」とみなされることがある。
まるで「明日も明後日も、無事に生き延びれるのが当たり前」と言わんばかりだ。
しかし、ある種の人間にとって、明日を生き延びられるのは当然のことではなく、安定も中長期の計画も、まず、明日を生き延びねばありえない。
わたしはこれからフリーランスとして老いていく。
この先、50代、60代と年を重ねて食い詰めたら、「会社員でいればよかった」と思うだろうか。
答えはノーだ。
会社員で居続けることは、できなかった。
もしその方向で努力していたら、早晩精神を病んでいただろう。
いまが一番、「長く生き延びているシナリオ」なのだ。
しかも、ありがたいことに、そこそこ健康に。
あのとき「わたしは何をやってもダメなんだ」と絶望して道を模索しなかったら、あのとき死んでいたら、そもそもこの年齢まで生きてはいない。
考えるべきことは、「このシナリオでできるだけ長く生きること」。
だから。
「ライターにもコミュ力いるよね」
「てか、ほとんどの仕事にコミュ力いるよね」
なんてやり取りを見かけるたびに、その言外に漂うものに落ち込むとき。
わたしは心の奥でこう呼びかける。
世界のどこかにいる仲間たちよ。
世間が求めるものを満たしていなくてもOK。
低くでOK。
細く長くでOK。
手持ちの札で勝負できる方法を探して、
どうか生き延びてくれ。
わたしもとりあえず、明日を生き延びるから。
*1:厳密に言えば、乗りこなせたルールがわたしにもひとつだけある。それは「小論文の書き方」だ。