新型コロナウイルスに関しては、順調に回復しつつあります。
メッセージくださった皆様、スターくださった皆様、ありがとうございました。
療養期間がもうすこしで明けますので、そうしたらあらためて療養のことをまとめたいと思います。
本日は、下書きにあった記事をアップいたします。
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ライターになったのは、18年ぐらい前でしょうか。
ちいさな編集プロダクション*1に入りました。
「女性誌をはじめ、雑誌中心のライティング業務をしている」とあって、おもしろそうだったからです。
新人にまかされる定番仕事は、いわゆる「パブリシティ」のページです。
雑誌のおしりのほうに、新商品やイベント情報が細々載っているあのページです。
企業から送られてくるリリースをもとに、120字ぐらいにまとめるのです。
わたしが担当したページは、たしかそれが9マスありました。
最初は丸々一日かかりました。
朝からとりかかり、夕方ぐらいに「もう終わってるよね。いま、何をやっているの」と上司が見に来ました。
まだ終わっていないのを見て、ドン引きしていたのを覚えています。
なんであんなに時間がかかったのかわかりません。
いまならたぶん、2、3時間もすれば終わります。
そして、いま、新人が120字×9マスのページに1日かけているのを見たら、やっぱりドン引きすると思います(笑)
当時、すでにデジタルカメラの時代は到来していましたが、アナログカメラでの撮影もありました。
先輩のお使いをして、「ポラもらってきてね」と言われ、持ち帰るのを忘れたらめちゃくちゃ怒られました。
当時はPC上でその場で写真の内容を確認する、なんてできません。
アナログカメラに機器を接続し、ポラロイド(ポラ)を出力して、仕上がりを確認していたのです。
商品画像を借りるとき、「紙焼き」(印画紙にプリントされた状態の写真)や「ポジフィルム」が送られてくることもありました。
あるていど仕事ができるようになると、記事を自分で担当するようになりました。
取材に撮影にアポ取りに走り回って、素材を揃えて夜中に出版社へ行き、編集さんから「これじゃぜんぜんダメなんだよ!」とか言われながら、半泣きでレイアウトを描きました*2。
新人のうちはいろいろヘマをしました。
「これを説明するには、こんな写真がいるよね」という当然の写真を撮り忘れたり、写真のアングルがわかりづらかったり……。
ドヤすだけあって、編集さんがレイアウトを引き直し、(不備があるにしても)今ある写真を配置し、キャッチをつけていくと、みるみる目を引くおもしろそうな記事構成ができあがっていきました。
それが刺激的でした。
わたしは原稿を書くのがとにかく遅く、やはり編集さんにドヤされながら、夜中までキーボードを打ちました。
「これでは読者の必要とする情報が入っていない」と言われて書き直し、ときには取材先を増やすこともありました。
でも、そうやって仕上げた原稿は、元のものより確実によくなりました。
あのころほど赤字が入るわけではありませんが、わたしはいまでも編集さんから修正をもらうのが好きです。
好き、というのはおかしな感じがしますが、原稿をちゃんと読んでもらえるのが良いのです。
編集さんは第一の読者なので、指摘はたいてい的を射ています。
あーだこーだ言いながら記事をよりよくする。
その過程が好きなのです。
編プロで付き合いのあった雑誌には、昔気質な編集さんが多く、「ライターは編集者が育てる」という意識がありました。
そういった思想はパワハラと隣合わせなあやうさがありますし、いまのひとから見たらずいぶん乱暴に見えるかもしれません。
同世代のなかには、同じ編集さんと仕事をしても、「育てるとか何様じゃタコ」と言っていたひともいました。
でも、わたしは彼らと仕事をするのが好きでした。
おもしろい記事を作っている実感が持てたからです。
ある年の忘年会で、同僚に背中を押されて「このジャンルに興味があるんです」と打ち明けたら、「そういう記事を書ける人を探していた」と言われ、はじめて自分指名の仕事をいただきました。
すごくうれしかった。
指名で書けたことも、そのジャンルで仕事ができたことも。
そのジャンルの仕事は、わたしの独立を良くも悪くも後押ししました。
在籍している会社では、そのジャンルについて理解が得られませんでした。
「ほんとうにその仕事をしていて楽しいの?」と真顔で聞かれたこともありました。
ライターというのは、指名で仕事を取ってナンボだと思います。
それが、編プロの社員として会社に貢献することにもつながるでしょう。
でも、それに対してよい顔をしてもらえないなら……。
実際には、実家で家族が倒れるなど、いろいろな理由やきかっけが絡んで独立に至りました。
あれから20年近くが立ちました。
雑誌は広告が減ってどんどん薄くなりました。
原稿料は据え置きどころか安くなりました。
経費の縛りも厳しくなりました*3。
編集さんのなかには、定年した人もいます。
アナログ撮影をするカメラマンさんは特殊な人だけになりました。
「ポラを切る」の意味が通じなくなりました。
たぶん「紙焼き」も同じくでしょう。
たいていの媒体はWebにもチャネルを持ち、そちらを意識した記事を書くことも増えました。
なんてことを思い出したのは、ルポライターの高橋ゆきさんが、「ライターの単価」についての記事をアップされていたからでした。
焦点は単価についての話ですが、記事中の「テストライティング」の話を読んだとき、わたしの世代にはずいぶん馴染みがない仕組みだなとあらためて思いました。
ギャラを出して、ライターに「試しに書かせてみる」。
そこで受注側がふるいにかけられる。
発注側がその選考に手間やお金をかける。
合理的ではあるのでしょうが、どちらもピンときません。
そこでつるつると思い出したのが、いま書いたような「編集に育てられたライター」世代の尻尾としての体験です。
ライターになったとき、上司は「出版業界も景気が悪くなった」と嘆きつつ、昔話をしてくれました。
バブルがはじけた後であっても、まだまだ景気がよかった時代の昔話は、別世界でした。
おそらく、20~30代前半の方には、わたしの話は同じく別世界に映るでしょう。
たとえ野蛮な感性に満ちた太古の話ととらえられたとしても、やがて消えていくこの記憶をだれかに伝えたくて、記事を書きました。
わたしも業界の昔話をする年齢になったということです。
そこまで生き残れたことを、喜ぶべきなのかもしれません。
黄昏と忘却から逃れ、いますこし、あとすこし、いや30年ぐらい……現役で仕事ができますようにと祈りつつ、このエントリーをネットの片隅に放出しておきます。