どんどん遠くまで来て、宇宙船はぼろぼろ。
仲間はほとんどいなくなってしまった。
あるものを使い、いまいるひとたちでなんとか航行をつづけている。
燃料はいつまでもつの?
機体はどうかな?
いずれ不時着するとしたら、どうやればいいんだろう。
宇宙は寒く、光は少なく、かぎりなくさみしい。
仕事をしていると、ときどきそんな気持ちになる。
わたしがやっているのは雑誌のライターで。
すなわち、仕事はこんな感じだ。
1時間の取材をして、カメラマンがキメキメの写真を撮影する。
それをデザイナーに美しくレイアウトしてもらい、わたしが書くのは400文字。
取捨選択しつつ、いかに情報を詰め込むか。
800字を600字に、そして400字に。
削るたびに内容が研ぎ澄まされていくような気がする。
400文字なんて、少なすぎ!
いい話、いっぱい聞けたんだよ。
そう愚痴りながらも、削ることのない原稿なんてホンモノじゃない、みたいな感覚がある。
WEB時代になっても、ライティングも編集もなくなりはしない。
ご存じのとおり、WEBにだってたくさんの記事はあがっている。
1記事2000~3000字が多いから、紙雑誌よりもだんぜんテキスト主体だ。
わたしもふくめ、周りのライターは自然とそういった変化に乗っかり、スライドしている。
時代が変われば、新たな仕事が増えるものだ。
たとえばWEB時代になって、動画コンテンツが増えた。
その台本を書いたり、司会をしたり。
それをライターが手がけることも多い。
「書く」ことにフォーカスすれば、こんなに恵まれた時代はない。
頭ではそう思う。
字数制限がないなんて夢みたいじゃない?
削ったっていいんだし。
仕事以外にも、こうしてブログでも書けるし、読んでもらえる
それでも。
アニメや映画、ドラマを見ていて――。
「いったいつまで、『ソファやベッドに寝そべって雑誌を読む』描写が見られるのだろう」と思うことがある。
いまも激減しているはずだ。
電子化された雑誌を、タブレットなどで読む人も増えているだろう。
フィクションに雑誌を読むシーンがなくなるなんて、たいしたことじゃない。
喫煙シーンが消えた。
それと同じだよ。
そう、では、あるの、だけど。
あまり指摘されているのを見たことはないけれど、紙の雑誌記事とWEB記事は、本質的に異なる点がある。
雑誌の特徴は、「雑多な情報」だ。
一冊の中に多様な情報が入っているのはもちろん、ページを構成する要素も雑多だ。
見開きの上3分の2に対談を載せ、下3分の1には別の専門家のコラムを入れる。
さらに左3分の1には、それらのコンテンツを踏まえた「おすすめの商品」の画像が並ぶ。
一時(いちどき)に、それが目に入る。
WEB記事だと縦スクロールが基本なので、「一気に雑多な情報が目に入る」構成にはできない。
したがって「雑多な情報が組み合わさった特集記事」は組みにくい。
対談なら対談、専門家のコメント記事なら単独コラムと独立した記事に。
表紙ページを作り、各ページにリンクを貼ることはできるが、それはよほどの大特集だろう。
また、モノの情報も画像もメーカー公式で見られるので、誰か語る「人」を立てた単発記事がより多いようにも感じる。
ようするに、雑多な情報が載っている物理的な紙の束を読むでもなくぺらぺらとめくる、といったシーンが消えつつあるということだ。
シーンの変化に、媒体の変化を感じてなんとも言えないさみしさを感じてしまう。
雑多な情報が流れていくTwitterやInstagramをぼんやり眺めるのも同じ……と言われてしまえばそれまでだけれど。
変わっていくのだ。何もかもが。
わかっているけれど。
自分を形作ってきた世界の一端が燃え尽きようとしている。
そう感じるのは限りなくさみしい。
若いときなら、なんと感傷的な中高年だと笑い飛ばしただろう。
他人が「感傷的だな」と言っても「そうですね」とうなずくしかない。
レイアウトの文字数を数えて、原稿を削って、削って、削って。
ほんとうに必要なものだけを、できるだけいい形で残す。
不自由でありながら、最高に充足感のある瞬間を、いつまで感じられるのか。
わたしが生きているうちは、紙の雑誌という文化は残りつづけるだろうか。
故郷の惑星は、もう見えない。
いつの間に、こんなに遠くまで来てしまったのか。
そうして気がつくのだ。
わたしの宇宙は寒い。
指がかじかむのは、冬のせいだけではない。
息を吹きかけ、またキーボードを叩いている。
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画像はぱくたそからお借りしました。《ウユニ塩湖の星空の写真素材 https://www.pakutaso.com/20160230047post-6972.html》