平凡

平凡

「書く」ことについて、つらつらと

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仕事で書くことにも満足しているけれど、なぜ、ブログその他を書くのか――。理由はいろいろあるし、ときどきそれについてここで書いてもいます。

いまはとにかく「一日ひとつぐらいは“自分の文章”を書いて、それを読んで寝たいなあ」という気持ちがあります。

ライターとしての、そしてずいぶんイタい話なんですが、編プロ辞めて独立するまでの無職期間、書店へ行くと、「ここにわたしが書いた文章が載っている雑誌が一冊もないの? マジで? こんなにあるのに?」と思っていたんですね。それに近いのかもしれません。Webに一日にひとつぐらい、自分が書いた文章を放流したい。たとえそれが直帰率100%だったとしても。

 

人の文章だと文字数は気にならないけれど、自分が書くなら理想は1600字ぐらい。テキストサイト初期って、「文章はなるべく短くしよう」ってTipsがあったように記憶しています。最近、この記憶は不正確なんじゃないかと疑っていますが……。それと、仕事の原稿にはいつもバッシバシに文字数制限があり、削って削って削って書いているせいか、「短いほうがいいだろう」って気持ちがある。でも、最近書いたライターTipsとかは4000字超。人は矛盾の生き物です。ほんとはもっと小分けにしたほうがいいんでしょうね。

 

テキストを予約投稿するときは、たいてい朝指定です。わたしはネガティブな人間で寝起きが悪いので、いつも朝は起きたくないんです。そこで、「あ、投稿されてる」「変なとこないかな」と読み直すと、ちょっとこう、前向きに一日が始められる。これは小説をWebサイトに投稿したときに気づいた一種のライフハック(?)。「できれば毎日、仕事以外でも何かを書いていたい」と思い始めたのも、それがある程度習慣になったのもあのとき。ブログに関しては更新頻度にこだわりはないのですが、アップしようがアップしまいが、とにかく自分の文章というものに、一日一回は触れていたい*1

 

一方で書くことは生活を圧迫しており、他の習慣はロクに続けられなくなっています。リングフィットアドベンチャーでの運動習慣も、書き始めてから途切れがちになりました。仕事の合間に無理やりねじ込むことも多く、生活が乱れまくる。でも、健康的でなければ書くことはできない。

 

もうひとつ、ジワジワと迫られていると感じるのが、書く責任を引き受けること。その昔、ツイッターを本格的にはじめたときに衝撃だったのは、「顕名で文章を書いている人は、こんなにもいろいろな意見にさらされるのか」ということでした。まともな批判から思い込みの中傷まで、顕名で書いている人は常にさらされ続けている。それがどれぐらいすさまじいものなのか、SNSではじめて知りました。あ、自分にはその覚悟がなかったんだ、と気づいた瞬間でもありました。

 

ブログに書いているライターの仕事論みたいなテキストは、同業者に見られたら死ぬほど恥ずかしい。狭い見識で書いているので、ツッコミも入るんじゃないかと思います。何よりイタい。でも、あれはどこかに残しておきたいんです。どの職業もそうかもしれないけれど、ライターってイメージで語られることが多い。たったひとつのサンプルだけど、実際やっている人間はこうなんだよ、と知ってほしい。

自分自身、世の中とうまくやっていけないタイプなので、同じように感じている人に、「世間一般で“ふつう”とされている道ではなくても、自分が生きていける道がどこかにあるのではないか」と思ってほしい、というのもあります。

書き残した結果、恥をかくかもしれないけれど――。それを引き受け、それでも発信する。広義では、それも書くことの責任を引き受けるってことなのかなと思っています。

 

その責任をどう引き受けるのか。ひいてはどこまで匿名で書いていくのか。ハンドルネームを使い分けつづけるのか、統合するのか。ここ数年の課題です。

健康と責任。そのことをぼんやり考えつつ、やっぱり一日ひとつは何かを書いていこうと思っています。

 

 

 

写真は《ティータイムのおやつとコーヒーのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20200301065post-25681.html

*1:小説の場合は、ある程度まとめて書くかプロットをしっかりさせて、投稿するときは毎日が理想です。反応が返ってきやすく、モチベーションが保ちやすいので