平凡

平凡

たとえ何ひとつ残らなくても

「そんなものは、あの世に持っていけないでしょう」

「お金はあの世では使わないし」

「あのひとは後世に残る研究をした」

「残る」「残らない」をめぐる言説は多い。

 

 

そういえば、書籍の編集をしていたとき、社長や上司は言った。

「雑誌と違って、書籍は残るんですよ」

だから、書籍のほうが上だ、誇りを持て、といったニュアンスがあった。

 

巡り巡って、わたしが居場所を見つけたのは、読んだハナから忘れられていく雑誌の世界だった。

人々の楽しみのために、1号分に、1記事に全力を投じる。

それが性にあっている。

一瞬で忘れ去られる記事であっても、読んでもらうからには、いい加減な情報は載せたくない。

正しい情報を濃密に、引っかかることなく、するりと理解できる文章で。

それが喜びであり、誇りだ。

 

書籍編集時代の社長や上司が言った通り、わたしが編集した数少ない書籍とは、いまだに図書館で出会うことがある*1

それはそれですばらしく、ありがたいことだと思う。

が、とくにうれしいとは感じない。

 

生業では、燃え尽きるまで、花火のような仕事をしていきたい。

一瞬のきらめきが、それでも読む人の心を照らしますように。

消えることは惜しいと思わない。

わたしの書いたものはどうか読み捨ててほしい。

ただ、インタビュー記事では、インタビュイーのことばが誰かの心に残ったらすてきだとは思う――。

 

でも。

 

こうやってブログを書く。

小説を書く。

生業以外の文章では、何かを残したいと思っている。

 

むかし、ある文芸系の編集者に言われた。

「何かを後世にのこしたい、ですか。

そんなことは、創作をする人間はみんな考えているんです」

 

死後も残るようなものを書ける可能性は低い。

その可能性は、キーボードを打つ指がかじかむほどにわかっている。

それでも、内から出るものは書きつけたい。残したい。

 

この前、小説を一気読みしてくれた人があった。

その量、20万字。

おそらく夜を越えて読んだうえで、感想をくださった。

 

そういう体験があると、心からの満足がため息となってもれる。

ああ。

わたしの身が尽きても、いつか小説が消えても忘れ去られても。

たとえ何も残せなくても。

この喜びだけは、わたしのものだ。

わたしだけが抱きしめて、棺桶までもっていって、ともに燃え尽きるもの。

 

世界に何を残せなくても、それでも、「わたしにはこの喜びがある」と思えるもの。

今回のコメントに限らない。

創作に対してもらう感想には、すべて、それぐらいの喜びがある。

 

書くことを含むコミュニケーションすべてには、「誰かにこの想いを届けたい」という祈りがこめられている。

思うに、フィクションを書く行為は、その「祈り」成分がひときわ濃いのだ。

だからこそ、届いたときの喜びは深い。

 

どこから来たのかわからない空想。

それを形にすることでしか、届けられないものがある。

書いてみるまで、あるいは書いてみても、それが何であるかわからないこともあるけれど。

投げて、投げて、叫んで、叫んで。

たまに遠い世界から、自らのこだま以外が返ってくる日がある。

 

文芸系編集者はつづけて尋ねた。

「残したい。それは大前提として、あなたは何を書きたいんですか」

それがよくわからんですよ。

「人の心に届くもの」というのは、ちがう。

それは結果であって目的ではない。

でも、届いたらうれしいんですよ。

 

何も残せないことは*2、怖くない。

「死後も残るものも」なんて大それたことも、もう考えない。

ただ、頭が働くうちはできるだけ長く、できるだけ多く、意味あるものが書けますように。

それが誰かに届きますように。

 

やっぱり創作は祈りだ。

 

祈りを込めて、今日も歩きながら、読みながら、キーボードを打ちながら、何を書くかを考えている。

 

***

画像は写真ACからお借りしました。

たき火 - No: 24776941|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

*1:売れたとか質がよかったわけではなく、ある分野での基礎の基礎的な本を作っていたため、息が長い

*2:と考えることができるのは、「書く」行為だけで、子どもをのこす、のこさないはまた別なのである