平凡

平凡

海外旅行へ行く理由

今週のお題「2019年上半期」

 

曇天の下で、寄せては返す波をぼんやりと見ている。

透き通った海水が波となって立ち上がるその瞬間、繊細な飴細工のように見える。

視界を広く取ると、エメラルドグリーンの海が広がり、白い小さな波頭がそこかしこで砕けている。

まわりには、わたしたち以外にも同じように過ごしている人たちがいる。

ベンチに座ったり、その辺の砂浜に草が生えたところに寝転がったり、

サンドイッチを頬張ったり、おしゃべりをしたり。

 

夕方になると、風が強く、冷たくなってくる。

雨まじりの天気の下、現地の人が、ウィンドサーフィンを始める。

なかでも初老の男性が一番速い。

引き締まった体で巧みにセイルとボードを操り、沖を飛ぶように進んでいく。

砂浜では、彼の飼い犬が遊んでいる。

主人の活躍を見守るでもなく、浜辺に穴を掘ったり、木の根っこあたりのにおいをふんふん嗅いだりして、実にマイペースなものだ。

われわれの後ろ、遊歩道からは、カツンという音と、男性たちの歓声が聞こえてくる。

男性たちが集まり、拳ぐらいの大きさのボールを砂場に散らし、そこに同じようなボールを投げてぶつけているのだ。

フランス語圏ではメジャーな「ペタンク」という遊びで、ゲートボールのようなものらしい。

ニューカレドニアの1日が暮れていこうとしている。 

 

年に1回、夫婦で海外旅行へ行くことにしている。

行くのはたいてい、1年の折り返しとなるこの時期だ。

ホテルと航空券がセットになったフリーツアーに申し込み、

現地では王道の観光地へ行き、おいしいものを食べて、帰ってくる。

ごくごく普通の観光旅行だ。

それほど長く休みを取れるわけではないので、

ヨーロッパなど遠くへは行けない。

行ける範囲で、そのときのふたりの

精神的・肉体的・金銭的余裕に見合った土地を探して出かけている。

 

休みを取るのも楽ではない。

それでもいそいそと出かけていくのは、

出発してからの楽しさと、ちいさな発見があるからだ。

 

忘れられない思い出がある。

台湾・台北の大きな書店へ行ったときのこと。

夫婦ともに出版業界で働いているので、旅先では、書店を見かけると入るようにしている。

どのフロアにも、多くのお客さんがいた。

トークイベントは満員御礼、店内では地べたで“座り読み”する人も含め、かなりの人が本を手に取っていた。

日本とは違った活気がある。

ぼんやりとそう感じていた。

それがはっきりと形になったのは、最上階の催事場に着いたときだ。

そこでは、本のセールが行われていた。

どれぐらい新しい、あるいは古い本が並んでいるのか、何割引なのか、

再販制度がどうなのかは、よくわからない。

ただ、そこには頬を上気させ、目を輝かせて本を選んでいる人々がいた。

ほしい本をたくさん抱え、レジは大盛況。

宅急便で戦利品を送っている人も多かった。

本が買えてうれしい! 本を選んでいて楽しい!

そんな熱気が、会場に満ち満ちていた。

「こんなにも、本が求められている」

「こんなにも、本を求める人がいる」

「人々が、本を手に、こんなに幸せそうにしている」

そのことが、わたしたちの胸を打った。

書店全体、どのフロアにもふんわり漂っていた活気と喜び。

それが、セール会場には凝縮されていた。

 わたしたちは、比喩ではなく泣いた。

それは長らくわたしたちが忘れていたものだった。

こういった喜びのために、わたしたちは本を作り、

届けたいと思っているのではないか?

そして、自分たちがいかに出版不況に疲れているかを自覚した。

他人から見たら、ちいさな話だと思う。

しかし、それはわたしたちにとっては大きく、

旅行をしなかったら、決して得られなかった気づきだった。

 

「ただの観光旅行でも、海外に来るのは、意味があるね」

「日本国内だけを見ていると、わからないこともあるのかも」

わたしたちが年に1回は海外旅行をしようと決めたのは、

あの台北での出来事があったからだと思う。

 

とはいえ、基本は気楽な観光旅行だ。

今年は、予算内でとにかくきれいな海を眺めてのんびりしたいねと、

ニューカレドニアにやってきた。

 

海をぼんやり見ていると、もうちょっと精神的な余裕がある生活をしたい、そのためにはどうしたらいいだろうと、思考が前向きになってくる。

そういったことを、夫婦で話す。

 

ニューカレドニアで飲食店に入ると、人々がスマホをあまり手にすることなく、老若男女がひたすら会話を楽しんでいた。

フランスの海外領土なので、そっちの文化なのかもしれない。

そういった時間の使い方が、とても新鮮に映った。

現地の人は、ツーリストにとても親切だ。

完璧に相手の意思を汲み取らなくちゃ、間違えちゃいけないといった力みがない。

それがかえって親切さにつながっているように思う。

たとえば、QUICKというファーストフード店では、まったく英語が通じないうえ(公用語はフランス語)、

手元のメニューもなかったのだが、レジの女性は迷惑がるでもなく、落ち着いて我々のオーダーを聞こうとしてくれた。

出てきたものは、意図したものとはちょっと違ったのだが、眉間に皺を寄せたり、オロオロすることなく対応してもらえるありがたさを実感したのだった。

 

台北のカウンター注文の店では、まごまごしていると、たいてい店の人が『観光客が食べたいのはこれだよね!』

『美味しいのはこれ!』って感じで出してくれるよね」

「そういうときって、注文受けるときはしかめっ面しているけど、最後は『美味そうでしょ、それでしょ!』って感じで笑ってくれる」

「あの強引さ、うれしいよね」

普通サイズを頼むつもりが、XXLになってしまったポテトをつまみながら、ふたりで話す。

 

海沿いを、手をつないでホテルへと帰る。

まもなく冬を迎えようとするシーズンオフのニューカレドニアは、閑散として、とても静かだ。

天候には恵まれなかったし、理想的なシーズンでもない。

一方で、こののんびりとした時期に来られてよかったとも思う。

いつもと違う環境での、リラックスした、開放的な気持ち。

自分たちとは違う「当たり前」を、ちょっとだけのぞくこと。

ありふれた発見を、自分たち自身のものにする、ありふれた観光旅行。

それを楽しみに、今年の後半もがんばろうと思う。