平凡

平凡

ホスピス

f:id:hei_bon:20220126004318j:plain

そのホスピスは、山のふもとにあった。

 

市街地から一時間に二本ある私鉄に揺られること40分ほど。そこから運がよければ一日に二便のコミュニティバスに乗ることができる。

バスを降り、葉も実も落ちた柿の木が並ぶ畑や、涸れた水田を横目に歩く。気温も湿度も市街地とは違っている。キンと冷えて、それでいて湿っぽい山の空気を吸いながら、わたしは歩いた。どんよりと雲が垂れこめた空から、ちらりちらりと雪が舞い落ちる。

雑木林が迫る道に入ると、やがて広々とした駐車場が開ける。車のフロントガラスに雪がはりつき、いかにも寒々しそうに見えた。

人気のない玄関ホールは暗くて静かで、屋内ならではの温かさはあまりない。

合皮のスリッパが足からすっこ抜けないように気を付けながら、幅が広い廊下を歩く。ガラス張りの中庭を巡り、大きな引き戸がついた個室が「回」の字に並ぶ。

なかには、扉が開け放された個室もある。四角く切り取られた空間の向こうに、リモコンを持った骨ばった手が見え、テレビのにぎやかな音声がわずかにひびいた。

その隣の部屋では扉が大きく開かれ、看護師がせわしなくシーツを運び出していて、わたしはそっと目をそらす。

 

見慣れた名前が掲げられた病室をそっとノックすると、母が顔をのぞかせる。

「いま、うとうとしとるから……」

20平米ほどの病室には、介助者用のベッド、簡単なキッチン、ユニットバスが備え付けられている。そして部屋の中央に置かれた大きなベッドには、埋もれるようにしておじちゃん、つまり母の再婚相手が眠っている。また痩せたな、と思う。

「この前まではお風呂に入れて気持ちいいって言っとったけど、最近は嫌がるようになってしもて」

声をひそめて母と話す。ここへ来たばかりのころは、介助用ベッドのまま入浴をさせてもらえることを喜んでいたのだが。そのうち、おじちゃんが目を開く。

「平凡が来てくれたんよ」

わたしの顔を見て、わずかに表情がゆるんだ、ような気がする。

「具合、どう?」

「まあまあやな」

しぼりだすような声だった。決まり文句の挨拶をかわし、コートを脱いで、母とたあいない話をする。介護者も食事を頼めるから助かっていること。近所の大きなスーパーは、弁当がなかなか美味しいこと。

「ここはええとこやけど、山やから。雪降ると、車出せんくなって困る」

「さっきも雪、ちらついとった」

「積もらんとええなあ。猫ちゃんの世話もあるから、帰らんとあかんし」

「さっき家寄って、見て来た。元気そうやったよ。トイレとか、ご飯とか、世話してきた。わたし、明日、明後日はこっちおれるし」

電気ケトルで湯をわかし、適当にお茶を3人分、いれる。そのうちひとつは、大ぶりの見慣れた湯呑。その湯呑がかつて使われていたリビングには、いま、猫だけがいる。さみしさにじっと耐えるその姿を想像する。

「飲む?」

「ありがとう」

母がおじちゃんの手元に湯呑を持っていく。見守ってはいけないと思いつつ、わたしはそれをぼんやりと見つめる。ひとすすりだけして、おじちゃんは息を吐くように言った。

「えらいなあ」

「えらい」とは方言で、「しんどい」「だるい」といった意味合いだ。吐息のごとく漏らしたことばが、湯気とともに室内に消えていく。

「せやなあ」

母が湯呑を受け取った。この人が「えらい」なんて言ったの、聞いたことがあっただろうか。窓の外では、雪が本降りに変わろうとしていた。わたしが手にした紙コップは、どんどん冷めていく。

 

「猿が来るんや」

突然、おじちゃんが言った。

「猿?」

「うん。山にようけ猿がおってね、そこの屋根で遊ぶん。けっこううるさいんよ」

窓の外、眼下には、職員用のスペースなのか、トタン屋根が見える。

雑木林を抜けて、薄茶の毛に雪を積もらせて、やってくる猿。飛び跳ねる猿を想像しようとしたけれど、あまり上手くはいかなかった。

「車の屋根とかで騒がれたらと思うと、心配なん」

3人でじっと窓の外を見る。静かだ。

「今日は来やんなあ」

心なしかさみしそうに、母がつぶやいた。

 

いまはもう、そのホスピスはなくなってしまった。

閉鎖前、そこで家族を看取った人たちが集まり、スタッフと共に思い出を語らったそうで、母も出席したと言っていた。

 

しんとして、だれもが小声でしゃべっていたホスピス。常に入所者が入れ替わり、誰かの人生を、ひとりひとつのものとして見つめ、送り出していたあの場所。そこがもうないのだと思うと、不思議な感じがする。

思い出のなかのホスピスは、いつも冬だ。今もまだ、猿たちは里に下りてきて遊んでいるのだろうか。想像しようとするけれど、やっぱり上手くは思い浮かべられない。

 

画像は《松の葉に積もる初雪のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210301085post-33806.html