平凡

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大人になってわかる、写真入り年賀状のありがたさ

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海岸沿いの道から、車は山間へと入る。

杉の木だろうか、針葉樹におおわれた斜面がつづき、やがてうねうねとした一車線の坂道沿いに、民家がぽつり、ぽつりと現れる。

古い家も新しい家も、どこも屋根が高く、がっしりとした作り。

能登の積雪に対応するためなのだろう。

とある民家の前で降ろしてもらい、送ってくれた親に礼を言う。

親の旅行先がたまたまこの地だったので、これ幸いと同乗したのだった。

 

車のドアを閉めると、とたんに蝉の声がボリューム・アップして聞こえる。

「来てくれたんだ、ありがとう」

数年ぶりに会う、なつかしい顔がそこにある。

大学時代にたまたま知り合った、他大学の友人。

「出産、おめでとう」

百貨店でみつくろってもらったベビーグッズを差し出す。

「ありがとう」

 

友人に案内され、家に上がる。

家は新しいけれど、日本の伝統的建築法を感じさせるしつらえで、やはり天井が高い。

廊下は磨きこまれて光っていた。

 

ふすまを開けっぱなしにした畳の間に、彼女がいた。

敷いた布団に寝かされている、ちいさな命。

目の前にいる友人が、数週間前に産んだ子ども。

まだ肌は赤みを帯びている。

「赤ちゃんや……」

すう、すうと眠っているその子は、命そのものに見えた。

「すごいな、アミちゃんが産んだんや……」

窓の向こうの盛夏の緑の気配。

うるさいぐらいの蝉の声。

庭木にさえぎられた夏の日差し。

――「赤子」の「赤」は、血の色、生命の色。

――「みどりご」の「緑」は、芽吹き伸びゆく若葉の色。

能登の山間に溢れる生命の気配と重なったのか、そんなことを思った。

 

それが、わたしが生まれてはじめて「友人が産んだ子ども」と対面した日の記憶だ。

 

翌年の正月、年賀状が来た。

お子さんの写真入りだ。

あの夏の日、ただやわらかく畳の間にあった姿よりも成長して、「乳幼児」の顔になっている。

その翌年は、「幼児」に近く。

やがて妹が生まれ、「子ども」の顔へと近づいていく。

 

「あのときの赤ちゃんが、こんなに大きくなって……」

「下の子も元気そう」

年に一度の年賀状で成長を見られるのが、楽しみになった。

 

子どものころは、写真入り年賀状があまり好きではなかった。

あの子の顔なんて、学校でいつも見てるし。

別に、わざわざプリントアウトしなくても。

 

でも、大人になると――というか、「友人の子」なるものがこの世に誕生する年齢になってわかる。

あれはきっと、大人向け。

親戚や友人に、近況報告をするいちばんよい手段なのだ。

そして、受け取る側は、存外うれしいものなのだ。

わたしの子ども時代は、メールもメッセージアプリもなかったので、なおのこと。

 

子どものころ、たまに会う母の友人などに、「大きくなったねえ」「この前まではおしめしていたのに」などと言われると、

「当たり前やん」「なんでそんなこと覚えとるの」と思ったものだ。

子どもにとって、母の友人や親せきといった大人たちは、遠い他人だ(よほど目をかけられでもしないかぎり)。

生まれたときにたまたま与えられた、「ただの環境」の一環だ。

子は成長するにつれ、「ただの環境」から、「自分で選び取った環境」へと足を踏み入れ、世界を広げていく。

でも、大人にとってはそうじゃない。

大人になっても付き合いが続いている親戚や友人。

その子どもは、「自分で選び取った環境」のなかに現れた、愛すべき存在なのだ。

だから、大人はずっと覚えている。

その子が産まれたときの、親の喜びようを。

ちいさかった子の頼りない姿を。

 

それから、ほかの友人にも子どもが生まれた。

やはり年賀状でその成長を見ることには、無責任な喜びや驚きを覚える。

LINEやメールでやりとりがあったとしても、お子さんの画像が送られてくることはほとんどない。

わたしに子がおらず、共通の話題になりづらいこと、わたしの付き合いが悪く、そもそもLINEやメールのやりとりが頻繁ではないことも理由のひとつだろう(情けなや)。

とにかくそんな人間には、写真入り年賀状は貴重なものなのだ。

 

しかし、この喜びは、期間限定。

子どもたちが「自分で選び取った環境」へと進むまでのこと。

冒頭に挙げた友人の年賀状は、2、3年前からイラストだけのものに変わった。

成長に従って子のプライバシーに配慮してなのか、何か環境が変わったのか、あまり考えたくないけれど、子がいないわたしへの気遣いという可能性もある。

理由はわからないけれど、どちらにしてもタイムリミットは存在する。

 

今年、新たに友人に子どもが生まれた。

コロナ禍もあり、お子さんには会ったことがなくとも、やはり年賀状にしあわせそうな家族の姿があるとうれしい。

 

年賀状はめんどくさい。

年々やり取りをする枚数は減っている。

わたしだって、昨年は怠けて一枚も出さなかった。

それでもやっぱり完全にやめられない。

 

年賀状に友人たちの子の姿を見るとき。

今でも、能登で会った、あの赤子を思い出す。

この先会うことがあるかどうかはわからない。

当たり前だけれど、彼女はわたしを覚えていないだろう。

でも、大人はずっと覚えている。

だから、写真入り年賀状はありがたい。

 

 

写真は《新緑のイメージのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20161203355post-9876.html