あいかわらず、ゆるゆるとカウンセリングを続けている。
いろいろなことの底に、結局は昔のことがある。
たとえば子どものころ。
実家を新築した直後に、家族がバラバラになった。
あこがれていた新しい家は、空っぽになった。
そのせいか、いまだに古い家のほうが、そしてその中身が借りぐらしっぽくあればあるほど、落ち着く。
それはそれでよいのだけど、問題は、「わたしは古い家が好き」と言い切れもしないところだ。
「新築はなんかいやだなあ」「家を建てる人ってすごいなあ」「古い家のほうが落ち着くなあ」とは言えても、「だから、わたしはこんな家が理想!」と言えるものがない。
かといって、「住まいに興味はありません」というわけでもない。
なんらかの理想を抱ける自分でありたい、と思っている。
家は人生や暮らしのイメージに結びついている。
わたしの人生は、若いころに思っていたよりも、ずっとずっと落ち着いたものになった。
それはわたしにとって、とても好ましいことだ。
だったらそれに見合った夢を抱きたい。
古い家でも新築でもいいけれど、「わたしはこんな家に住みたい」とはっきりと思い描きたい。
でも、その夢を抱くために必要な何かが、とりあえず今のところは壊れてしまっている。
そんなことがいくつかある。
子どものころからこの年齢になるまで前進はしてきたけれど、この先のイメージが抱けない、といったところ。
「家」とか「家族」とか書くとごく個人的な話になってしまうけれど、「この先どう生きるか」が見えなくなってしまうのは、中年になったら多くの人が直面する壁なのだと思う。
その壁が、人よりちょっとぬるぬるしていて登りづらいとか、うっすらコーティングされていて壊しづらいとか、「そこに足場があるじゃん」と他人に見える足場が自分には見えにくいとか、そんな感じ。
心身の症状がそれほど出ているわけじゃない。
ほかにもっと大きな問題が出てくれば、「なんてちいさなことで悩んでいたんだろう」と思うに違いない。
この年になって、子どものころがどうこうなんて、ダサいなあ。
いまごろ?
しかも、たいしたことじゃないよ。
でも、それでいいんじゃないか。
たとえば、そういうことを友人にめったやたらと話して困らせてしまう、とか。
ちょっとした傷をアイデンティティに結びつけてしまう、とか。
そういうことがないのであれば、いいんじゃないか。
こうやってブログで発信しているのはどうなのか、というのは判断がつかないけれど。
大きな問題が出てきたとき、「ちいさな悩みだった」と悟ったとしても、そのちいさな悩みはなくなるわけじゃないのだ。
平時だからこそ、穏やかだからこそ、自分の底にあるものが見えている。
その状態は、そうそう愚かなことでも、悪いことでもないのではないか。
子どもがいない人生も、近いうち受け入れる日がくるんじゃないかなと思う。
ちいさくてあたたかい、猫を抱けない人生も*1。
夫の子どもを、夫に見せてあげられなかった悲しみは、どうなるのかな。やっぱりいつか、穏やかに受け入れていくんだろうか。
カウンセリング代は正直、安いものではない。
お金を払って何してるんだろうと思うことはままある。
わたしの場合、投薬など受けておらず、わりかし健康なのでなおさらだ。
でも、カウンセリングを受けなかったら、「これでいいのだ」と思うことはなかった気がする。あるいは、思えるのが10年は遅くなったのではないか。
ブログにふっと「子どもをもつことについての本音の話」なんて書かなかったら、揺れている自分に気づくのは、もっと遅くなったのではないか。
まどいながら、ゆるゆると人生はつづいている。
ゆっくりとゆっくりと、でも、確実に動きつづけている。
それがわたしの人生なのだろう。
だったらそれでいいんじゃないか。
最近ふと、子どものころの負の感情に突き当たることがある。
それは、固くて黒い。
ああ、まだこんなところにあったんだ。
起きたことはたいしたことじゃない。
もっとたいへんな目にあっているひとはたくさんいる。
でも、わたしは嫌だったんだね、怖かったんだね、と思う。
家族はみんな必死で、だから誰もが相手に手を伸ばせなかった。
でも、誰かに助けてほしかった。
いつか、「これでいいのだ」と言い切れるといいな。
揺れながら、春を待っている。
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画像は写真ACからお借りしました
斜面にて春を待つスイセンの芽 - No: 23683520|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
*1:いろいろな理由で家と猫のイメージが強固に結びついているものの、わたしは諸事情で猫とは暮らせない