平凡

平凡

子どもをもつことについての本音の話

「あ、無理」

そう思ったのは、ちょうど3年前の5月。その日は真夏日だった。涼しかった産婦人科の待合室を出ると、日差しが容赦なく照り付けた。くっきりできた自分の影を見ながら、思ったのだ。「無理」。

手に持ったA4サイズのビニール手提げには、書類の文字が透けている。そこには「体外受精の同意書」とあり、手提げの下部に不自然なふくらみがあった。精子採取用のプラスチックのジャーが押し込まれているからだ。

まぶしい日差しに照らされたそれらは、とても自分に関係あるものと思えなかった。

 

その日、わたしが産婦人科へ足を運んだのは、不妊治療の説明を聞き、基礎的な血液の検査をするためだった。不妊治療について夫婦そろっての説明会には参加したことはあるが、わたしは人一倍痛みに弱く根性がないので、なかなかことが進まない*1。その日の通院は、「まずは一歩」ぐらいのつもりだった。

 

女医は「年齢を考えると、四の五の言わずに一度体外受精をしたほうがいい」と言った。早けりゃ早いほうがいいということで、「血液検査の結果を聞きに来るとき持ってきてください」と冒頭にあげた同意書を渡された。あまりのスピード感に戸惑いながら、

「いろいろ、痛いんですかね……」

へらっとした笑みを浮かべてつぶやくと、女医はにこりともせず言った。

「どんな不妊治療の痛みも、妊娠出産に比べたらたいしたことはありません」

あ、そうですよねと、わたしはやはりへらっと笑って席を立った。

「ああ、これも。いずれ使うので」

同意書を入れたビニール袋に、精子採取用のプラスチックのジャーが追加された。

 

我々夫婦のスタンスは、子どもはできたらうれしいけれど……ていど。わたし自身に関してもうすこし詳しく言えば、夫の子どもの顔は見てみたい、のこしたい気持ちはある。

しかし、自分たちのキャパシティは大きくない*2

それを乗り越えるのが人生――というか、乗り越えるか乗り越えないかのゼロイチではないのだろう。多くの人々が日々、仕事、育児、家事、夫婦関係について、正解のない戦いをつづけている。

晩婚の我々がそこに足を踏み入れるためには、「なんとしても子どもがほしい!」というプリミティブな渇望が必要だった。が、そういった強い気持ちがわたしたちにはない。

 

それでもなんとなくあきらめきれないものがあり、わたしとしては「タイムリミットの前に体外受精を一回ぐらいやってみるか」という気持ちで病院へ足を運んだ。一回やって、妊娠をしなかったらあきらめよう、と。

 

ただ、病院を出たとき、やにわに気がついたのだ。

不妊治療をするってことは、100%の気持ちで子どもを望むってこと?」

いや、いまさら何言ってんのという話ではある。しかし、愚かなわたしはそのときはじめて気がついた。自分は不妊治療をあきらめの口実としかとらえていない。

自然妊娠はどうも難しいことはわかっている。だったら将来、「不妊治療しても無理だったし、いちおう、やることはやったし」と言えればいいや。

 

でも、不妊治療は子どもを望んでやることだ。当然ながら。

 

100%子どもを望む。望んだうえで、年齢を考えれば成功率はたいへんに低く、それでいて肉体的にも精神的にも金銭的にも負担が大きい不妊治療をする。

そのすべてを覚悟のうえでやる。

ぜんぶ、わたしには無理。

その日、そう気がついたのだった。

 

「子どもを望むなら、自然妊娠でなきゃ嫌」とロマンを抱いているわけではない。ただ、妊娠、出産という人生を大きく変えるイベント、しかもどんな子を授かるかわからないイベントに直面するならば、自分は「授かった」偶然性がないと耐えられない。それは子を持とうという意思が1ミリでもある現代の大人として、正しくない姿勢ではある。

いや、年齢を考えると、不妊治療をして成功するのも十二分に「偶然」「たまたま」「運よく」「授かった」なのだが。

 

その後、夫婦で話し合って、積極的な不妊治療はしないことにした。

 

そのまま3年が経った。わたしたちには子どもはいない。

 

ときどき思う。このまま時にまかせていていいのだろうか。「ギリギリ妊娠した人もいる」年齢のうちに、「子どもはあきらめる」ときっぱり決めたほうが、今後の人生にとっていいのではないだろうか。

 

そう考えるのは、次の段階には、動物を飼う選択肢があるからだ。

わたしたちにとっては、子どもをもつことと動物を飼うことはトレードオフだった。なぜなら、わたしたちの子がなんらかのアレルギーを持っていないとは考え難いからだ。

そろそろ子はあきらめたほうがよい年齢になり、ペット可物件に引っ越したものの、やはりそちらの覚悟も決められない。子の体質の心配をするということは、我々にも問題があるからだ。

いろいろと情報収集をしているのだが――。結局は、覚悟の問題なのだ。人間側に不具合が出ても、全力で動物の環境だけは守り抜く覚悟。

 

子にしても動物にしても、自分ではコントロール不能なものを、自分の人生に受け入れる覚悟が必要なのだろう。当然、子どもと動物は違った存在であり、覚悟の種類も変わってくるのだろうけれど、ざっくり言えば。

 

人生、なんでも覚悟をもって決断しないと立ちいかないのではないか。たとえば動物を飼わないとはっきりと決めたそのときに、動物の保護活動、たとえば乳児期の子猫のミルクボランティアをするなど、違った道に踏み出せるのかもしれない。

 

ときどき思う。

いまのところ、自分自身も親兄弟は元気だ。配偶者にも恵まれた。仕事だって、人から見ればどうかはわからないけれど、わたしとしては気にいっている。だから、そこから外れることはぜんぶ、あきらめられたらいいのに。あきらめて、そこに充足が見いだせたらいいのに。実に他力本願だが、恥も外聞もかなぐり捨てて言えば、それが本音だ。

それなのに、何かもっと――未来にのこせる何かがあればと思ってしまう。

 

とてもグダグダした話なのだけど、子どもに関しては、「子どもを持たないと決めた」「子どもがほしい」以外の話はあまり見かけない。そもそもこういった話題はセンシティブなので、強い何かがないと発信されない。そして少なくともわたしのスタンスは、人から見れば「自分の生活を崩したくないのね」で終わってしまうだろう*3。そう思うけれど、グダグダしているのはみっともないけれど、書いてみる。

数ヶ月前のブログを読むと、「あーこんなこと考えていたなあ」とすっかり忘れていることもある。今の記録を残す、という意味もある。

 

大人になる、責任を負う、老いる、あきらめる。あるいはあきらめないことを決める。自由な時代だからこそ、そのすべてに膂力が必要とされる。わたしはいまそれを試され、そしてその試練に応えられていない*4

 

画像は《スモークツリーの新芽のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20130508150post-2829.html

*1:ついでにいうとタイミングの相談、ぐらいのぬるい通院はしたことがあったが、ぬるすぎて「排卵日もよくわかりません」と言われる始末であった

*2:はっきり言ってしまえば夫婦の問題というよりわたしの問題で、気分の乱高下が激しく、できることがあまりなく、複数のタスクがあるとすぐにパニクるため、夫がそれを流す、またはカバーすることで成立しているところがある

*3:ネットで有名な「要は勇気がないんでしょ」は、実に名言であるなと思う

*4:こういう感じなので、人様のお子さんの話を読んだり聞いたりするのは好きです。みんな健やかに育ってしあわせになってほしい