平凡

平凡

根性なし三種の神器。歯医者のつっかえブロック、服薬ゼリー、そしてGoogleマップの病院口コミ

痛みにひと一倍弱い。根性がない。

 

このふたつが如実に表れるのが歯医者だ。「歯医者は怖い」はポピュラーかつスタンダード。余人をもってそう定義するものに、どうして天下の根性なしが立ち向かえようか。

 

初診の問診票には、「痛いのが苦手です」「口を開けるのが苦手ですぐ疲れます。休憩を多めに入れてください」と書く。そう、「痛みに弱い」「根性なしなので口が開きつづけられない」の二連コンボなのだ。

いい年して何書いてんだと恥入るものの、どうせ口を開けばこの辺のことはバレる。最初から書いてしまったほうが気が楽だ。

こういう要望が受け入れられるかどうかわからないので、なるべく歯科医は変えたくない。優しい歯医者に出会えたらもうずっと通っていたい。というわけで、新卒時代から約20年、交通費が片道1000円かかろうが、往復2時間かかろうが、同じ歯科医に通い続けていた。都心なら「ついでに」ともいえるが、何の変哲のない住宅街なので、ほんとうに行って帰って来るだけになってしまう。

3年ほど前、思い切って近所の歯科医に変えたら、びっくりするぐらい通うのが楽になった。

 

当然、以前通っていた歯科医も、近所の歯科医も優しい。あきらかにほかの患者さんよりも休憩を多めに入れてくれているし、「しみますよー」「ちょっとだけ痛いですよー」と予告をしつこいぐらいにしてくれるし、麻酔は「打ちますよね」とほぼデフォルト。

「痛いときは右手を挙げてくださいね」とも言われるのだが、ここまで気を遣われると逆にわかる。痛くてもどうしても我慢しなければならない局面があるし、口の筋肉が疲れてプルプルしても、連続して治療をつづけなければいけないときもある。そういうときは、「もうちょっと! もうちょっと頑張れるかな?」「ほんとにあとちょっとなんですよ! 平凡さん!」と励ましてくれる。

以前通っていたほうの歯科医では、親知らずの手前の歯、ようするにかなり奥の歯がひどい虫歯になるなどのヘヴィな治療があった。当然、口を大きく開ける必要があり、治療時間も長い。そういうときは、最終手段として、歯科医専用らしきつっかえ棒ならぬつっかえブロックを入れてもらっていた。あのブロックをいつも使ってほしいと思うのだが、おそらく治療しづらいなどの事情があるのだろう……。

とはいえ、いいのだ。右手を挙げても痛い治療は止まらず、顎が疲れても頑張らねばならぬ局面があったとしても、「そういう自分」を少なくとも表立っては責めたり怒ったりあきれたりしないで治療してくれる。その安心感があれば通い続けられる。

 

ついでにいうと、わたしは錠剤を飲むのも下手だ。思春期ぐらいまでわたしは飲み物をゴクゴク飲めなかったし、そのことに気がついていなかった。ひと口飲んで、ひと口飲んで、を繰り返すような飲み方をしていた。いまは喉が渇けば麦茶ぐらいはゴッゴッゴッと飲んでしまうが、意識してそれをやろうとするのは難しい。大きい錠剤を飲み下せないのも、その癖が影響しているのかもしれない。

上手く飲めないと錠剤が喉の入り口に貼りついて苦しい。二度目以降の嚥下チャレンジでは、錠剤のまわりのコーティングが溶けてベタベタするため、ますます喉に貼りつく悪循環。体調が悪いとめちゃくちゃえづく。

飲めない錠剤の大きさはだいたい把握できてきたので、危ないと思ったら「らくらく服薬ゼリー」を購入して帰っている。文明の利器よありがとう。

 

予想を裏切らず、婦人科が最大の鬼門だ。内診。書くだけで恐ろしい。

ただ、数年前までやっていたゆる~い不妊治療(タイミング療法)や、子宮がん検診のときは、「かわいい猫ちゃん……そう……長毛で……毛が柔らか……模様は三毛……茶色3黒2白5ぐらいの割合で……わたしは背をなでる……額をかいて……にゃ~ん……」などのイメージを思い浮かべることで意外にも無難に乗り切っていた。

なので、最近、ちょっと気になることがあって婦人科に足を運んだときも、それでなんとかなるだろうと思っていたら――。甘かった。

いままでとさして変わらぬ内診のはずなのに、「力を抜いてくださいね~」「息を吐いて」と言われたところ、「はあはあはあ」と謎に浅い呼吸をたくさんしてしまい、診察台のひじ掛けを握りしめ、力が入りまくって過呼吸気味に。

すかさずわたし側に年配の看護師さんがまわりこんで手を握り、「吐く息を意識して、すうー。はい、すうー。その調子ですよ」とずっと呼吸についてアドバイスをくれ、先生は懇切丁寧に何をしているかを説明し、さらにそれを先生側にいる若めの看護師さんが追いかけ説明をし、「あとすこしですよ!」と励ます。「申し訳ありません」と半泣きであやまると、「気にしないで!」「だいじょうぶですよ」と口々に気にするなと言ってくれる。

Googleマップの口コミに「やさしい」「話を聞いてもらえて涙が出た」と書いてあっただけはある。ありがとう口コミ! と感謝しつつ、わたしは3人がかりで励まされて内診を乗り切った。

その後、「内診ははじめてですか」とは聞かれたが、先生も看護師さんも責めなかった。内診を怖がる女性が、「処女じゃあるまいし」などと言われる恐怖体験も聞いたことがあるが、そんなこと言われたら検診など絶対に行けなくなる。

 

幼年期は、「ただの子どもと思われたくない」と虚勢を張っている嫌な子どもだった。「歯医者が怖いなんて、なんでだろ」と思っていた。それは母が子どもの歯の健康に細心の注意を払っていたため、大きな虫歯になったことがなかったからでもあった。が、ごまかしようのない痛みと恐怖、たとえばイボを液体窒素で焼く必要があったときも、わたしは黙って耐えていた。そんなもので泣くような子どもだと思われたくなかったからだ。

「子ども」という枠組みがなくなると、わたしはふにゃふにゃになってしまった。「もう大人なんだから」「怖いなんて恥ずかしいでしょ」とふんばることができなくなった。「怖いものは怖いんじゃボケ」と居直ってしまった。いったいどうしてこうなったと思うが、「自分育て」に失敗したのは確実だろう。

 

もうすこし若いときは、こういったことを自虐的に書けたものだ。ただ、年を取ってくれば持病も出てくるだろうし、大病を患う可能性も高まる。「ふつうなら嫌がりつつもなんだかんだ乗り切れる」ところを、「ギリギリ乗り切れない」可能性を感じて戦々恐々としている。大病を患ったとき、通常は治療で6割ぐらい生還できる、みたいなところを、「そんなつらい治療は無理です」とあきらめざるを得ないことも出てくるのではないか。

最近気になるのは、バリウムを飲んだことがないことだ。一気に飲み下すことができるか、はなはだ不安である。どうしても無理だと帰されるのだろうか……。シャレにならない。

 

バリウムに関しては、たとえば鎮痛剤を処方してもらえる人間ドッグなどで、いきなり胃カメラを飲む方法で回避できるかもしれない。その都度その都度、やっていくしかないのだろう。生命の危機に瀕しては、「生きたい!」というガッツにより、さまざまな苦痛を乗り越えられる可能性もあるが、そういったミラクルに期待しないほうがいいというのも年齢を重ねるとわかる。一瞬だけ「生きたいからがんばるぞ!」と宣言したものの、いざ治療がはじまったら「痛いよう、いやだよう」とグチグチ言いそう。なんてちいさな人間なんだ……。

 

年齢を重ねたら、勝手に大人になるわけではない。そんなことを言っているうちに、老い方の難しさに直面するようになった。老いは人生の総決算。良くも悪くもそう感じる今日この頃。

せめて次の婦人科通院では、深呼吸ができるようになりたい。

 

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