平凡

平凡

「子どもがもてない」ことに対する、今のところの帰結

ゴールデンウィーク初日。

スマホを開けたら、知人からの「いろいろあって確実に産めるまで伏せていたけれど、実は妻が妊娠しておりまして……無事、子どもが生まれました」報告が目に飛び込んできた。

速攻で「おおおお、おめでとう!!!!」とメッセージを送って、「子どもめっちゃかわいいです」って文面見ながら、「わたしにはそういうことは一生起きないんだな」と思ったら悲しくなって、びっくりした。

びっくりしたのは、悲しくなったことじゃなくて。「わたしは子どもを持つことがない」「それが、悲しい」と、そのふたつを連続して、ちゃんと自覚できたことに驚いた。

知人や友人が妊娠・出産するのは今も昔もうれしいし、めでたい。お子さんの写真入りの年賀状やフェイスブック投稿も大歓迎。
「あのちっちゃかった赤ちゃんが、いまや雲梯を!?」と、すくすく育っているのを見られると幸せな気持ちになる。

友人たちにも、子どもたちにも、健康で、幸せでいてほしい。街中では親子連れを見たら、できるだけ手を貸したいと思う。

 

それは変わらないのだけれど、少し前のわたしは、友人の子の誕生を心からうれしく感じたあとで、混乱してしまうことがあった。
他人と自分の事象は切り離しているのだけど、こと「自分」の悲しさがコントロールできなかった。

いまならわかる。

「わたしは子どもがほしい」とはっきりと認められなかったし、「子をもつことがない」ことも受け入れられなかったからだ。もともと、絶対に子どもがほしいタイプでもないから、なおさらややこしかった。

不妊治療をバシバシにやってこれなら言い訳もたつ。

でも、わたしは病的な怖がりだ。最近では産婦人科の内診で過呼吸になりかけたこともある。性的なトラウマがあるわけではなくて、歯医者でも同じような感じ。

 

なにより、わたしにはどうしても「子どもを100%望んで医療行為を行う」ことができなかった。
いまや不妊治療はあたりまえで、人の話を聞いても「成功しますように」としか思わない。
しかし、いざ自分ごとになってみると、それはまぎれもなく生命倫理を問われる問題だった。
それを乗り越えるためには、「絶対に子どもがほしい」強い気持ちが必要だ。

そして「絶対に子どもがほしい」気持ちが必要な不妊治療は、成功の可能性は極めて低い。

わたしには何もかもが受け入れられない。

それが根性なしの限界だった。

 

夫の温度感も同じようなものだった。

夫婦で話し合い、「不妊治療はしない」「自然にまかせる」と決めた。年齢や今までの経緯を考えれば、それは妊娠はあきらめる決意とニアイコールだった。

しかし、ニアイコールはニアイコール。心のどこかでは、子どもを持つ人生をあきらめきれない。

 

わたしたちは大の猫好きなので、「子どもをあきらめたら猫を」と話していたのだけれど、それも「たられば」だからできた話。
現実的には、わたしのアレルギーを考えるとそれも難しい。数値はかなり高く、猫カフェに行くとマスクをしていても症状が出る。実家では猫と暮らしていたこともあったのだけれど。

 

そんな情けない自分の話を軽い気持ちでエッセイにしたためたら、あっという間に精神のバランスを崩したのが一年前。
半年様子を見てもあまり状態がよくならなかったので、以前お世話になっていたカウンセラーの先生を予約したのが秋のことだった。

子どもも猫も、問題は変えられない。

「どうしたらいいんですかね、これ」と問うと、「それを持ち運べる形にしていきましょう」と先生は言った。

それから半年、いろんな話をした。生育環境の話から、まったく関係なく思える仕事の話、創作の話。

カウンセリング料はわたしにとって、安くない。

はっきりとした症状が出ていない状態で通うのはムダじゃないのか? と思ったことは何度もある。

けれど。

いま、はっきりことばにできた。わたしは子どもがほしかった。でも、もてなかった。それが悲しい。というか、わたしは何より、夫の子どもが見たかった。夫に子どもを抱かせたかった。だから、女性よりも男性からの「子どもが生まれました」報告に動揺する。

ちゃんと育てられるか自信はないけど、子どもを育ててみたかった。でも、それはかなわない。そのことが、悲しい。

悲しい。けれど、心のどこかで、「子どものいない人生」を受け入れようとする音がする。気配がする。

きっとこの悲しさは薄れはしても、消えることはない。でも、それがわたしの人生なのだ。

 

カウンセリングに通ったことは、無駄じゃなかった。自分と向き合い直したことで、自分のことが前よりわかるようになった。

それはたぶん、創作やコミュニケーションにもよい影響を及ぼしている。「子どもをもつ」とか「小説書く」とか、それぞれ別物に見えるけれど、人生は全部が全部、人生だから。

 

悲しみが、わたしの胸の奥底で震えている。夢見たことはもう起きないと告げている。
でも、わたしにはそれが「わかる」。「そうだね」と答えることができる。「わたしはそれが悲しい」と口にすることができる。

 

消えない悲しさをよいしょよいしょと整える。

コンパクトに収納して、取っ手をつけて。

持ち運べる形にしたそれを、しっかり抱いて運んでいく。

人生はそうやって、進んでいく。