わたしたちはどうして、画面の向こうにあるものが永遠だと思ってしまうのだろう。
マントルピースが美しく飾られた部屋で、保護された子猫たちがミィミィよちよちと歩いている。
猫科大型獣保護施設は、ケガが癒えたボブキャットが自然に帰っていくようすを中継している。
猫4匹と暮らす俳優が、猫を片手、ワイン片手にご機嫌にだらだらとしゃべる配信は、たいてい予告もなく始まる。
なかでもお気に入りは、ある牧場の餌やり配信だ。
山羊や羊、アルパカ、豚、鶏、ポニー、赤毛の牛。そして猫、大型犬が暮らす牧場。
夫婦ふたりで切り盛りしているらしいその牧場では、奥さんがよく配信を行っていた。
「朝の牧場!」といった不定期企画もあるが、金曜日はクッキーフライデーと決まっていた。手作りの動物用クッキーを動物たちに振る舞うのだ。
山羊たちはそれが大好きで、我も我もと群がってくる。
「あわてないの!」
とかなんとかたしなめながら、女性が配り歩く。
「ああ、いまあわてて食べているのが山羊の誰それで……」
と、時折、動物たちの説明をまじえながら。
赤毛の牛たちは、決まってクッキーフライデーには我関せずな様子。そして、餌を配り歩く女性の足元には、たいてい猫たちがスリスリと歩いている。
春の芽吹き、夏は「ここも何度になりました、ワオ!」といった気温の話、秋は落ち葉が積もり、やがて雪が降る。
身近な四季とは別に、その風景を見ながら「もうそんな季節かあ」と思ったものだった。
ごくまれに配信主の姿が見えることがあった。灰色の目をクリクリとさせた女性。かなりはっきりとした発音でしゃべってくれるのだが、残念なことにわたしは英語がわからず、9割は何を言っているのかわからなかった。
地球のどこかにある、動物たちとののどかで平和な田舎暮らし。実際は、細やかな世話や体調管理、地域の人との付き合いなど、たいへんなことが山ほどあるはず。それはわかっているけれど、iPhoneの向こうにあるその世界は、どこか現実離れしたユートピアに思えた。
時差の関係で、配信はたいてい日本時間の夜中。仕事で神経が疲れた夜中に見る光溢れる牧場は、ディスプレイの明るさ以上にまぶしく見えたものだった。
……のだが。
最近になって、あの農場の配信を見かけないことに気が付いた。アルゴリズムの変化で表示されづらくなったのかもしれない。
そう考え、検索してホームにたどりついて、異変に気づく。投稿が極端に少ない。その牧場は行事ごとに「クッキーフライデー」などおしゃれなサムネイルを作っていた。最近の投稿には、そういったサムネイルの設定もほとんどない。
開いてみると、動物の姿が少ない牧場を、女性がバケツ片手に歩いていく。いつもなら柵の向こうで待ち受けている山羊や羊がいない。納屋のポーチはガランとして、椅子が1脚だけさみしげに置かれている。備品も生き物も少なくなった牧場で変わらないのは、にゃあにゃあと鳴きながら女性の足にまとわりつく猫ぐらいだった。
「わたしたちの新しいジャーニーをここでチェック」と、別アカウントへのリンクがあったので、タップする。そちらには近況報告があった。
牧場をやっていた夫婦は離婚したこと、クッキーフライデーに無関心だった牛たちは既に別の農場に引き取られたこと、そこはSNSをやっていないこと、引き取れる動物は女性が引き取っているが、ひきつづき次の住処を探している動物もいること。
「わたしたちは合意の上で別れました」「夫への接触は試みないでほしい。それがふたりの願いです」「なぜ? とは聞かないでね。プライバシーを大切してください」「嘘をついていたわけじゃない。リアリティショーだってカットされているところはあるでしょう」
動画形式でテキストが流れていくので追いつけないが、そのようなことが書いてあると思われた。
報告のほかにも、予想される質問への回答も記されていた。牧場のフォロワーは96万人だ。さまざまなコメントやDMが飛んでくるのだろう。
動物ニュースに紹介され、日本でも翻訳記事が出回った、「豚と仲良しの猫」。その猫が行方知れずになっていることも、そこではじめて知った*1。
近況報告の動画のひとつに、農場のシンボル、青い納屋が引きで映っていた。戸口も窓もすべて締められ、人の気配も動物の気配もない。そこに雪がちらついている。
思えば、わたしは納屋の全体像を見たことがなかった。だって、ふだん見ているのは餌やり配信だから。女性の手もとと動物ぐらいしか映らないのだ。
ほかにも女性が自撮りしながら何かを話している動画もあったが、当然、わたしには何を言っているのか理解できなかった。ただ、「新しい始まり」と語りつつも、彼女の表情、そして画像に添えられた文面のはしばしから、疲れと哀しみがにじんでいた。
その疲労と感情に触れたとき、わたしは理解した。
あの農場はなくなってしまった。
ユートピアは永遠ではなかった。
瞳が明るい女性は「いつも明るいアメリカの農場のお姉さん」ではない。
喜怒哀楽の感情があり、山あり谷ありの人生を送る、ひとりの女性だ。
永遠も何も、ユートピアは初めからなかったのだ。
iPhoneのディスプレイを通し、わたしが勝手にユートピアだと思い込んでいただけだ。
わたしにとって、テキスト主体のTwitterやブログは“生”の生々しさを感じる場所。ビジュアルがメインのInstagramは、どこかテレビの向こうを見るような、キラキラを求めて赴く場所だ。
疲れてしみったれた日常を離れ、きれいな別世界をのぞきたいと思って開いている。
海外アカウントを中心に見ているのも、異国の風景が、異国の言葉が、日本とは違うノリが、より非日常を感じさせてくれるからだ。
のどかな牧場の餌やり動画。
牛にやたらなつかれるドイツの農夫。
神秘的な北欧の森を駆ける長毛の猫。
すっきりとしたインテリアのなか、えさ皿をくわえて運ぶシェパード。
ガアガアとうるさいアヒル。
世界中から集めたお気に入りの箱庭。それを小窓からのぞくような気持ちで、わたしはInstagramを眺めている。
でも、それらはけして作り物ではない。血肉の通った人間の、生ぐさい生活。あくまでその一部を切り取っているだけだ。
「ディスプレイの向こうに、人がいることを忘れてはいけません」
Windowsが普及し、ネットを多くの人が使うようになった1990年代末から耳にタコができるぐらい聞いてきたことば。
多種多様な日常を見られるようになったいま、わたしはその意味をもう一度問い直すべきだろう。
だれかに罵詈雑言を投げかけなければいいというものではない。
ディスプレイの向こうには人がいる。その人は生きていて、ときにややこしい人間関係をもっていて、そしてディスプレイの向こうにあるものは永遠ではない。どんなにキラキラと見えたとしても。
わたしはいま、あらためてディスプレイの向こうに人がいたこと、その人生の生々しさに打ちのめされている。
牧場にいた動物たちの今後の安定した生活と、あの女性の新たな人生の幸せを祈っている。
《初夏の庭園のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20190605164post-21318.html》
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