平凡

平凡

行ってない店はつぶれる、使ってないサービスはなくなる、そして。

行ってない店はつぶれる。使ってないサービスはなくなる。

あんまりそういう視点で語られないけれど、選挙や、もっというと民主主義もそんなものじゃないか。

 

むずかしいことを抜きにして、生活のすべてが政治に密着しているのはまちがえがない。

当たり前だと思っていることの多くは、少なくとも「世の中をよくしよう」という建前のもと、国会やら市議会やら区議会やら町議会で決められて、実行されている。

身近なところでは、車で快適に移動できる道路の建設や維持。消費税を設定する、税率を上げる。経済政策を反映した金利は、車やマンションのローンを組むときには重要な要素になる。地方政治の領域であれば、ごみの収集をどうするか。

 

「こうなればいいのになあ」「これっておかしくない」という声を聞いて、わたしたちのかわりに「こういう声があるんですけど」と言ってくれるみんなの代表を選ぶ。理想的には選挙はそういうものだ。

 

みんなの代表になることは、力を持つことでもある。みんなから集めたお金の使い道を決められる。自分のポケットからお金を出して、みんなの代表に特別なお願いをしようとする人も出てくる。

定期的に代表のメンツを入れ替えるのは、そういったことの防止にもつながる。おかしなことをすれば、次の選挙で落とされるかもというプレッシャーが発生するからだ(ある程度は、たぶん)。

いつも政治に関心を持ってあれやこれや言うのは大変だけれど、投票だけでも「ちゃんとやってくださいね。見てますよ」の最低限のメッセージにはなる。お手軽、いま風にいえばコスパがいいと思う。

政治的な話をしたくなければ、投票に行くのがいちばん手っ取り早い。

 

いざ投票しようとして気づくのは、意見が完全に合う候補者はまずいないことだ。「なんでこんなメンツばっかりが立候補しているんだ」と思うこともあるかもしれない。ただ、それが意味するところは、供託金を用意し、年齢を満たせば誰だって立候補できるってこと。学歴も経歴も性別の問わず、「みんなの代表になります!」と手を上げることができるのだ*1。これは民主主義にとって大切なことで、大切なことの裏表として、「投票したいと思える立候補者がいない」事態も発生する。

 

意見が完全に合う人はいないので、「自分がいちばん大切にしていること」「いちばん変えてほしいこと」がまあまあ一致している、あるいはマシな人を選ぶことになる。「何かを変えるために積極的に選ぶ」ばかりが投票ではない。「今のままで別にいい」と思う人は、現職や与党に投票するのもアリだろう。

 

めでたく当選した立候補者がおかしなことをしたとき、「あんなヤツに投票したヤツのせい」と言う人もいるが、そんなものは無視だ。「絶対的に正しい選択」なんてない。だって、完全に意見が合う人すらいないのだから、「完璧な候補者」もいない。そのなかでいちばんマシ、とその時点で思える選択をしているのだ。

「あんなヤツ」に投票した人もしなかった人も、「おかしなこと」が自分にとってもおかしなことがあれば、「おかしい」と意思表示をしてもいいし、そういうのは政治っぽくて嫌だなと思えば、次の選挙では違う人を選べばいい。定期的に選挙があるのだから、意思表示のチャンスはある。

 

「選挙に行ったところで何も変わらない」と言う人もいる。逆に考えてみよう。自分の一票がかならず何かを急激に変えたら怖くないだろうか。そういうことを避けるために選挙がある。ただ、事実としてたまに一票が当落を分けることもある。

「何も変わらない」とボヤくからには何か不満があるはずで、選ぶことを避けていれば、世の中は未来永劫変わらない。でも投票したら、すこしは何か変わるかもしれない。たとえばあなたが投票したのが野党の候補者で、落選してしまったとする。当選したのは与党の現職だ。状態を見ればまさしく「何も変わらない」。それでもたとえば当選者が「圧勝ではなかった」状態になったとすれば、その焦りから政策に影響が出る可能性はある。与党の現職に投票し、その人が当選した場合も、「この世代からも投票されるのか」と思われれば、あなたの世代に有利な政策を提案してくれるかもしれない。

 

「政治のことはわからないから、わたしのような者が投票しても」と言う人もいる。そもそも、政治はそういう人のためにこそあるのではないだろうか。難しいことはわからなくても、最低限の文化的生活をし、そこそこ安全に生きていける。お金がなくてもたいていは医者にかかれる。それはみんなの代表がさまざまな制度を決め、みんなから集めたお金を分配しているからであり、だれかが「政治のことはわからなくても、わからないまま生きていける世の中」にしてくれているのだ。

しかし、未来もそのままであるとはかぎらない。現状維持のために、選挙に行ってはどうだろうか。それに、民主主義のいいところはまだるっこしいかわりに、「一票では急激に世の中は変わらない」ところだ。

 

選挙にみなが行かなくなるとどうなるか。意思表示をしない人が増え、「選び直し」の緊張感がなくなる。そうすると、ひょっとすると「在任期間をもっと長くしよう」と決まりごとを変える人が出るかもしれない。「お金をくれる人の言うことだけ聞こう」と賄賂が横行、低所得者はないがしろにされるかもしれない。

今、もっともホットな人物はそれをやった。在任期間を長くし、権力を行使し続けられるよう、法律を変えた。お金持ちの友達を優遇した。ロシアのプーチン大統領だ。*2

究極は、年齢さえ満たせば誰もが投票できる「普通選挙」がなくなってしまうかもしれない。明治に成立したはじめての選挙法で投票ができたのは、高額納税者の男性だけだ。そういう時代もあったのだから。

 

わたしは日本という国が好きだけれど、不満もある。完璧な国なんてないので当然だ。治安がよく、水道水がそのまま飲めて、停電は「起きない」ことが前提になっているし、低所得者でも医者にかかれる。自己責任論は強いけれど、それでも基本的な福祉は最低限用意されている。言論の自由があって、政府の批判はおろか、悪口を言っても逮捕されることはない。

それらが当たり前ではないことを、わたしは知っている。誰かが意思表示をした結果、声をあげた結果、当たり前になったものがたくさんある。女性であり、高額納税者でもないわたしが投票できるのもそのひとつだ。

いまの良さを維持したまま、できればもっともっとわたしが考える「より良き未来」に進んで行ってほしいと思う。

そのためには、選挙はぜったいになくなってほしくない。まどろっこしくても完璧でなくても、ただの一庶民が、力なき一票しか持たない人間が意思表示をできる選挙は大切なものだ。

わたしの一票は、立候補者に投じるとともに、選挙がある未来にも投じている。

ミャンマーで軍事政権に弾圧された人が「普通に選挙があることのうらやましさ」を口にするとき、モスクワで「戦争反対」と書いたプラカードを持った人が連行されるのを見るとき、それは当たり前ではないのだと強く感じる。

 

「より良き未来」は人により違う。わたしが考える「より良き未来」とは対立する考え方もある。でも、どんな考えの人にも票を投じてほしい。いまのすばらしい「当たり前」を「当たり前」のままにするために。

夏の参議院選挙は、すこしでも投票率が上がってほしい。ひとりでも多くの人に、誰かの名前を書いた票を投じてほしい*3。切に切にそう願って、このエントリーを書いた。

 

画像は《収穫前の首を垂れる程に実った稲穂のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20161112328post-9611.html

稲作は国策と結びつきが深く、また日本のシンボルでもあるので……。

*1:ついでにいえば、立候補の段階では実行力や情熱でふるいにかけられることもありません

*2:ロシアの投票率がどうだったか、普通選挙普通選挙として機能しているのかわかりません。なので、プーチンの現状が「ロシアの有権者のせい」と言うつもりはありません。ここでは「在任期間が長くなると独裁化の可能性が高まる」例として挙げています。民主主義には、なるべく権力の集中を避けるための安全弁がたくさん用意されているもの。そのための一つの方法が投票だと思うのです

*3:わたしが考える選挙の効用は、選ばれることのプレッシャーと意思表示なので、白票には反対なのです。わたしが邪悪な高齢者になり、自分の年代だけを優遇してほしいと考えたら、投票率が低い若い世代には、「白票でいいから選挙に行こう! あなたたちの世代のことを見てもらえるよ」と呼びかけると思います。政治家が見ているのは、直近の選挙の「票田」だけなので、白票は怖くないとわたしは考えています。白票は自分にも敵にも「票田」にはならないからです