小さなころから猫好きだ。
猫グッズや猫の写真がプリントされた文房具やカレンダーを買うことが多かった。
しかし、不満がひとつ。
「もっと自然な猫ちゃんが見たい!」
「子猫ばかりが、名前のある種ばかりが猫ちゃんではない!」
子猫はかわいい。
そりゃなんとか種の猫ちゃんもかわいい。
しかし、いつもいつもふわふわ甘々子猫ちゃんがよちよち遊んでいる姿とか、
スタジオセットでペルシャ猫かスコティッシュフォールドが中空を見つめている姿を求めているわけではないのだ。
繰り返すが、そういった猫ちゃんもそりゃかわいい。
しかし、たまには寝ているだけとか、香箱座りしているだけとか、あるいは丸まって寝ているだけとか、ふてぶてしい顔とか、シャーッと威嚇している猫ちゃん、そんな自然な姿も見たいのだ。
猫種だってもっといろいろフィーチャーしてほしいのだ。
わたしが“ふつう猫”と呼んでいるいわゆる雑種だって、三毛猫サビ猫黒猫、キジシロサバトラキジトラ、いろいろいる。
年齢だって子猫、若猫、猫ざかり、老猫と千差万別の魅力がある。
約20年以上前だと、そんな心のすき間を埋めるのは、せいぜい「猫めくり」はじめ、日めくり系のカレンダーぐらいだった。
思春期のころは小遣いはたいて、「ねこめくり」と海外の輸入ものの日めくりを買い、とくにいいと思った日のものをデスクマットに入れて保存したり、無印良品のノートの表紙に貼り付けたりしていた。
そんな状況が一変したのは、インターネットが普及してから。
まず、ブログが登場した。多くの人が、自分が飼っている猫のなにげない写真を投稿しはじめた。
SNSが普及すると、それはさらに加速した。
毎日、毎時間、自分のうちの何気ない動物の写真を、飼い主さんたちがアップする時代に突入。
いま、人類(動物好き)は、人類史上かつてなかった量の動物写真を目にしているのではないだろうか。
何気ない写真の数々。
しかし、それは動物を飼っていない人間にとっては、「飼っていないからこそ絶対に見ることができないお宝写真」なのだ。
そんなものが全世界で毎分、毎秒投稿されているのである。
動物好きのうれしい悲鳴が聞こえるではないか?
新たにフォローする動物アカウントを探す方法のひとつは、国内外で配信されている動物ニュースだ。
それらはたいていSNSを参照して作られている。
「とてもおもしろい動きをしてバズった猫ちゃんニュース」を開けば、元になったそのアカウントもわかる。
当然、フォロー。
で、その猫ちゃんがたとえば保護された子だったとする。
その保護団体がいい感じだったら、そこもフォローする。
その団体から譲渡された猫ちゃんの里親さんが、SNSアカウントを作る。
そのアカウントもフォローする。
「あらあら、あんなちっちゃかった何々ちゃんがこんなに猫かわいがりされて……!」。
チェックするアカウントはどんどん増えていくのだ。
そんなふうに見つけた猫ちゃんの一匹が、Pennyちゃんだった。
何かの動物ニュースで知ってフォローしたカナダの保護団体。
そこがある日、ふわっふわ長毛のハチワレ猫を保護した。
とてもキュートだが、飼い主から飼育放棄にあったとかなんとか。
8歳以上と目されていたが、獣医に連れて行ったところ、13歳ぐらいではないかと判明。
そんなPennyちゃんの里親が決まり、開設したInstagramのアカウント名は「pennys.retirement」。
英語のニュアンスは正確には汲み取れないが、「楽しい隠居生活を送ろうね」といった里親さんの思いが伝わってくるようだった。
爪の間まで毛がふかふかで人なつこいPennyちゃん。
糖尿病の持病もあるが、よくケアされているのだろう、年齢をまったく感じさせなかった。
そんな彼女が里親さんに溺愛されている姿は、見る者を幸せにしてくれた。
しかしPennyちゃんはこの前、15歳の生をまっとうして亡くなった。
そう、大SNS動物アカウント氾濫時代は、わたしたちが「直接知らない、それでもお隣さんのペットのように親しみを覚えている動物たちの死に多く向き合う」時代でもあるのだ。
そのことにはうすうす、気がついていた。
ブログで一世を風靡した不思議顔のまこが亡くなったときか、大型犬の富士丸は急逝したときか。
「ああ、この子たちも亡くなってしまうのか……。あたりまえだけど、考えたことがなかったな」
おそらく、動物ウォッチャーたちの多くはそういった体験をどこかでしているのではないだろうか。
「死に向き合う」なんて書いたけれど、それは便宜上。
わたしはアカウントを眺めているだけで、ほんとうに向き合うのは飼い主さん家族だけだ。
それでも逝ってしまった存在を哀しみ、悼むことはできる。
そして、画面ごしに毎日見ていた動物たちが逝くその喪失に、慣れることはない。
Pennyちゃんの飼い主さんは、いまもときどき、思い出の動画や画像を上げる。
Pennyちゃんはたしかに生きて、とても愛されていたんだな、とあらためて思う。
いまや世界じゅうに散らばった、“知り合い未満”の動物たち。
快適な環境でかわいがられ、そして彼ら、彼女らとの暮らしを人間たちが楽しんでいるようすを見ると、心が和む。
そう、わたしが動物SNSを追いかけることで得ているのは、しあわせのおすそ分けなのだ。
そして、海外のアカウントを見るときは、「英語ができたら、このしあわせいっぱいの投稿をもっと理解できるのにな」と思うことがある。
だから、「 #もしも英語が使えたら 」のわたしの答えは、「海外の動物SNSアカウントをめっちゃめっちゃ見まくって読みまくりたい!」だ。
とくにTwitterはテキスト主体なのとしゃれた言い回しをする人が多く、理解が難しい。
動物が死んだとき、「虹の橋を渡りました」というのは日本語も英語も共通で、英語圏だと略して「OTRB」と書くこともある。
英語がより理解できたなら、胸が締め付けられることもきっと増えるだろうけれど。
写真は《キャットウォークで爆睡にゃんこのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210843243post-36481.html》