月がさえざえとした夜道で、ふと沈丁花の香りをかいだ。
見まわしても、香りの主は見つからない。
甘い香りが、冬の終わりと春のはじまりを告げている。
季節の移ろいに趣を感じると同時に、その香りはわたしの記憶をかきまぜて、沈殿したものを舞い上がらせる。
思春期のころ、生きるのが息苦しくて、いてもたってもいられなくて、夜中に家を出た。
当時暮らしていた古いアパートの扉をそっと開けて、静まり返ってドラマのセットのような住宅街を歩く。
行くあてはないし、夜道は怖い。
日常とは異なる行動をしたからといって、気持ちは癒されるものではない。
泣き腫らした目に、空気が冷たかった。
それでも煌々と照る月は美しく、冬の名残の清冽な空気のなか、星が明るかった。
遠い遠い星の輝きを頼りに歩くなか、ただよってきた甘い香りに顔を上げると、民家の塀から沈丁花が顔を出していた。
ちいさな星形の花々に鼻を寄せる。
日常とは異なる行動は、けっして本質的に心を癒してくれはしない。
それでもその香りの甘さ、清らかさに、わたしの心は凪いだ。
そのころのわたしは、たびたび夜、出歩くようになっていた。
もうすこし常識的な時間であれば、コンビニへ。そこで立ち読みして、また重い足取りで家へと帰る。
もっとうんとちいさかったころ。
「さみしいと」「子どもがグレる、夜遊びをする」といった言説の意味が、わたしにはわからなかった。
そのふたつに、どういった関連があるのだろう。
でも、思春期になってはじめてわかった。
家にいたくないのだ。夜になるとさみしさやむなしさが募るのだ。それらが子どもを外へ向かわせるのだ。
同時に、自分の想像力のなさを思い知った。そんな単純なことですら、自身がそうなるまで理解できなかった。
わたしが夜道で出会ったのは、せいぜい沈丁花ぐらいのもの。
でも、別のものに出会っていたら――。
いま、ここにこうしていられたかはわからない。
それから何十年も経って。わたしはある事件の報道に釘づけになった。
とある地方都市で、花火大会の夜に女の子が殺された。
友達と遊んで、夜道を歩いて帰って、途中までは家にいるお姉さんにメッセージを送って、でも、その女の子は家に帰ってこなかった。
「このあたり、かなり暗いですねえ」
ニュース番組では、レポーターが、夜、女の子がいなくなった現地の道を歩いている。
わたしはその暗さを知っていた。
地方都市の住宅街の、夜道の暗さ。
沈丁花に出会い、コンビニの明りを求め歩いた、あの道の暗さ。
夜道は怖かった。心細かった。でも、歩かざるをえなかった。
夜道が危ないなんて、わたしたちはみんな知っている。
無力な子どもであればなおさらだ。
それでも、いろんな理由でわたしたちは夜道を歩く。
ある子どもは家庭に居場所がなくて。ある子どもは年に一回の花火大会が楽しすぎて。
それを誰が咎められるだろう。
わたしは運よく生き残り、報道を見ている。
その女の子は殺された。
彼女とわたしをへだてるものは何もない。
沈丁花の甘い香りをかぐたび、春待つ心は躍るけれど――。
同時に、願わずにいられない。
夜をゆく子どもたちに、どうか安全が、何者かの加護がありますように。
不届きものの目から逃れられますように。
今週のお題「あまい」
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文中で触れた事件の、ご遺族についての記事。「被害者」「被害者遺族」になったときに何が起こるかの一端が書かれています。とてもつらい。
15歳の娘は命を奪われ「屍」と呼ばれた “娘のために闘う” 父親の思い|NHK事件記者取材note
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画像は写真ACよりお借りしました。