平凡

平凡

「見て」から書くか、書きながら「見る」か

ブログを書くとき。

ツイートするとき。

インスタにコメントを添えて投稿するとき。

何か「描写」する場合、何を頭に浮かべて、どうやって書いていますか?

単純に説明すると、「そのときのことを思い出して、写真を見て、テキストにしているよ」となるのではないでしょうか。

むむ。当たり前すぎる。

とはいえ、この当たり前の「そのときのことを思い出して」「テキストにする」にも、いろいろあるよね~というお話です。

 

 

こんにちは。平凡と申します。紙媒体中心にライターをしております。

風が涼しい日も、パソコン前にすわるとじっとり湿度を感じるのはなぜ……と思いながら今日もキーボードを打っております。

 

10年ぐらい前。

当時通っていたカウンセリングで、こんなことを言われました。

「平凡さんは、“ビジュアル記憶”ではなく、“雰囲気記憶”が強いタイプなのね」

話の流れとしては、真剣なカウンセリングというよりも雑談寄り。細部のことばはこのとおりではないかもしれません。

 

ようするに、何かを見たとき、「(自分が感じた)雰囲気は覚えているけど、細部のビジュアルはあまり覚えてないタイプ」ということです。

この区分けで行くと、その反対として「細部のビジュアルは覚えているけれど、(主観的な)雰囲気はあまり覚えていないタイプ」があることになります。

果たしてそのような認知のタイプがあるのかないのか?

そんなタイプ分けにエビデンスがあるのかどうかはわかりません。

ただ、わたしにとってはこれは非常に「そのとおりだな~」と思った内容で、かつ、その後の人生、とくに仕事で役に立った内容でした。

 

たとえば、あるカフェに取材で行ったとき、「あ~めっちゃ居心地いい~」と思ったとします。居心地いいにもいろいろあるわけで、これはどういう種類なんだろう、と考えます。

「これはあれだな、たとえるならお気に入りの毛布に包まれているような! あったか~! ほおずりしたい、ずっとくるまっていたい!」

と思ったら、「お気に入りの毛布! あったかくるまり!」とかメモをしておきます。

次に「なぜそう感じたか」を探します。

それは店員さんの接客かもしれないし、おそろいで身に着けているオリジナルエプロンがステッチを強調した手作り風だからかもしれない。

アンティークというより、使い込まれ感が際立つ古道具系のテーブルがそう思わせるのかもしれない。

テーブルに飾られたちいさな花瓶がやちむんであることが、挿されているのがなずなであることが、そんな安心感を醸しだすのかもしれない。

 

というように。

カウンセラーに「雰囲気記憶が強いタイプ」と言われてから、雰囲気を味わい、直感的に感じたことをメモし、その理由を探すという順序を意識するようになりました。

 

仕事の原稿は客観に軸を置いて書かなければならないので、だいたい「雰囲気を構成するもの」と雰囲気を併記していくことになります。

 

たとえば……。

(例)

「常連さんからは、実家に帰ってきたような安心感があるといわれるんです」と笑うのは、「カフェお茶の間」の店主・鈴木花子さん。あえて昭和の建築を残したという木製の玄関扉を開けると、古道具の机が並び(以下略、インテリアの描写続く)。ぬくもりのある落ち着いた雰囲気のなか、おばんざいが楽しめる。

 

昭和古民家おばんざいカフェの描写になってしまいましたが、お店の方のコメントを拾えたらこんな順番で書きます。

「毛布みたい!」といった癖が強い表現を入れると、読み手をとまどわせてしまうので、そこは調整して、ここではお店の方のことばに。

わたしがやっているような仕事では陳腐な言い回しは忌避されないので、雰囲気を構成するものについて書いた後、「ぬくもりのある落ち着いた雰囲気」とまとめます。

 

取材中はいろいろと聞くことがあってバタバタするので、雰囲気を構成するものについては、家に帰ってからスマートフォンで自分用に撮影した写真を見たり、カメラマンさんが撮影した画像をチェックしたりして考えることもあります。

たぶんこれ、ビジュアル記憶が強い人なら不要な過程なんじゃないでしょうか。

 

ひさしぶりに“雰囲気記憶”と“ビジュアル記憶”のことを思い出したのは、小説を書いている方のブログをいくつか読んだからでした。

複数のブログで、「見えているシーンはあるけど、それを描写するのが難しい」といった内容が出てきたんですね。

「そうか。みんなけっこう理想のシーンが見えてるんだな……」と思ったのです。

もちろん自分自身、小説を書いているからには、「書きたいシーン」「見えている(浮かんだ)もの」はあるていどあります。

が、わたしの場合、書けば書くほど感じるのは、「わたしの視界、ぼやけすぎでは⁉」ってことなんです。

「こう、ぐーっとぐぉーっと盛り上がって、人生! みたいな。ふたりは手を取り合う、あと花が咲いている」みたいな感じのことを、いつも文章にしています。

そのためには、「そうするためには何が配置されていたらいいか?」とか、「物理的な描写が少なすぎるよね? 背景には何があって、登場人物はどんな姿してるの、いったい?」とか、「目をこらす」過程が必要です。

この「そもそも見えていないのではないか」「書きたい雰囲気を構成するために、逆算して具体的なモノを配置していく」発想は、ライター仕事をやっていたから気づいたことかもしれません。

 

ついでにいうと、わたし、夜に見る夢もぼんやりしています。

夢に出てきた友人の髪形を「超かっこいい! パンキッシュ!」と思ったことを覚えているのですが、起きてみるとどんな髪形か何一つ思い出せない。

「記憶していないのではなく、そもそも具体的な形がなかったのでは?」疑惑がぬぐえません。

当然のことながら、わたしはひとの顔を覚えるのが苦手です。

言語化できない雰囲気、印象」「(どこに住んでいるかなど)文字化できて雰囲気と結びつきやすい周辺情報」は比較的思い出せるのですが、そういったふわわんとした情報は、“二度目まして”での識別にはあまり役に立ちません。

 

書いていて、「わたしは単にビジュアル記憶が弱いだけなのでは……」という気もしないでもないですが、そこは目をつぶって……いや、なるべく目をかっぴろげることでカバーしていこうと思います!

 

この話、とくにオチはありません。

「書く」を語るときって、どうしても語彙力とか表現力の話になってしまいます。

もちろんそれも大切です。

ただ、それ以前にどんな文章にも「書くための材料収集」過程があります。

それは写真をアップするついでにフリック入力で書いた87文字のツイートであっても、雰囲気重視のお店の紹介(600字)であっても、自分の頭の中でイメージを作り上げて出力した1万字の小説であっても。

その材料収集の過程はあまりにも人それぞれで、言語化される機会が少ないもの。

そして、材料収集で大きなウェイトを占めるのが、視覚情報。

これもまた、「その人がどう世界を見ているか」は、当人以外にわからない世界であり、言語化されることが少ないように思います。

 

そこで、「視界ぼんやりさん」であるところのわたしのケースを書いてみたというわけです。

できれば皆さんが何をどう見て、どう出力しているか。

多くのケースを知りたいな、などと願いを込めつつ記事を締めくくります。

 

画像は《列をなす光(丸ボケ)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20191221343post-24671.html

わたしのビジュアル記憶はたぶんこんな感じなのではないでしょうか……。