平凡

平凡

「妄想を書いちゃいけない」なんて、ない

世界には、「お話っぽいものを妄想する人」と、「妄想しない人」がいるらしい。

わたしは前者、「妄想する人」だ。

このブログの読者の方には、前者が多いのではないかと思う。

今日は楽しいはずのその妄想が、脳のリソースを圧迫していたことに気づいたって話。

 

 

F太さんという方が、こんなツイートをしていた。

 

「世界」というほどたいしたものではないけれど、ずっと妄想はしている。

小学校低学年ぐらいのころにはしていたんじゃないかと思う。

「世界」みたいなものは、複数ある。

きっかけは覚えていないし、それぞれがどこから来たのかよくわからない。

どの妄想も、キャラクターがいて、繰り返し想像するシチュエーションがいくつかある。

好きな味の飴玉を取り出しては、何回もしゃぶる、みたいな。

アニメや漫画、小説で見た好みのシチュエーションを、自分の中で再構築して、前後のつながりなく繰り返し再生している感じなのかな……と思っている。

実際そうなのかはわからないけれど、説明としてはそれが筋が通っている。

 

「世界」は、わたしが小説を書くより早く存在していた……と思う。

 

ここで歯切れが悪くなるのは、自分の中では妄想は2ラインにはっきりわかれていたからだ。

 

それは、「書く前提じゃない遊び場妄想」と、「書くことを前提とした妄想」。

「遊び場妄想」は長期的に自分の中にあって、基本は同じシーンの繰り返し。ごくまれに新しい展開が生まれる。

「書くことを前提にした妄想」は、単発タイプだ。音楽を聞いた、いまひらめいた、課題が出たので考えていたらポッと出た。ラノベっぽいものもあれば、文学の香りがする日常系もある。

 

小説を書いた一番古い記憶は小学四年生ぐらい。それはもちろん後者をもとにしていた。

「書くことを前提にした妄想」をするようになったのと、「書く」がどっちが早かった? と聞かれたら、ちょっとよくわからない。

「書くことを前提としない遊び場妄想」は、間違えなく「書く」より先だ。

 

「書くことを前提としない遊び場妄想」が、なぜ書くことを前提にしなかったのか、それもよくわからない。

「これは書かないやつ」と、いつの間にかカテゴライズしていた。

こっ恥ずかしさもあったのかもしれないが、もっと大きなストッパーがあったように思う。

 

ところが、ここ三年、その「遊び場妄想」をもとにした物語を書くようになった。

コロナ禍にあって仕事量が減ったとき、いくつか新たな妄想が浮かび、わたしはそれを書こうとしていた。

うんうん考えるが、物語はいっこうに進まない。

そのとき、突然、「この登場人物たちは、『遊び場妄想』に出てくる人たちに似ていないか?」と気がついた。

「遊び場妄想」はすごくシンプルで、枝葉がない。

たとえるなら、「かっこいい人物が屋根にのぼって悪者をやっつけるのだ、ヤー! どうやってか知らんがかっこいい人物はかっこよく跳ぶ! 背景には満月、ドーン!」ぐらいのざっくり感だ。

 

それが、「書く前提の妄想」と合流したとき、急速に血肉をつけた。

この人たちには、こういうことがあったのではないか。こういうことをするのではないか。長年妄想していたシーンとシーンの間に、はじめてつながりが生まれた。

そしてそして、こうなっていくのではないか……と、妄想の「先」が生まれたのもはじめてだった。

原始のスープのようだった遊び場は消え、輪郭のある世界になった。

 

そうしたら、不思議とすごくラクになった。

 

そのときはじめて気がついた。

「妄想は楽しい」と思っていたけれど、出口のない空想を自分の中に抱えているのは、苦しかった。

「繰り返し同じシーンを楽しんでいる」と思っていたけれど、実はどこかに突破口を探していたのではないか。

出口のない妄想は、ずっとずっと、頭のどこかを常に圧迫していた。

外に出すことではじめて、想像力が羽ばたくこともある。

空想が先に進むのは、なんて楽しいことなんだろう。

 

あいかわらず妄想はするけれど、いまのわたしには「遊び場」はもうない。

「これは書いちゃダメ」「これは書く」と区別をつけなくなったし、思いついたらすぐにアウトプットするようになったからだ。

しいていえば、今はメモをするEvernoteや、作品を投稿するWebサイトが「遊び場」になっている。

とはいえ、日常的にやっていることといえば、思いついたらすぐにそのシーンをメモるだけ。上手く書けないことがほとんどだ。

それでも、「とにかく出す」ようになってから、妄想は「閉じられた、行き場のない遊び場」にはならなくなった。

どんどん開いて広げていくことが可能な、「拡張式箱庭」に変貌した。

同時に、いままでだったら「書く前提の妄想」にカテゴライズしていただろうな、というものも、腐らせなくなった。

「書く前提」とはいえ、いままでは頭の中に放置しっぱなしなことも多かったのだ。

 

人生で、いま、頭の中がいちばんクリアになっている。

「わたしの中の妄想を、わたしは物語として駆動していける」という(根拠なき)自信がある。

上手く書けるかどうかは別だ。人におもしろいと思ってもらえるかも別だ。

アウトプットしたからこその苦しみ、悩みもある。

それでも、書いたほうが楽しい。書いたほうが広がる。

 

これはごく個人的な話だ。

あんたの頭の中の妄想が何ラインになっていようが知ったこっちゃねえ、と思われることもあるだろう。

でも、人の頭の中のことってよくわからない。

わたしは人類がみな、物語があってキャラクターがいるタイプの妄想をすると思っていたけど、そうじゃないケースもあるみたい。

だから、だれかのごく個人的な話にだれかが共鳴することもあるはずだ。

それが自由に書けて、誰でも見ることができるインターネットの良さだ。

そう思って、いま、わたしはこのエントリーを書いた。

「妄想を書いちゃいけない」なんて、ない。

「書いていい妄想だけを書かなきゃいけない」なんて、ない。

想像だけしているよりも、たとえ不完全でも作ってみるほうが楽しいこともある。

何かを作ってみることで、人生が進んでいくこともあるのだ。

 

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写真は写真ACよりお借りしました。

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