ぶっちゃけ自分の文章を書きたいと思っている。
それでどうなりたいのかわからない。
仕事なのか、趣味なのか、半アマチュア、半プロなのか。
数少なくていいから、だれかの心にふれるものを書きたい、とは思っていることはたしか。
「数少ない」というのは言葉のアヤだ。
想定する「数少ない」は、いまのわたしの立場から言うなら「かなりの読者数」となる。
うまくないことも、浅いことも、自覚している。
うまく引き出せないのもたしかだけれど、内部に蓄積しているものもたいした量ではない。
卑下ではなく、この年になるとそういうことは「見える」。
カクヨムで小説を書いている。
自分の小説は愛しているけれど、いま書いているものに対し、「なんでこんなに読まれないんだろう」と思ったことは正直、一度もない。
最大限読んでもらえていると思う。
これが実力なのもわかる。
20万字100話超で、総PVは4000ちょい、読者約30人、評価も約30。
更新するとコンスタントに10~15PV。
これは90話あたりから変わらない。
ひとから見たら、「なんでそれでつづけてんの!?」と思われる数字だと思う。
それでも、わたしにとっては分不相応に読んでもらっている感触がある。
ライター仕事は好きなので、ぜったいに辞めたくない。
この生業への感情は、「自分の文章を書きたい欲」とは別個に、独立して存在している。
逆もまたしかりで、生業がどうあれ、「自分の文章を書きたい欲」「それを他人に届けたい欲」は厳然として存在する。
自分の文章、書いてるじゃん。いまも。ここで。カクヨムで。
それでいいと割り切れないのだから、「何か」になりたいんだろうとは思う。
それなのに、毎日書くことは習慣にはなっても、何が書けるのかわからない。
でも胸にうずまく書きたいことと、書きたい欲と、届けたい欲はある。
だから毎日なにかを書く。
だまってやっとけよ、という話なのであるけれど、やっぱり「自分の実力を見つめつつ、何かを望む」のは精神的にしんどい。
仕事もあって肉体的にきつい。
それでもやりつづけたい、やりつづけてしまう。
自分が注いだと思っている労力に対し、見返りというものは常に釣り合わないものだ。
それでもここ二年ぐらい、いろいろ書いてみてわかったこともある。
才能はない。それでもやめられない。
でも、何かをもっと上手く引き出せないまま死ぬのはいやだと思っている。
浅薄は浅薄なりに、まだ引き出せていないものを引っ張り出したい。
創作に関しては、キツい展開を容赦なく入れたとき、または負の感情を思い切り注げたときに、他人からの反応がある。
たぶん、それが自分の数少ない持ち味だ。
これからは、それをたっぷり盛るための手法を考えたほうがいい。
ハートフル路線は紋切型になる。
小説の書き方本は役に立つが、実作への反映は難しい。
反映できるようになるために、まず、手を動かしつづけないといけない。
調べものをして物語を書くのは楽しいけれど、内容に反映するのはかなり難易度が高い。
自分には、ライターとして体験したことを他人に伝えて、残しておきたい気持ちがある。意外と。
世間からはみ出た人にあきらめてほしくない。そういう気持ちで文章を書くことがある。
ああ、蒸し暑い。
今夜は小説をもうすこし書きたいけど時間がない。
書きたい。
もっと読みたい。
調べたい。
胸のなかにあるこの妄想も、感情も、ぜんぶ書けたらいいのに。
ぜんぶ書いたうえで、ひとに伝えたいものだけ残してブラッシュアップしたい。
書いて、書いて、書いて、削りたい、削りたい、削りたい。
吐き出すだけ吐き出す練習をしたら、もっと組み立てながら書く練習もしたい。
わたしにはわからない。
人生のいろんなことがわからない。
自分の文章を書いて、それがひとに響くのがどんな瞬間かわからない。
何もわからない。
でも、わかりたい。
なんだかそれだけ。
疲れるけれど、それだけ。