ちょっと前まで、私の世界には、薄く何枚もレイヤーがかかっていた。
現実をうっすらと覆うように、空想上の世界がいくつか広がり、
それぞれの登場人物たちが泣き、笑い、戦い、動き回っていた。
というと、何かクリエイティブなようだが、
それはメロドラマ的だったり、ライトノベル的だったりする世界で、
シーンも限定的なものだった。
ただ、現実で見聞きした音楽や美術、私自身の感情に刺激され、
新たな話の展開を見せてくれることもあった。
アウトプットするつもりもない、私だけの世界。
長らく、それはあることが当たり前すぎて、
存在がある、とすら思っていなかった。
何年か前、自分が、同じような世界を、もう30年近く楽しんでいることに気がついた。
このまま年老いて耄碌したら、空想と現実を混同して口に出してしまうのではないか、と恐れるようになった。
ホームヘルパーに、「花京院さん、邪眼の調子はいかがですか」などと話しかけたら、
目も当てられない。
そして夫と結婚した。
人生のパートナーと出会ったことで、私の人生は、
地に足がついたものになった。
保険、年収、子どもは、住まいはどうするか。
週末の洗濯や掃除の分担。
現実としか言いようのないことについて、
我々は日々、語り合う。計画する。
私は長い間、自分自身が社会とコミットできていないことに、コンプレックスがあった。
自営業者になったのも、結局は、会社に馴染めなかったからだ。
社会から5ミリ浮いたような人生に居心地の悪さがあり、
大地をしっかりと踏みしめて歩いていくような、
そんな平凡な生活に、未来に憧れていた。
私は夢のスタートラインに立ったのだ。
それはとてつもてなく、幸せなことだった。
私の人生で、現実が今までになく輝き、力を持ち始めた。
それは真夏の白昼のように、まぶしかった。
明るく、視界が白むなかで、
私は次第に、空想の世界を見ることができなくなっていった。
空想の世界のことは、よいとも悪いとも思っていない。
さみしいから、現実にコミットできないから生み出したつもりもない。
ただ、物心ついたときから、私の世界をふんわりと覆っていた、それだけだ。
空想が遠のいてはじめて、今まで、私の内面は、
ずいぶんざわめきに満ちていたのだと知った。
登場人物たちの声、動き。
何よりも、現実とは違う世界の存在そのものが、
ざわざわと気配を発していた。
空想の世界が遠のいて、直接、困ることはない。
他方で、うれしくもない。
もちろん、不幸であるとも思わない。
ただただ、空想のレイヤーが外れ、
現実だけがしっかり、くっきりと目の前にある人生の静けさに、戸惑っている。
私は5歳児がお気に入りの毛布をしがむのをやめるように、
慣れ親しんだ空想から、やっと❝卒業❞したのだろうか。
自分自身では、どうしてもそうは思えないのだが。
この世界が、こんなにも静かだったなんて。
いつかはこの清潔な静かさに慣れるのだろうか。
明るさに目がくらむことなく、
身体をシャンとして、どこかへ歩いていけるのだろうか。
人生で思いがけなく訪れた幸せ。
そのエアポケットで、私は何も、見えないでいる。