平凡

平凡

三月の夕日

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「時間は一方向に進んでいて、不可逆なものである」。

当たり前すぎるほど当たり前のことが、理解できていなかった。

それほどに、若いというより幼かった。

 

「もう、この夕日も見られへんのやなあ」

自転車を止めて、兄が言った。

兄とわたしの視線の先、

田んぼのずっと向こうにある山の端に、大きな夕陽が沈もうとしていた。

空がだいだい色に染まると山は青く見え、

夜が近づくにつれて黒くなり、闇に沈んでいく。

それはいつ見ても、郷愁を誘われる風景だった。

わたしはそのとき、まだ故郷を離れたことはなかったけれど。

 

兄はその春、県外の大学に進学することになっていた。

最後の春休み、進学の準備をぬって、兄と妹で、自転車に乗って遊びまわっていた。

というか、長期の休みはたいていそうだった。

実家は荒れ気味で、なるべく家にいたくなかったのだ。

兄妹の現実逃避場所はたいていゲーセンだった。

お気に入りは、ママチャリで家から30分ほどにある、ロードサイドの大きなセガワールド

住宅街を抜け、川を渡り、田んぼをつっきって遊びに行き、

疲れると田んぼの真ん中にある、

ジブリ映画に出てきそうな神社の境内に腰かけて、

ぼんやりアイスや駄菓子を食べた。

暗くなるころに、しぶしぶ家に帰った。

 

そうやって過ごした春休みもあとわずかというある日、

兄は冒頭のことばを口にした。

 

――お兄ちゃんは大学に行くから、ノスタルジックになっとるんやな。

 

わたしは口には出さなかったものの、そう思った。

故郷を出て、ひとり暮らしすることへのうらやましさのほうが、

先に立っていたのかもしれない。

落ち着かないけれど、毎日帰らなければならない家も、

地方都市のかわり映えのしない風景も、何もかもが息苦しかったから。

 

――こんな夕日なんて、その気になれば、いっくらでも見れるやろ。

 

田んぼの向こうに沈んでいく、大きな大きな夕日。

春だけに見られるこの景色が懐かしければ、

一年に一回、数時間でも故郷に帰ってきて見ればいいい。

それぐらいなら、大きくなっても時間の都合がつけられるはずだ。

そういう「約束」みたいなものもおもしろそうだし。

 

兄は大学へ進学し、その3年後、わたしも進学のため、故郷を離れた。

長期休みのたびに帰省したけれど、兄とわたしは昔ほど頻繁には遊ばなかった。

わたしは部活が忙しかった。

やがて兄が車の運転をするようになると、

ふたりで自転車を走らせることもなくなった。

セガワールドへ行く途中の田んぼはいくつかなくなって、住宅地になった。

世界は変わっていく。

 

大学を卒業して、就職をして、兄もわたしも故郷へは帰らなかった。

兄は何回か転勤をした。

わたしは18歳で東京に出て、

故郷よりもこちらで暮らした年月のほうが長くなった。

帰省頻度は、年々落ちていく。

 

春分近くなると、日が落ちるのが遅くなり、夕焼けはどんどん長くなる。

東京では、山は見えない。

高いビル、あるいは住宅街の向こうへ、太陽は沈んでいく。

それを眺めながら、あの田んぼで見た夕日と、兄のことばを思い出す。

兄は知っていたのだろう。

これから暮らしが、人生の方向が、大きく変わることを。

 

当時のわたしは、わかっていなかった。

わかっていなかったのは、

「大人になると、小さな感傷に合わせて都合をつけることが難しい」とか、

そういうことではなくて。

いや、その難しさも理解していなかったのだけれど――。

何より、あの夕日は一回限りのものだとわかっていなかった。

 

毎日息が詰まりそうで、現実逃避が必要で、自転車しか移動手段がなくて、

兄は故郷を離れる直前で、田んぼの向こうに夕日が見える風景が存在する。

そんな「あの日」は、過去にも未来にも存在しない。

そもそも、そんな「あの日」を挙げずとも、

今日、わたしが東京で見た夕日は、明日見る夕日とは別なのだ。

たとえ、今日も明日も、東京でかわり映えしない毎日を送っていたとしても。

なぜなら、人生は、時間は一方向に進んでおり、巻き戻ることはないのだから。

 

あのころのわたしにそう言ったら、鼻にしわよせて

「そんなこと知っとる。時間は戻らへん」と反論するだろう。

わかっていなかったから。

若いというより、幼かったから。

でも、事実として知っていることと、ほんとうにわかっていることは、別なのだ。

 

何かが終わり、新しいことが始まるこの季節。

心がざわざわするのは、何かのピリオドが打たれることにより、

人生が一方向に進んでいることを、まざまざと感じるからだろう。

今年もその季節がやってきた。

あの日の夕日はずいぶんと遠くなり、どんどんかすんでいる。

人生は進む。

 

今週のお題「祝日なのに……」

祝日というより、春分の日に寄せて。