平凡

平凡

命の引き潮のなかで、砂浜からうつくしい貝殻が姿を現すように

生きることは変化することだ。老いていくなかで、多くの変化は「失うこと」につながっていくけれど――。命の引き潮のなかで、砂浜からうつくしい貝殻が姿を現すような出来事もある。

 

学生時代、歴史が苦手だった。それはいまも変わらない。大局的な歴史にはどうしても興味が持てない。

ただ、憧れはある。人類の歩みや、傑物たちの活躍、国の成り立ち。教養としても知っておきたいことがたくさんあるのだ。何度か興味を持とうとしたけれど無理だった。

たとえば日本史の授業なら、「足軽は何を思って死んでいったのか」「戦が起きると、その地の庶民はどうなったのか」が気になった。それを気にしているうちにも、黒板の上で勢力地図が入れ替わっていった。あわててなんとかの合戦についての説明を読むけれど、その内容は頭をすりぬけていった。

 

時代がいきなり飛ぶが、大人になって漫画『キングダム』を読んだとき。

新鮮だったのは、序盤は主人公が一雑兵からスタートすることだ。合戦のなか、将軍のもとで雑兵がわらわらと戦い、命を落としていく。それをまず、将軍ではなく雑兵の視点から体験できる。そのことに興奮した。それは、「何々の戦い」と聞いたときに、わたしが一番知りたかったことだった。というか、それを知りたかったこと自体に『キングダム』を読んではじめて気がついた。

もちろん『キングダム』に描かれているのは史実そのものではないし、庶民の感覚や感情は、現実には異なるものだった可能性が高い。それでも馬にも乗れない一兵士の視点から物語が描かれていると、がぜん興味が高まるのだった。

 

いま、人生ではじめて大河ドラマを見続けているモチベーションも、『キングダム』に近い部分がある。

『鎌倉殿の13人』の主人公は北条義時であり、物語はあくまで歴史に名を残す人物が中心だ。雑兵や庶民の思い、生活が描かれているわけではない。それでも徹底しているのが、「戦は勇壮なものではなく、血なまぐさいものである」という視点だ。そのため、歴史上の偉人もまた、斬られれば血を流し、すんでのところで生死がわかれる人間なのだと感じることができる。

脚本や演出、役者陣の演技の巧みさに大きな魅力があるのは当然のこと。しかし、それだけではわたしのようなミクロの視点しか持たない者は、歴史物語を見つづけられない。“偉人たちの肉体”を感じられる点が重要なのだ。

 

そしていま、調べものをしている。何に関してかというと、イギリス・ヴィクトリア朝期の庶民の生活についてだ。このあたりは文献も文学作品も多く、この時代を舞台にした映像作品もたくさんある。調べがいもあるが、そのぶん愛好者も多く、いいかげんなことを書くとつっこまれること請け合いの時代でもある。

ヴィクトリア朝について調べているのは、それ風の世界を舞台にした物語を書いているからだ。わたしは世界観や設定を考えるのが苦手なので、それ風の世界を……という消極的な理由で選んだ手法だ。

ちなみにこういった理由で“それ風の世界”を設定することは、創作界では「あかんヤツ」に分類されるている。「あかん」とされる理由は、「想像力もない奴が中途半端にラクしようと思ってその方法を選び、結局、中途半端な世界観になる」からだと思う。やってみるとそれは真理だとわかる。調べものを反映するのはとても難しいし、元々その時代を愛していないと穴がボコボコできる。やるなら腹を据えて“それ風”ではなく、その時代を舞台にせよ、ということなのだろう。

 

それでも、これがとても楽しいのだ。産業革命時の激烈に不潔な環境のなか、我が主人公たちはどこに住み、何を食べ、どうやって生きているんだろう。テラスハウスに憧れつつも労働者向けのフラットに住んで、朝は砂糖たっぷりの紅茶(ただし使い古しの茶葉で淹れる)でカロリーをとり、牛脂などで揚げた初期のフィッシュ・アンド・チップスを食べているのか。

調べものをしていて印象的だった内容がある。「料理のなかでも『焼く』はあるていど富めるものが選べる料理法でした。なぜなら短時間に強い火を起こせるだけの燃料、設備が必要だから。一方、『煮る』は長時間ほうっておけばよく、暖炉などでついでにできるので貧者もとりやすい調理法でした」。「焼く」が富めるものの調理法なんて、考えたことがなかった。他の文献にも「調理には石炭代がかかるので、食事は買った方が安上がりだった」とある。

時代風俗について、建物について、食べ物について。意外な書物に意外なヒントが見つかることもある。何かを調べるつど、空想の輪郭がはっきりとしていく。

時代背景にあわせ、物語の筋を変えることもある。たとえば、主人公たちが料理を楽しむ……というシーンは、前述の資料を読んで変えざるを得なくなった。それが残念かというとそうではない。事実に縛られるほどに、より彼らの存在感に肉付きがましていく。それはそれで楽しい。

もし彼らが同時代の日本にやってきたら……? そう考えると、国内の旧所名跡に行っても興味の持ち方が変わってくる。この場所は明治時代にはどんな扱いで、どんな状態だったんだろう。この旧所名跡の歴史や由来を聞いて、どう思うだろう。

この年になってイタいのは承知だけれど、ものを調べる、ものを知ることの喜びをひとつ広げてくれたのであった。

 

『キングダム』から創作まででわかったことは、要するに――。わたしが興味をもてるのは、庶民の生活史と一個人の視点だけなのだった。

 

最近考えるのは、学生のころ、もっと生活史の本を読めばよかったということだ。もしくは、何か歴史に関する新書を。たとえば最近読んだ『物語 ウクライナの歴史』の冒頭には、スキタイ人の話が出てくる。詳細に描かれているわけではないけれど、遺物や文献から推測できる当時の彼らの生活の一端が描かれている。「スキタイ人が現れ……」と世界史の授業で習ったとき、それらを知っていれば、もうすこし印象は違ったかもしれず、授業内容はもうすこし頭にとどまってくれたかもしれない。

 

受験勉強にはもはや役には立たないけれど、歴史に対する自分なりの興味の芽生えは、心に明るいものをともしてくれた。「生涯、興味がもてないままだろう」と思っていた対象に、ふとした瞬間に照準が合う。「わかる」「得意になる」わけではないけれど、自分なりの興味の持ち方がわかる。こんなことがあるなんて。

変化のなかでも、年齢を重ねることをあまりポジティブにとらえられないわたしだけれど、こういったことがあると、「前向きに生きてみようか」とすこしだけ思えるのであった。

人生には時間制限があることも多いけれど、知的好奇心にまつわることは、待っていてくれることもある。

 

学生時代苦手だったこと、興味を持とうとがんばったけれど難しかったことはたくさんある。たとえば、数学。学生時代はよい先生に恵まれ、なんとか落ちこぼれのわたしを引き上げようと補習も組んでくれたけれど、どうしてもついていけなかった。最近になって、中学数学やり直し、のような書籍を読んだこともあるけれど、いまひとつよくわからない。

 

数学にも、いずれは何か意外なとっかかりで興味を持ち直したり、「ここがわからなかったんだ」とわかる日がくるかもしれない。……こないかもしれないが、可能性が「ある」ことが与えてくれるほの明るさが、たしかにある。

 

信じるでもなく、期待するでもなく、ただ可能性が「ある」ことをはっきりと胸に刻んで、砂浜を歩く。いつかどこかで貝殻が見つかるかもしれない。あるいは角が取れ、宝石になったガラスのかけらが。若さ、記憶、体力。さまざまなものが波にさらわれポサポサと抜け落ちつづけていく人生のなかで、それはそうそう悪いことではなさそうだ。

 

写真は《砂浜に落ちていた貝殻のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20200151006post-25111.html