「あの木って桜なんじゃない?」
この部屋に越したとき、そんな会話をかわした。ベランダがちょっとした緑地に面していて、そこには何本か木が植わっていたからだ。
それは一昨年の10月のことで、木々からは黄変した葉がはらりはらりと落ちていた。
やがて冬がやってきて、年が明けてから東京にも雪が降り、裸の枝をしならせた。
日ざしが暖かくなると、枝の先端にふくらみが目立つようになった。
つぼみがほころんで、ひとつひとつ淡い色の花が咲きはじめる。
ベランダから見える木々は、予想通り桜だったのだ。
我々夫婦はキャンプ用のチェアと踏み台をベランダに出してそれぞれ腰かけ、コーヒーと三色だんごを手に、青い空の下、風に揺れる花を楽しんだ。
まだまだコロナが心配な時期だったので、室内で心置きなく花見ができるのは、ありがたかった。
洗濯ものを干すたび、取り込むたび、桜が目に入る。やがて淡いピンク一色に覆われていた木々の枝に、若い緑がまじるようになる。
花びらが風に舞うようすは、なんとも叙情的なものだった。緑地の若草にピンクの絨毯が現れ、桜は花の盛りを終える。
若葉の季節が終わり、すべてを焼き尽くすような太陽が照りつけるころ。
コロナに倒れた我々は、陽光にきらめく緑の葉をぼんやりと眺め、時を過ごした。その姿は、かまびすしいセミの鳴き声とともにあった。
ただただそこにあって葉を揺らし、生き物を揺籃する植物の姿が、これほどまでに人の心を鎮めるのか。新鮮な驚きがあった。
そしてまた、落ち葉の季節がやってきて、今年も桜は花を咲かせた。
我々はふたたび、ベランダで花見をした。曇りのある日、近所のスーパーで買った「いちごプチシュークリーム」をお供に、ぼんやりと盛りの花を眺めた。
今年は都内の公園でも、飲食込みの花見が解禁されたとニュースキャスターがうれしそうに報じていた。同時に速報テロップが入り、コロナの感染者が増加フェーズに入ったと告げる。「第9波」がやってくるらしい。変な感じだ。
洗濯のたびに、散り行く花びらを愛でる。今年の夏もきっと暑くなるだろう。昨年、真夏の桜の緑に癒やされ、救われた我々。今年はきっと、健康であっても真夏の桜の木を見る目が変わっているはずだ。
「桜は儚いのが魅力」ということになっている。それでもわたしは例年、思っていた。
「いくらなんでも短期間すぎやしないか?」
これほどまでに短い花の盛りのために、日本全国に人工的にソメイヨシノが植樹されている。それがどこか不健康なことにすら思われた。
この部屋に暮らしはじめてから、そんな疑問はもたなくなった。
桜はほんの短い間だけ、花を咲かせる。
ただ、それは新年度の始まりとか、一月一日には年が変わるとか、そういったことと同じ、人間が作った節目。
桜はいつもそこにある。満開を迎え、花を散らし、若葉を茂らせ、やがて緑が濃くなり、紅葉し、裸の枝をのばし、やがてつぼみを膨らませる。
その巡りに対し、人間は「開花」を節目に据え、「あんなに花が咲いていたのに若葉が」「いまは葉の色を変えて……」と感慨を抱き、葉を落とした枝の先につぼみの膨らみを探そうとする。
そういったことを含めて、すべてが「花見」なのではないか。
ベランダから常に桜の木が目に入る環境になってから、そんなふうに感じるようになった。
今年も桜の一年を、あますことなく愛でたい。
桜は我々が生きようと死のうと、樹齢が尽きるまではそこにある。
だからこそ、来年もまた、ベランダで平和に花見をしたい。
葉桜というにはあまりにも「葉」の比率が高くなった桜の木を見ながら、そんなことを考えている。
今週のお題「お花見」
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画像はぱくたそからお借りしました。
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