平凡

平凡

さみしさを埋めるため、読書を通して究極の孤独にふれる

今週のお題「読書の秋」

 

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一面の落ち葉とベンチのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20181208347post-18996.html

この前まで暮らしていたちいさなアパートには、敷地内に大きなけやきの木が生えていた。

外から帰ってくると、建物よりも先に、そのけやきの木が目に入る。

 

冬は丸裸の枝が、空をバックに繊細なシルエットを描いていた。

早春の芽吹きは、まさに萌黄色。あざやかで若々しかった。

初夏から夏にかけての緑陰は、しばしば暑さにへきえきした通行人の憩いの場になった。

九月も半ばを過ぎると、少しずつ葉を落とし、夏の終わりを教えてくれた。

そして、秋本番。

冬迎えを急ぐかのごとく、落葉のスピードが上がる。

 

冷え込む晩、夜中にひとり、キーボードを打つ。

ふと手を止めて、台所であたたかい飲み物を入れる。

そんなとき、窓ごしに、からり、からりと落ち葉が一枚、また一枚と落ちる音がした。

降り積もった葉のうえに、新たな落ち葉が重なるときの、乾いた音。

それはぞっとするようなさみしさを感じさせた。

 

その音を聞きながら、わたしはいつも『黄色い雨』という小説のことを思い出した。

主人公は、過疎の村で最後の住人となった老人。

建物という建物が朽ちゆき、イラクサがはびこる廃村での、すさまじいまでの孤独を描いたスペインの作品だ。

そのなかで、ポプラの落葉を、ひいては押し寄せる忘却の波すべてを「黄色い雨」とたとえるくだりがある。

忍びよる死の足音を聞きながら、老人が思い出す村での記憶、そして夜闇の深さ。

 

けやきの葉が一枚、また一枚と、絶え間なく落ちゆく音を聞きながら、わたしは老人の孤独を思ったものだった。

 

そして今年。

引っ越しをした。

わたしは数年ぶりに、けやきの落葉なしの秋を迎えている。

窓を開けると、隣家の敷地に柿の木が見えるけれど、すでに葉はすべて落ち、橙色の実だけが目に鮮やかだ。

夜中に仕事の手を休め、紅茶を淹れて、わたしは思う。

落葉のさみしさがなくて、さみしい。

人生には、いろんな感情がある。

 

そこで、わたしはこの秋、数年ぶりに『黄色い雨』を手に取っている。

そこに描かれた、究極のさみしさにふれるために。

そのさみしさで、現実のさみしさを埋めるために。

人生には、いろんな欲求がある。

 

読書と現実に、そんなことを教えられる秋である。