今週のお題「読書の秋」
この前まで暮らしていたちいさなアパートには、敷地内に大きなけやきの木が生えていた。
外から帰ってくると、建物よりも先に、そのけやきの木が目に入る。
冬は丸裸の枝が、空をバックに繊細なシルエットを描いていた。
早春の芽吹きは、まさに萌黄色。あざやかで若々しかった。
初夏から夏にかけての緑陰は、しばしば暑さにへきえきした通行人の憩いの場になった。
九月も半ばを過ぎると、少しずつ葉を落とし、夏の終わりを教えてくれた。
そして、秋本番。
冬迎えを急ぐかのごとく、落葉のスピードが上がる。
冷え込む晩、夜中にひとり、キーボードを打つ。
ふと手を止めて、台所であたたかい飲み物を入れる。
そんなとき、窓ごしに、からり、からりと落ち葉が一枚、また一枚と落ちる音がした。
降り積もった葉のうえに、新たな落ち葉が重なるときの、乾いた音。
それはぞっとするようなさみしさを感じさせた。
その音を聞きながら、わたしはいつも『黄色い雨』という小説のことを思い出した。
主人公は、過疎の村で最後の住人となった老人。
建物という建物が朽ちゆき、イラクサがはびこる廃村での、すさまじいまでの孤独を描いたスペインの作品だ。
そのなかで、ポプラの落葉を、ひいては押し寄せる忘却の波すべてを「黄色い雨」とたとえるくだりがある。
忍びよる死の足音を聞きながら、老人が思い出す村での記憶、そして夜闇の深さ。
けやきの葉が一枚、また一枚と、絶え間なく落ちゆく音を聞きながら、わたしは老人の孤独を思ったものだった。
そして今年。
引っ越しをした。
わたしは数年ぶりに、けやきの落葉なしの秋を迎えている。
窓を開けると、隣家の敷地に柿の木が見えるけれど、すでに葉はすべて落ち、橙色の実だけが目に鮮やかだ。
夜中に仕事の手を休め、紅茶を淹れて、わたしは思う。
落葉のさみしさがなくて、さみしい。
人生には、いろんな感情がある。
そこで、わたしはこの秋、数年ぶりに『黄色い雨』を手に取っている。
そこに描かれた、究極のさみしさにふれるために。
そのさみしさで、現実のさみしさを埋めるために。
人生には、いろんな欲求がある。
読書と現実に、そんなことを教えられる秋である。