その物件を内見したのは、5月のよく晴れた日だった。
はじめて訪れる郊外の街はとても静かで、遠くから子どもが遊ぶ声が聞こえてきた。
「台所の窓が大きいんですよねえ」
不動産屋の青年が言って窓を開けた瞬間、風がふわあ、と吹き込んだ。
窓の外では、大きなけやきの木がさわさわと葉を揺らしている。
――ああ、ここかな。
長い物件探しが終わったことを、わたしも、そしてきっと夫も悟っていた。
『ゼロ秒思考』という本がある。
ジャンルとしてはビジネス書で、タイトルはそのままメソッドの呼称でもある。
2013年に出版され、累計発行部数は30万部。
しかも、発売から7年目の2020年に最高の売り上げを記録したのだから、本物のベストセラーといえる。
書いてあることは、いたってシンプル。
「自由に・吐き出すようにメモを書き、思考を整理する」というもの。
そのやり方には一定のフォーマットがある。
・いくら書いても惜しくないA4の裏紙を使う
・1枚に1タイトル書く
・そのタイトルについて、20~30字の文を4~6つ書く
・1枚に使うのは、1分。それを10枚書く
といったもの。
文字にするとちょっと大げさに感じるかもしれない。
けれど、いったんやってみると、「お手軽」にするためのフォーマットだということがわかると思う。
そして、このフォーマットに沿って書くことで、かえって内面や思考を吐きだしやすくなるのだ。
詳しくは著者自らがメソッドを説明しているこの記事を読んでほしい。
これを読めばほぼ実践できてしまう。太っ腹記事……!
一時期は、このゼロ秒思考」にハマっていた。
生活改善、なんでこれが上手くできないんだろうという悩み、不満、不安、創作アイデアまで、吐きだすうちに、思考がいいほうへと転がっていく。
転がらなくても、少なくとも整理されてラクになる。
それがおもしろかった。
秋の引っ越し時、ほこりをかぶったこの「ゼロ秒思考」のメモ書きが大量に発掘された。
それは、当時住んでいた物件の、そのまた前の物件に住んでいたころに書いたもの。
何を書いていたかなんて、すっかり忘れている。
「時間の使い方がなぜ下手なのか」など、いまにいたって解決していないものもある。
なかでも多かったのは、物件探しに関するものだ。
当時、我々は新居探しに頭を悩ませていた。
フットワークをよくするため、多少家賃が上がっても都心へのアクセスがよく、駅近物件に住みたい自営業者のわたしと、家賃の枠は一定に収めたい夫。
最初は、なんとかなると思っていたのだ。
単身者のときは、「古い」「洗濯機置き場が外」などの条件を飲み、少し家賃を積み増しすれば、けっこう便利なところに住めた。
それが、ファミリー向けになるとそうはいかない。
日常生活に支障が出るレベルの欠点がないと、わたしが考える「便利なわりに安い物件」は借りられない。
たとえば「日当たりが悪くて昼なお暗く、カラリと晴れた日に訪れてもいるのに、『除湿器必須』とわかる」物件とか。
わたしは夫が主張する家賃の「枠」は現実的だと思ったし、夫は夫で、「平凡ちゃんの言い分もわかる」と言う。
互いの主張に一定の理解はあるのだが、肝心の物件はなかなか見つからなかった。
そんな日々のモヤモヤを、「ゼロ秒思考」にぶつけていたわけだ。
たとえば、「どんな物件に住みたいか」というタイトルには、
・交通の便がよい物件
・日当たりがよい物件
・寝食が分けられる物件*1
といった条件が並んでいる。
メモをめくるうち、ある一文に目がとまった。
「理想の暮らし」とタイトルがつけられたメモに、「風が気持ちよい場所に住む」とあった。
こんなこと、書いたっけ。
たしかに、ここは風が気持ちいい場所だった。
住宅街が尽きる場所にある、ちょっとした高台。
背後には緑地が迫り、風が吹き抜けていく。
「この部屋に引っ越すとき、こんなこと書いてたよ!」
隣室で荷造りをする夫にさっそく見せる。
「たしかに、ここ、風が気持ちよかったね」と夫も目を細めた。
そして夫もわたしも思い出した。
物件を内見した日のことを。
ビジネス向けのライフハックというと、ややいかつい印象を受けるものだ。
しかし、案外、別ジャンルでも「ゼロ秒思考」に似たことを言うひとは多い。
以前話を聞いた「家事家計の達人」は、「やりたいことは書き出したほうがいい」と言っていた。
「頭のなかにとどめておくと、いつか『濁る』んです。それがどんなポジティブなものでも」。
わたし自身、経験がある。
「あれやりたい、これやりたい」と、思いついたときは心が躍る。
しかし、つづいて「でも時間がない」「やれない」「あ、こないだもあの映画、見ないうちに終映してた」などなど考えているうち、輝いていたはずの「やりたいこと」が曇っていく。
だから、やりたいことはスケジュール帳の端など、いつも見えるところに書き出したほうがいい。
頭だけで考えると、思考は濁る。
だから、「書いて」「出して」「濁らせない」。
「ゼロ秒思考」は、それをシステム化したメソッドだ。
一文、一文書き出し、「じゃあ、この一文を実現するためにはどうしたらいいんだろう」と、次のページでは、さらに思考が深まる。
それがもたらしてくれるものは、「濁らせない」から一歩進んだ、「澄ませる」なのだと思う。
こんな物件がいい、こんな暮らしがしたい。
書いて、書いて、書いて、澄ませた結果、内見のときに気づけたのかもしれない。
「この風の気持ちよさは、自分たちには価値がある」。
心のどこかで、「ゼロ秒思考」でたどりつけるのは、具体的なライフハックや将来像ばかりだと思っていた。
けれど、案外、抽象的なものの発見にも向いている。
と書きつつ、最近はすっかり「ゼロ秒思考」はご無沙汰だ。
年も改まったばかりだし、今年はまた実践してみよう。
自分でも気づかないうちに、何かよきものをキャッチできる。
「ほんとうに望むもの」にたどりつける……かもしれない。
「ゼロ秒思考」は、ライフハックに興味がある人のみならず、ふだんビジネス書や自己啓発書を手に取らない人にも試してもらいたいメソッドだ。
写真は《木漏れ日と大きな樹のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20200856237post-30395.html》
*1:「寝食が分けられる」を希望したのは、以前はリビングっぽいで布団を上げ下ろしして眠り、その同じ部屋に座卓を置いて食事をしていたから