今週のお題「叫びたい!」
タイトル通りである。
このブログをはじめて5年。
最高のアクセス数は、どれぐらいだろう。
世の中に言ったら鼻で笑われるような数字であることは、まちがえがない。
それでいいと思っていた。
なにしろタイトルは「平凡」だ。
平凡な暮らしのよろこびをつづろう、そう思って開設した。
備忘録のつもりだったのだから。
振り返れば、テキストサイト、ブログ、mixi、ツイッター、そして最近は小説投稿サイト。
インターネットの歩みとともに、ときのサービス上で、ずっと文章を書いてきた。
しかし、いまのことばでいうなれば、バズったことは一度もない。
一方で、ありがたいことに、常に読者はゼロではない。
どのサービスを使っていたときも、数人は読んでくれる方がいた(いる)。
それと、テキストサイト時代に比べれば、ブログの検索流入のチカラはすごい。
だって、何かが書いてさえあれば、一日のアクセス数がゼロってことはまずないのだ。
こうした「お題」記事で、ほかのユーザーとつながる機会もある。
たとえほとんどの訪問者が、即ブラウザバックしたとしても、いちおう、開いてはくれるのだ。
これって夢のようです、ほんとうに。
ついでに言うなら、小説投稿サイトも同じことで、何かを本気で書いていれば、それなりに読んではもらえる。
ブログよりさらに純度を増した、書きたい、読みたい人の集いである。
そんな場所がこの世にあるなんて!?
最後の桃源郷なのか!?
と驚きつつ、気づけば自分も、ひとの小説やエッセイを、むさぼり読んでいる。
こうしたサービスの恩恵を感じると同時に、悟るのだ。
「開いてもらえる機会はあるのに、読まれない。これって力不足ってことだよね」。
思えば、わたしは「ひとに読ませないこと」を前提に文章を書いたことは、ほとんどない。
Evernoteにつけている日記ですら、「未来の自分」という他人が楽しめるように、だれか酔狂で感性が合った他人の目に入ったとき、最低限、読んで苦ではないように、意識して書いている。
何より、「書く」ことは、コミュニケーションの手段なのだ。
吐きだし、記録、といった意味合いもあるけれど、こうして外へ公開している以上、コミュニケイトを意識していることは間違えがない。
ほぼ返ってこないボールを投げて、投げて、投げて、投げて。
ある日、気づくのだ。
肩が疲れたな。
趣味性が強い文章を、たった数人でも読んでくれる。
繰り返すけれど、それはすごいことだ。
そりゃ、わかっちゃいる。わかっちゃいるけど、気づいてしまった。
わたしはもっと、読まれたい!
そのために。文章のクオリティが足りない、詰めが足りない。
それを埋めるための思考が足りない。
インプットが足りない。
試行回数が少ない。
とかく、不足が多い。
そして、内容もそうだが、「読まれたい」ともっと開示することや、
自分のスタイルを保ったままで、「読まれる」ための努力をすることも、もっと必要なのではないか。
読まれたい、読まれない、それは苦しい。
なれば、どうするか考えるしかない。
だって、書くことはやめられないのだから。
とにかく、「読まれねえーーッ!」「読まれたい!」。
それがわたしのいまの叫びだ。
何かを叶えたいならば、求めつづけるしかない。
そして、その第一歩は、不足に気づくことなのだ。
不足を、そして、自分が何かを求めていることを悟ることは苦しい。
でも、わたしは信じている。
「求めよ、さらば与えられん」。