平凡

平凡

Misskeyっちゅうもんを始めて見たので雑感&Twitterとの比較

みんな元気にSNSやってる~~~⁉

こんにちは、平凡です。

 

わたしはいままで、主にTwitterに棲息していました。「眠い~」とか「真面目な話……」とか、ニュースとか各種アニメや漫画、映画の公式のお知らせとか、なんでもかんでもひとつのタイムラインに流れてきてすごく便利でした。

Twitterがなかったら出会えなかった人・モノ・コトはたくさんあります。同業者とつながって仕事に発展したこともありますし、同じ趣味の人とゆる~くつながれました。何より夫とはTwitterで出会ってますからね!

最近、「Twitterガンジス川みたいな環境が心地よいんだ」ってつぶやきを見かけて完全同意なのですが、この環境は永遠じゃないなあ~~~と感じるのもまた事実。

 

で、違うSNSも試してみようと思い、話題のMisskeyをはじめてみました。今日は利用してのその雑感をまとめようと思います。

 

 

Misskeyってなんやねん

Misskeyは分散型プラットフォームと呼ばれるもの。っていうかMisskeyは正確にはサービスじゃなくて、仕組みの名称なんだそうです。「管理者をやるぞ!」と決意した人が、Misskeyという仕組みを利用して各人でサーバーを用意。ユーザーはそのどれかを選んで参加するというわけです。

個人がサーバーを運営しているので、テーマがあったりなかったりします。「うちは小説書いている人を集めますよ~」とか「寿司好きサーバーですよ~」とか。

要するに……。

Twitterみたいに中央にどーんと運営がいて、それをユーザー全員が使っているわけじゃない。

個人運営の「島(サーバー)」が分散して存在する感じなので、「島」によって風土に違いがある。

 

で、わたしはMisskey.designというサーバー(インスタンスと呼ばれます)を選びました。

ここは「一次創作」をしている人に向けたサーバー。漫画、イラスト、音楽、小説、TRPGなどなど、ありとあらゆる創作をしている人が集まっています。

 

システムにまつわる使用感

 

・ツイート、RT、お気に入り登録、フォローなど、基本的にTwitterでできることはなんでもできます

・ただ、唯一「アカウントまるごと非公開(鍵アカ)」はできないっぽいです。

・ノート(ツイート)ごとに公開範囲を設定できます。「全ユーザーに公開」「ホームタイムラインのみ(後述)」「フォロワーのみ」「指定ユーザーのみ」が選べます。

→4/7  19:30追記 フォローを申請制にし、投稿をフォロワーのみに設定。誰のフォローも許可しなければ鍵アカウント状態で使うことはできそうです。5/22投稿範囲の話を少し修正しました。

投稿文字数はMAX3000字。自作小説の冒頭とか引用している人も多いです。

違うサーバーの人もフォロー可能。Misskeyの別サーバーの人はもちろん、Mastodonとも互換性があるので、Mastodonユーザーをフォローすることができます。わたしはフォローはサーバー内のみだと思っていたので、これは意外でした。

・画像はもちろんアップロード可能。ただ、各人に使用容量割り当てがあるので、将来的には消去が必要な人も出てくるかも(サーバーごとにルールが違う可能性もあり)。

・「いいね」にあたる機能で、多種多様な絵文字を送り合えるのが特徴。この絵文字、サーバー(インスタンス)ごとに異なるらしいので、サーバー外のユーザーにリプライするときなどは注意が必要です。

・タイムラインは3種類。

ややこしいな~と思う人は、「Twitterと同じ感覚のタイムラインのほか、激流が3つある」とざっくり考えてくださいな。

ホーム:フォローしている人だけ(ホームタイムライン)のノート(ツイート)が並びます。昔のTwitterのホーム画面と同じです。時系列がいじられておらず、おすすめユーザーのツイートが混ざったりしないアレですね。

ローカル:同じサーバーのユーザーの「ホーム」指定されていないノート(ツイート)が並びます。荒っぽく説明すると、「同じサーバーの人のノート(ツイート)」が爆速で流れるタイムラインです。

ソーシャル:自分がフォローしているユーザーと、同じサーバーのユーザーの「ホーム」指定されていないノート(ツイート)が並びます。最初、「『ローカル』と何が違うの?」と思っていたのですが、自分がフォローしているのは同じサーバーの人とは限らないんですよね。自分がフォローしている数にもよりますが、ここも激流です。

グローバル:同じサーバーのユーザーの「ホーム」指定されていない投稿と、全てのリモートユーザーの「ホーム」指定されていないノート(ツイート)が流れます。いろんな島に散らばったユーザーのつぶやきが、超爆速で滝のように流れるタイムラインをイメージしてください。

 

 

一ユーザーとしての使用感

 

・絵文字がいろいろあるので、流れるノート(ツイート)にシューティングゲーム感覚で反応をつけている人が多いし、自分も反応したくなります。

・ちょっとしたノート(ツイート)であっても、というか、ちょっとしたものほど爆速で絵文字の反応がつくので、「さみしさを紛らわす」効果は絶大です。Misskeyには上記のように、かなり広い人の目に触れるタイムラインがあるからなおのこと。「階段で転んじゃったぴえん」と書けば、知らない誰かが「お大事に」絵文字を飛ばしてくれる、といった具合です。

・イラストには、もんんんのすごい勢いで「素敵」とか「好き!」とか「いいね」とかの絵文字の反応がつきます。「見てすぐ感想を抱ける」イラストは強い! イラスト描く人は、モチベーションが維持しやすいと思います。

・「ホーム」以外では爆速でタイムラインが流れるので、Twitter以上に「流れて残らない」場でもあります。

Twitterでも「創作アカウント」「推し応援用アカウント」とか特化型の利用法がありますよね。Misskey.designの特化ぶりはその比ではなく。「眠い~」とか本当に日常的なもの以外は、創作のことしかみんな書きません。好きな商業作品について語るとか、SF書いている人が宇宙関連のニュースのURLを貼っている、みたいなことも今のところ見たことがありません。Twitterよりもずっと気軽に交流したり、新たな作家さんとの出会ったりはできますが、情報収集は期待できない場です(重ねて言いますが、今のところは。そして.designは)。他のサーバーはもうすこし雑談メインなところもありそう。

・わたしが参加しているサーバーは、この記事を書いている時点で参加者1万2000人。今のところ、管理人の目が行き届いていてとても治安がよいです。参加者急増の折には「緊急メンテします」とかアナウンスが入ることがあり、「個人が運営している」ことが肌感覚で感じられる。みんな感謝して使っている感じですね。

・個人が運営している場なので、永遠ではないだろうな……という不安はあります。サーバー代も管理者の自腹です。サーバーごとに運営者が支援を募っているので、ユーザーもサポートはできます。

・投稿ルールは管理者次第。Misskey.designでは、「局部無修正以外は何を投稿してもOK」。ただし、「職場で安心して見られないようなものはすべてセンシティブ設定して、閲覧するにはワンクリックが必要な状態にする」は鉄の掟。文字でも、「メスガキ」とかはNG。こういう感覚は大事だな~と思いました。

・分散型SNSの宿命なのかもしれませんが、「ノート削除してもサーバーから完全に削除されない可能性がある」などの注意書きがあるのは気になります。

そして、Twitterには一時期からツイート全エクスポート機能が付きましたが、Misskeyにはないような……(ブックマークなどの情報はエクスポートできるようですが、ツイートにあたるノートはどうなんでしょうか)。とはいえ、Twitterも今は無料利用の場合、エクスポートできるツイート数に限りがあるようですが。

→5/22追記 全ノートエクスポートほか、フォローリストなどのエクスポート機能はあります。また、試験段階ですが、アカウントの移行機能も実装されました。

・総じてMisskey.designの雰囲気は、大昔にあった掲示を思い出します。2ちゃんねるなどではなく、teacupとかのやつ。人気の個人サイトに付随していたような「管理人の顔が見える」もの。すごくにぎやかで楽しくて、交流が活発な掲示板と考えれば、エクスポートが不十分な可能性があっても、ニュースが流れて来なくても当たり前。

 

で、結局、どこをメインに使っていくか?

ニュース的な情報を仕入れるためには、Twitterはまだ完全には切り捨てられない。ただ、Twitterもいつまで安定して動くのかは不透明です。近い将来、公式アカウントが引き上げ始める可能性もあります。そのとき、代替SNSが台頭していなかったら、情報収集をどうするか? 今、考えています。ニュースは各種報道機関のサイトで、エンタメ系の新作情報はナタリーなどでチェックするのか……。

ニュースに関しては、Twitterの動向とは関係なく、すこし前から意図的にネットではなく「紙の新聞、定時のニュースをチェックする」ようにしています。ニュース以外の、もっと雑多な情報をキャッチするにはどうするか。

Twitterでは、適当にフォローをしていれば、どっからか情報が流れてきたんですよね。

 

まとめ

 

わたしがTwitterをはじめたのは2010年のことでした。

創作関連以外はくだらないつぶやきが流れていくMisskey.designの牧歌的な風景は、2011年前のTwitterを髣髴とさせるところがあります。公式アカウントが増え、Twitterが一気にインフラ化したのは2011年前後だったと記憶しています。

Twitterができてから17年。日本上陸して15年。変化して、積み重ねてきたものがあります。昔はRTは公式機能ではなかったし、「いいね」は「スター」だったし、日本語そのままのハッシュタグも使えなかった。お堅い企業公式や官公庁がTwitterをやるなんて、昔々そのまた昔は考えられませんでした。

いまや、ニュースでTwitterが紹介されるとき、「マイクロブログサービスの~」「短文投稿型SNSの~」と枕詞的な解説もつかなくなりました。

 

MastodonにしてもMisskeyにしても、まだまだユーザーが増えはじめたばかりTwitterが日本に上陸した2008年に2011年の状況が、2023年の状況が予想できなかったように、これからのことはまだわかりません。

 

Twitterがどうなるのか不透明ですが、「今の、あるいは少し前までのTwitterの居心地を再現した、完全な代替物」はおそらく出てこないとわたしは予想しています。

ただし、Twitterの便利さをある程度カバーするサービスは出てくる可能性があるでしょう。つまり、多くの人がアカウントを取得し、公式アカウントが集い、情報収集の手法として便利な文字主体のSNS。そうなったら、Twitterも含め、複数のSNSが並び立ち、求める空気感や思想信条により、ユーザーがそれぞれのSNSに分散するんじゃないか。

 

Twitterには10年以上をともに過ごしたアカウントがあり、フォロワーさんたちがいる。多くは顔を知らないけれど、10年分一緒に年を取ってきた人たちです。去った人もいるけれど、ずーっと顔を見かける面々もいて、亡くなった人もいる。そういう場が危うくなっていることに、なんともいえない感情があります。

わたしは加齢によるさみしさ、不安が強いタイプなので、「憧れの人たちの訃報が増えてきたねえ」と、いつもの面々でしみじみできることは、けっこう大事だったりします。

 

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ここに書いたのは主観的なものであり、「使ってみたらすぐわかること」も多いと思います。使用感や雰囲気は、一カ月もしたら変化があるでしょう。

とはいえ、今後のSNS選び、居場所探しの参考として。

2023年4月6日時点でのMisskey初心者の感想が、どなたかの参考になれば幸いです。

 

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画像は写真ACからお借りしました

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“フル”のお花見

 

「あの木って桜なんじゃない?」

 

この部屋に越したとき、そんな会話をかわした。ベランダがちょっとした緑地に面していて、そこには何本か木が植わっていたからだ。

それは一昨年の10月のことで、木々からは黄変した葉がはらりはらりと落ちていた。

やがて冬がやってきて、年が明けてから東京にも雪が降り、裸の枝をしならせた。

日ざしが暖かくなると、枝の先端にふくらみが目立つようになった。

つぼみがほころんで、ひとつひとつ淡い色の花が咲きはじめる。

ベランダから見える木々は、予想通り桜だったのだ。

 

我々夫婦はキャンプ用のチェアと踏み台をベランダに出してそれぞれ腰かけ、コーヒーと三色だんごを手に、青い空の下、風に揺れる花を楽しんだ。

まだまだコロナが心配な時期だったので、室内で心置きなく花見ができるのは、ありがたかった。

 

洗濯ものを干すたび、取り込むたび、桜が目に入る。やがて淡いピンク一色に覆われていた木々の枝に、若い緑がまじるようになる。

花びらが風に舞うようすは、なんとも叙情的なものだった。緑地の若草にピンクの絨毯が現れ、桜は花の盛りを終える。

 

若葉の季節が終わり、すべてを焼き尽くすような太陽が照りつけるころ。

コロナに倒れた我々は、陽光にきらめく緑の葉をぼんやりと眺め、時を過ごした。その姿は、かまびすしいセミの鳴き声とともにあった。

ただただそこにあって葉を揺らし、生き物を揺籃する植物の姿が、これほどまでに人の心を鎮めるのか。新鮮な驚きがあった。

 

そしてまた、落ち葉の季節がやってきて、今年も桜は花を咲かせた。

我々はふたたび、ベランダで花見をした。曇りのある日、近所のスーパーで買った「いちごプチシュークリーム」をお供に、ぼんやりと盛りの花を眺めた。

今年は都内の公園でも、飲食込みの花見が解禁されたとニュースキャスターがうれしそうに報じていた。同時に速報テロップが入り、コロナの感染者が増加フェーズに入ったと告げる。「第9波」がやってくるらしい。変な感じだ。

洗濯のたびに、散り行く花びらを愛でる。今年の夏もきっと暑くなるだろう。昨年、真夏の桜の緑に癒やされ、救われた我々。今年はきっと、健康であっても真夏の桜の木を見る目が変わっているはずだ。

 

「桜は儚いのが魅力」ということになっている。それでもわたしは例年、思っていた。

「いくらなんでも短期間すぎやしないか?」

これほどまでに短い花の盛りのために、日本全国に人工的にソメイヨシノが植樹されている。それがどこか不健康なことにすら思われた。

 

この部屋に暮らしはじめてから、そんな疑問はもたなくなった。

桜はほんの短い間だけ、花を咲かせる。

ただ、それは新年度の始まりとか、一月一日には年が変わるとか、そういったことと同じ、人間が作った節目。

桜はいつもそこにある。満開を迎え、花を散らし、若葉を茂らせ、やがて緑が濃くなり、紅葉し、裸の枝をのばし、やがてつぼみを膨らませる。

その巡りに対し、人間は「開花」を節目に据え、「あんなに花が咲いていたのに若葉が」「いまは葉の色を変えて……」と感慨を抱き、葉を落とした枝の先につぼみの膨らみを探そうとする。

そういったことを含めて、すべてが「花見」なのではないか。

ベランダから常に桜の木が目に入る環境になってから、そんなふうに感じるようになった。

 

今年も桜の一年を、あますことなく愛でたい。

桜は我々が生きようと死のうと、樹齢が尽きるまではそこにある。

だからこそ、来年もまた、ベランダで平和に花見をしたい。

葉桜というにはあまりにも「葉」の比率が高くなった桜の木を見ながら、そんなことを考えている。

 

今週のお題「お花見」

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画像はぱくたそからお借りしました。

白い花の桜(葉桜)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20170439102post-11024.html

 

 

映画『BLUE GIANT』を劇場で見てくれー! と叫びたい

「これは映画館で見てよかった!」と思える映画ってありますよね。

この間、まさにそんな映画に出会ってしまったんです。それは『BLUE GIANT』。

 

bluegiant-movie.jp

 

 

原作は、『岳』で知られる石塚真一さんによる同名コミック。ジャズに魅せられてテナーサックスを吹き始めた宮本大(みやもとだい)が「世界一のジャズプレイヤー」を目指す姿を描いています。

原作の単行本はエピソード区切りでタイトルが変わり、巻数をリセットして連載中。

大の日本での黎明期を描いた『BLUE GIANT』が全10巻、ヨーロッパへ渡った大の姿を描く『BLUE GIANT SUPREME』が全11巻、大がアメリカ西海岸へ降り立つ『BLUE GIANT EXPLORER』は既刊8巻。累計発行部数1000万部を突破しています。

映画は大が日本で過ごした日々を描く『BLUE GIANT』部分をアニメ映画化したもの。

わたしは漫画未読――というか、実は何度か挑戦して挫折しています。

 

物語はジャズプレイヤーになるため、大が仙台から上京するところからスタート。やがて大は高い技術を持つピアニスト・沢辺雪祈(さわべゆきのり)、同級生でまったくの初心者ながらジャズに魅せられてドラムを始めた玉田俊二(たまだしゅんじ)と、三人編成のバンド「JASS」を組むことに。

あまりにもまっすぐ過ぎる大、自信家の雪祈、足を引っ張りがちだと悩むものの、いちばん柔軟な玉田。彼らはぶつかりながらも大の演奏に魅せられ、認め合い、頂点へと駆けあがっていきます。

 

タイプが違い、我が強い三人が直面するそれぞれの壁や挫折は、生々しいものです。たとえば、三人の中でいちばん経験も技術もあると思われた雪祈は、それゆえのハードルが立ちはだかります。乗り越えるのは最終的には己の力なのですが、跳ぶためのバネになるのが、認め合うものの馴れ合わない三人の関係性です。

それがもう、本当に見ていて胸が熱くなるんです。

 

その熱さと常にセットになっているのが、ライブシーンです。

ちいさなジャズハウスでわずか客三人だったはじめてのライブ。

地域のジャズフェスティバルで、「メインアクトを喰ってやる!」と鳴らす自分たちの音。

そして大舞台でのラストライブ……。

 

「JASS」は雪祈が作曲したオリジナルの曲を演奏しており、アニメ映画ではそれを上原ひろみさんが作曲。

ライブシーンでの演奏も、上原さんが雪祈のピアノを担当。ほか、大のサックスはオーディションで選ばれた馬場智章さん、玉田のドラムはmillennium paradeにも参加されている石若駿さんによるものです。

その音楽の迫力ったら! 

作品のキーになるのは間違えなく、吹いて吹いて吹きまくってきた大のサックスの“引力”で、その強く情熱的な音色が見事に表現されていました。

映画館で見てほしい理由のひとつが、この「音」を最高の音響設備で浴びてほしいから。

 

音楽に加えてライブシーンで圧巻なのは、映像表現です。人のリアルな動きを入れた方がよいごく一部のカットだけは3DCGを使い、あとは2Dアニメで演奏者の表情、音の奔流、感情の流れがひたすら表現されます。ここでポイントになるのが、「作中で観客が受けているエモーショナルな印象や、演奏に打たれた感動」もアニメーションで表現されていること。

このライブにたどりつくまでの熱い物語、そのすべての想いを叩きつける演奏(音楽)、加えて観客の感動。これらが三位一体になって迫ることで、思わず映画の観客だるわたしも、「今、伝説的なライブに立ち会っている!」気持ちになれる。この没入感は、ぜひ映画館で味わってほしい! それが劇場で見てほしい二つ目の理由です。

 

ライブシーンは一部YouTubeで公開されているのですが、あえて貼りません。単独で見ても素晴らしいものですが、初回は物語の流れの中で見てほしいから……。

 

いろいろ御託を並べてしまったのですが、『BLUE GIANT』はとにかく熱い!

キャッチフレーズの「二度とないこの瞬間を全力で鳴らせ」そのものな、青く激しく燃える三人の青春とその帰結、ぜひ劇場で見て! 見て! 見てください!

お願いしますッ!

 

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桜は散りて春は深まり。1月~3月まとめ

 

友人親子と公園でピクニックをしたのは、二週間前のことでした。日差しはあたたかく、それでも日影では風よけの上着は必須。桜のつぼみはふくらんでいたものの開花はまだまだで、木々は裸の枝を伸ばしていました。

 

それがいまは、ベランダから見える桜はおおかた散り、アスファルトにピンクの花びらが吹きだまっています。

春です。

季節のかわり目、最近はやれていなかった「まとめ」を、いまこそやろうと思います!

 

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年明けはすこし仕事が落ち着いていたので、毎日少しずつ確定申告の準備をしていました。

「仕事が落ち着く」と書くと平和なイメージですが、フリーランスとしては不安に襲われ、何も手につかなくなることのほうが多いです。事務処理を淡々と進めることで、精神が安定したのはよかったです。

まさか経理作業に救われる日が来ようとは……。

 

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はてな公式ブログに、12月に書いたエントリーを取り上げていただきました。

blog.hatenablog.com

 

こちらのエントリーです

わたしの、新しい靴「2022年買ってよかった」

https://hei-bon.hatenablog.com/entry/2022/12/09/073000

 

思い入れのあるブーツについて書いた記事なので、うれしかったです。取り上げていただき、ありがとうございました。

こういう記事では、自前の写真をつけることも大切なんだな~と感じました。

 

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年末年始から1月中は例年、胃腸の調子を崩しがちです。

2月はじめに出張が入っていたので、2週間ほど、胃腸の調子を整えるためにひたすら鍋を食べていました。リングフィットと散歩も欠かさずに。体調はかなり整いました。

ただ、その反動で2月半ばから3月は、完全に昼夜逆転してぐっだぐだに。

3月の頭に超絶多忙時期がやってきたら、朝型に戻りました。

 

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FGOの第2部6章がとてもよかったです。

ロストベルト攻略の最後に、「比べることも争うこともしない超平和主義の知性体」との交流を通じ、「自分の世界を残すため、他の世界を滅ぼす非道をやっている」主人公の行動を肯定する。上手いなあと思いました。

 

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すでに終わった展示ですが、清瀬市博物館で開催されていた「歩く、描く 谷口ジロー清瀬」へ行ってきました。

谷口ジローさんはずっと清瀬にお住まいだったとかで、『歩くひと』『犬を飼う』などの作品にはその風景が描かれているそう。

小規模展示でしたが、超絶美麗な原画を間近に見られて眼福でした。

何より博物館へ行くまでの道が、すでに「これ、『歩くひと』に出てきそうな風景だな~~~!」と思えるもので。鑑賞後は、『歩くひと』に出てきた「中里の富士塚」へ足をのばしました。「それが描かれた場所で、描かれたものを見る」のは贅沢な体験でした。

 

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『シン・仮面ライダー』を見てきました。わたしはおもしろかったです。元ネタ知識ほぼゼロです。

わたしは「本郷とルリ子の孤独な心情をムードたっぷりに描いたロードムービー」として楽しめました。褒めている人であってもみな、「キャラクターの感情がわからなかった」と書いているので、わたしが何か誤解している可能性は高いですが。

何を見せたいか、何を想像で埋めてほしいか、ドラマの演出の方向性はすごくはっきりしていると感じたんですよね……。

 

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映画『BLUE GIANT』がめっちゃくちゃよかったです。最初はのれなかったのに、中盤からはずーっと泣いていました。

タイプがまったく違う、まだ何者でもない若者3人がぶつかり、ジャズを通して認め合い、彼らだからこそ到達できる頂点を目指す。その3人の関係性が「ジャズの魅力」を雄弁に語り、最高に熱い物語の途中で、最高に熱い演奏シーンが入る。映画館で見てほしいです……!

思い出しただけで泣いてしまう……。別途記事を書けたらと思います。

 

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あとは他の記事に書いた通り、なんだかんだいろいろな場所で、いろいろ書いています。

すでに書いたこととかぶりますが、思いついたらどんなに下劣なものでも書き出し、できるかぎり物語形式にするようにしたら、頭が軽やかになりました。もっと早くこうすればよかった。死後に読まれたら恥ずかしい、とかはありますが、そこはもうしょうがない。


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そういえば、ピクニックをした日の夕食は、「王将」の天津飯でした。卵の出荷数不足と値上げが止まらず、いまは天津飯の提供をやめていると聞きます。

2週間あれば、いろいろなことが変わっていきますね。

 

それはともかく、春らんまん! とうことで、もうすこし外に出たいです。

皆さまの春が、楽しいものでありますように!

 

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人生修行としての「書く」

コミュ障だ。書けば書くほど、そう思う。

 

昔々コミュニケーションがオフラインのみだったとき。

「対面のコミュニケーションは苦手でも、文章なら伝えられる」と思っていた。

 

甘かった。幻想だった。

 

ここ10年から15年、mixiTwitterだとオンライン上での、文字によるコミュニケーションの比率が増えている。

そこで知り合う人との人間関係の濃淡はさまざまだ。リアルで会ったことがある人、ない人。何回かリプライをくれた人、そうじゃない人。

求められるコミュニケーションは、その濃淡に合わせて距離感をあやまたず、礼を失しず、固すぎずやわらかすぎず。

 

Twitterで相互フォローの関係だと、つぶやきを常に見ているので、リアルな知人よりずっと距離が近く感じることが(わたしには)ある。

ただ、それは距離感の一種のバグであり幻想なので、思うがままにリプをするとコケる。相手に不快感を与えてしまう。

クソリプやおっさん構文など、コミュニケーションの不全への非難はやむところがないが、「わたしは『やってしまう』側の人間だ」といつも思う。

 

オンラインでのコミュニケーションが増え、さらに仕事の原稿だブログだ小説だと書いていて気がついたのは、文章を書くこともコミュニケーションである、という何をいまさらな真実だ。

なかでも「自分の脳内にある空想を、他人にわかりやすく、できればおもしろおかしく伝える小説」なんてコミュニケーションの極致だと思う。「その文章で伝わるか?」からはじまって、「読んでいてよどみないか?」「最低限おもしろいか?」と、終始読み手を意識しないと立ちいかない。

 

リアルでもTwitterでも、ほがらかだとかいつも楽しそうだとか、好かれる人っている。小説にもそれがある。ポピュラーな作風はストレートに人柄が出るし、暗い話でも重い話でも、作者ががっぷり取り組んで、なおかつ本気で伝えようとしてくる話は、語弊をおそれずいえば「好かれる」。目をそむけたくなるネガティブな感情を伝え、読ませるのは他者を意識して書いているからこそで、広い意味でのサービス精神があるってことだから。

 

前にも一度書いたけれど、小説投稿サイトはときとしてSNSの一種として機能している。ことにこの「はてな」も運営にかかわっている「カクヨム」は、書き手同士の交流が生まれやすい。

Web小説投稿サイトは一種のSNSではあるけれど…… - 平凡

とはいえ、つながりができるのは、まず、その人の作品を本気でいいと思えて、創作姿勢に共感ができる場合のみだと思う。わたしの経験だと、交流が生まれるとき、書いているジャンルの類似はあまり関係ない。

文字通り創作を通じてつながるわけで、そこには嘘や同情やなれ合いがあまりない。ある作品を気に入ってフォローしても、別の作品をのべつまくなしに褒めたりはしない。

いいと伝えるのは、いいと思ったときだけだ。

界隈は広いので、そうではないコミュニティもあるだろう。けれど、比較的ニッチな作品を書いているわたしから見える風景はそうだ。

だからこそ、「すばらしい!」と思った人様の作品に、感想やレビューをきちんと書きたいと思うことがある。そこにはやはり、作品を読み取り、その良さを伝えるというコミュニケートが発生する。感想であれば、「それを読んだ作者がどう思うか。不快な書き方をしていないか」「適切な距離感の書き方」が求められる。

これ、自然にできる人はできるんだと思う。わたしはぜんぜん自信がない。

「この作品、すっげー好き!」と思ってコメントをしても、何か気をつかわせてしまっている……? と感じることも多い。

交流面を除いても、小説は書けば書くほど、自分の未熟さを見せつけられる。そのつたなさに直面すれば内面の浅さがはっきりわかるし、わかりにくい文章に気づけば、ひとりよがりな自分に赤面する。

 

とにもかくにも「書く」ことを通して、自分のコミュニケ―ションのだめだめっぷりを実感する日々なのである。そのだめだめっぷりは、創作には如実に表れていると思う。

それでも書くことは楽しい。

頭の中にあることを取り出して、稚拙でもよいから表現する。ぎこちなくとも世界と登場人物が動く。上手くいけば、それが人の心を楽しませる。

同時に、自分がより良き人間を目指すならば、「書く」は不可欠なのだとも思うようになった。

自分のだめっぷりがはっきりと可視化されるのは何かを書いたときだし、それを乗り越えたいと考えを真剣に巡らせるのも書くときだからだ。

テキスト上のコミュニケーションが難しいとはいえ、対面よりはゆっくりと考え、行動することができる。

 

というようなことを考えて活動をつづけていると、心が折れかけるときもある。が、それを察知してさりげなく声をかけてもらえることも多い。

声をかけてくれる人たちは、距離感のつかみ方もことばの選び方も上手い。だから、作品や作者にファンがついている。参考にしたい……と思いつつ、なかなか真似できないが、とにかくありがたい。

そして、ありがたいと思うほど、わたしは肩に力が入ってしまう。コメントを返すのが遅くなってしまう。たくさん書いては消し、書いては消しをして、時間をかけて、結局は「とてもうれしいです!」とだけ返すことも多い。下手をすると、何日もコメントを返すことができない。でも、声をかけてもらえるのは重荷ではなく、間違えなくうれしいのだ。それに応えたいのだ。

創作の場に限らず、このブログもTwitterでも同じだ。仕事のメールでも、飛び上がるほどうれしくて涙ぐんだお褒めのことばほど、返信が返せない。いつも楽しく仕事をし、尊敬していた編集さんからいただく異動の挨拶メールも同様だ。

 

正直、コミュ障が一朝一夕で治るとは思っていない。それでも少なくとも、そういったありがたい好意には、しっかりと返せる自分でありたい。この「しっかり」にはスピード感もふくまれる。

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」。暴投しがちでも、投げることはやめていない。それに加えて、わたしは打ち返したい。いろんな人の気持ちに、ことばに、しっかりと打ち返せるようになりたい。簡単なことばでいいから、すばやくお礼が言える自分になりたい。

 

正直、他人様に読んでもらうことを前提にしたブログの場で、「文章の場でもコミュ障だ」と書くのもどうかとは思う。それでも、前に進むために、いまのわたしの記録として、書いておく。

 

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」

 

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画像は写真ACからお借りしました。

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春分の日に、一年の目標にかえて

「人生、先が見えないとつらいんだな」

そんな当たり前のことに気がついたのは、フリーター時代だった。

新卒で勤めた会社をクビになり、とりあえずはじめた接客バイトの仕事。

意外なことに、それは自分に向いていた。

目の前のお客さんの求めるものを、なるべくなら解決してあげたいと思い、そのためにフロアを走り回る。売り場を整え、商品を切らさないようにする。

それはわたしに充実感を与えてくれた。

ただ、その職場には先がなかった。

経験を積めばバイトもそれなりに知識をたくわえ、発注し、売り場を作るぐらいの権限は与えられる。

「ベテランね」とお客さんが目を細める店員は、たいてい自給なんぼのアルバイトだ。

この社会ではよくある話ではある。

そこで、より人生を安定させようと、正社員を目指す者もいる。

しかし、それは全店舗で年に二~三人通るかどうかの狭き門なのだ。

加えて、正社員になれば求められるのは、フロアでの接客ではなく、マネージメントである。

わたしはマネージメントは絶対にやりたくなかった。というか、合わないことは火を見るよりも明らかだった。

新卒で就職し、やっていた仕事は編集者だったからだ。編集者の仕事とは、各所に発注をかけ、その進捗を管理するマネージメントにほかならない。

それが、わたしはまったくできなかった。

 

接客は好きだ。周囲からは「まじめな人材」と目されていたようで、重宝もされていた。人間関係も悪くなかった。でも、そこには先がなかった。

 

わたしはだんだん笑えなくなった。

いまでも覚えているのは、春分の日のことだ。暖かい風が吹いて、それでもわたしはブクブクのダウンコートを着ていた。冬用のコートを脱ぎ去り、次の季節の服装を考えなければいけない。それが心底めんどうくさかった。

「春なんて、来なけりゃいいのに」

次の季節の到来を喜べない自分に驚いた。それまでの人生にはなかったことだったから。

 

エスカレーターに乗っているとき。ふと、ガラスに映った自分の顔が目に入った。特別いやなことがあったわけでもないのに、ものすごいしかめっ面をしていた。

「わたし、いつもこんな顔して歩いてるんだ」

そういえば、最近、笑ったことがあっただろうか。思い出せる感情は、怒り、イライラ、悲しみだけ。

 

わたしはそんなわけでアルバイトを辞め、会社勤めのライターになった。

ライターが、唯一「やったらおもしろいかも」と思える仕事だったからだ。

具体的なことは何一つわからないまま飛び込んだ世界だったけれど、商業ライティングの世界は、わたしに社会での居場所を与えてくれた。

 

ライターになって、フリーランスになって、人生は安定した。世間から見てどんなに不安定であっても、わたしにとっては安定だった。はじめて「つづけられる」と心から感じられる仕事だったから。結婚して、さらに情緒は安定した。

 

しかし、中年というか、中高年の域に達した昨今、迷いが生じた。

「わたしはこれから、どうすればいいのだろう」。

 

自分は一ライターとして記事を書いていきたい。が、出版不況の中、それをつづけていけるのだろうか。もちろん、ウェブ時代であっても、いや、ウェブ時代だからこそ、プロが書いた文章は求められてはいる。ただ、ウェブで情報を発信するメディア側のスタンスはあまりにもいろいろ過ぎる。「こうしたい」がないと、泳ぎ切れないように感じられた。

 

同キャリアの人たちは、どんどん専門性を身につけていく。自分は何かの専門家になりたいのだろうか。「こういうこと、もうすこし詳しくやってみようかな」と口にすると、いつもことばが上滑りした。

 

依頼に応じて書く、いまの仕事は好きだ。ずっとつづけていきたい。でも、つづけるためにもビジョンが必要だ。

仕事だけではない。

子どもができなかった――というか、主にわたしのふがいなさから子どもを(なかば)あきらめたこともあり、「未来」が急に見えなくなった。

 

「いま」に満足していても、未来が見えないと、人生に倦む。

「いまのままをつづけたい」と心底思えるなら、それはそれでビジョンだ。でも、どこかでそうは思い切れない自分がいる。

 

変えたい、では何を?

 

だからというわけではなく、まったく別の衝動からなのだが――。

コロナ禍に、いままでになかったタイプの小説を書き、のちに投稿サイトに掲載しはじめた。

そこで更新回数の大切さを思い知り、数年間設置しつつも、数カ月に一回の更新だったこのブログの更新回数を増やした。

ブログに「子どもをもつこと」について書いたら、驚くほど情緒不安定になって、カウンセリングに通いはじめた。

仕事の激務期間が訪れ、そのストレスで、原始的なジャンルの小説を書くようになった。

そうしたら、何か別の扉が開いたらしく、今までになく他ジャンルの小説も書きやすくなった。

そういうことがドミノ倒しに起こり、わたしはこの春、利用している投稿サイトのイベントに乗っかって、何篇か短編小説を書いた。

勢いで書いたそれらは、いままでにない題材で、でも、どれも「自分だ」と思える作品になった。

テイストはバラバラだけれど、どれもさまざまな理由から世間から外れてしまった存在が主人公だ。

わたしが利用している投稿サイトは、比較的、文芸的な作品を書くひとも多い。しかし、わたしの作品はエンターテインメントからあまりに大きく外れているように思われた。

 

わたしはときに、比喩表現ではなく、泣きながら書いた。

「なんでこんなものを書いてしまうんだろう」

「だれにも読まれないのに」

なにより、物語に登場する人物は誰もが痛みを抱えていて、それがつらくて泣いた。

 

ある朝、もっともいびつな短編を書き上げた。詰め込み過ぎだし、主人公が抱える葛藤は異常だし、0PVだろうと思ってアップした。

それが意外に、読まれた。

と書くと、皆さんは万のPVを想像するかもしれないが、そうではない。数でいえば極少だ。「それで喜べるのは、異常者ではないか」と思われるぐらいの数だ。

それでも、「これはもっと読まれてほしい」「ほんとうによかった」と書いてくれた人がいた。

投げて投げて投げて、暴投かもしれないと思っていたものが、誰かのミットにすっぽりおさまった。

 

うれしかった。

 

生まれてはじめて、「わたしにも書けるものがあるのではないか」と思えた。

上手いとか、売れるとか、そういうんじゃない。そのもっと手前の話。

「わたしだから書けること」があるんじゃないか。わたしには、それを書いて、ひとに届けることができるのではないか。その可能性が、万に一つでもあるのではないか。

 

「仕事以外の文章を書いていること」を、本心から肯定的にとらえられた瞬間でもあった。

「なんで小説を書くんだろう、書いてしまうんだろう」「なんでエッセイみたいな文章を書くんだろう」と、ずっと思っていた。

仕事のテキストだけ書いていればいいのに。それでもじゅうぶん発散できて、楽しいんだから。

ここ二~三年は、自分の書くものが冷静に見えるようになってきて、「つまらなさ」に愕然としていたから、なおさら肯定的にはなれなかった。

 

でも。書いていて、よかったのかもしれない。

わたしには、書けるものがあるのかもしれない。

 

カウンセラーの先生は、一連の流れを聞いて、「巡っていますね」と言った。

「小説に書いている内容が、たとえあなたが抱える問題と直接関係なくても。心のどこかが巡っていれば、必ず違う箇所にも循環があらわれます」

ああそうか、とわたしは思う。

「先」というより、人生には「循環」が必要なんだ。

 

その必要なものをもたらしてくれたのが、「書く」だったことを、心からうれしく思う。

 

というわけで、年初の目標も立てられなかったわたしだが、一年も三分の一が過ぎたところで目標ができた。

 

わたしはわたしの人生を循環させていきたい。

せっかく見つけたこの、「内面と文章をつなぐ回路」を、なんとかもっと太いものにしていきたい。

 

春分の日、ずいぶん早く咲いた桜が散り始めているなか、そう誓う。

沈丁花よ、夜道をゆく者にどうか加護を与えたまえ

月がさえざえとした夜道で、ふと沈丁花の香りをかいだ。

見まわしても、香りの主は見つからない。

甘い香りが、冬の終わりと春のはじまりを告げている。

 

 

季節の移ろいに趣を感じると同時に、その香りはわたしの記憶をかきまぜて、沈殿したものを舞い上がらせる。

 

思春期のころ、生きるのが息苦しくて、いてもたってもいられなくて、夜中に家を出た。

当時暮らしていた古いアパートの扉をそっと開けて、静まり返ってドラマのセットのような住宅街を歩く。

行くあてはないし、夜道は怖い。

日常とは異なる行動をしたからといって、気持ちは癒されるものではない。

泣き腫らした目に、空気が冷たかった。

それでも煌々と照る月は美しく、冬の名残の清冽な空気のなか、星が明るかった。

遠い遠い星の輝きを頼りに歩くなか、ただよってきた甘い香りに顔を上げると、民家の塀から沈丁花が顔を出していた。

ちいさな星形の花々に鼻を寄せる。

日常とは異なる行動は、けっして本質的に心を癒してくれはしない。

それでもその香りの甘さ、清らかさに、わたしの心は凪いだ。

 

そのころのわたしは、たびたび夜、出歩くようになっていた。

もうすこし常識的な時間であれば、コンビニへ。そこで立ち読みして、また重い足取りで家へと帰る。

もっとうんとちいさかったころ。

「さみしいと」「子どもがグレる、夜遊びをする」といった言説の意味が、わたしにはわからなかった。

そのふたつに、どういった関連があるのだろう。

でも、思春期になってはじめてわかった。

家にいたくないのだ。夜になるとさみしさやむなしさが募るのだ。それらが子どもを外へ向かわせるのだ。

同時に、自分の想像力のなさを思い知った。そんな単純なことですら、自身がそうなるまで理解できなかった。

 

わたしが夜道で出会ったのは、せいぜい沈丁花ぐらいのもの。

でも、別のものに出会っていたら――。

いま、ここにこうしていられたかはわからない。

 

それから何十年も経って。わたしはある事件の報道に釘づけになった。

とある地方都市で、花火大会の夜に女の子が殺された。

友達と遊んで、夜道を歩いて帰って、途中までは家にいるお姉さんにメッセージを送って、でも、その女の子は家に帰ってこなかった。

「このあたり、かなり暗いですねえ」

ニュース番組では、レポーターが、夜、女の子がいなくなった現地の道を歩いている。

わたしはその暗さを知っていた。

地方都市の住宅街の、夜道の暗さ。

沈丁花に出会い、コンビニの明りを求め歩いた、あの道の暗さ。

夜道は怖かった。心細かった。でも、歩かざるをえなかった。

 

夜道が危ないなんて、わたしたちはみんな知っている。

無力な子どもであればなおさらだ。

それでも、いろんな理由でわたしたちは夜道を歩く。

ある子どもは家庭に居場所がなくて。ある子どもは年に一回の花火大会が楽しすぎて。

それを誰が咎められるだろう。

 

わたしは運よく生き残り、報道を見ている。

その女の子は殺された。

彼女とわたしをへだてるものは何もない。

 

沈丁花の甘い香りをかぐたび、春待つ心は躍るけれど――。

同時に、願わずにいられない。

夜をゆく子どもたちに、どうか安全が、何者かの加護がありますように。

不届きものの目から逃れられますように。

 

 

今週のお題「あまい」

 

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文中で触れた事件の、ご遺族についての記事。「被害者」「被害者遺族」になったときに何が起こるかの一端が書かれています。とてもつらい。

15歳の娘は命を奪われ「屍」と呼ばれた “娘のために闘う” 父親の思い|NHK事件記者取材note

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画像は写真ACよりお借りしました。

ジンチョウゲ - No: 4157687|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK