平凡

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「妄想を書いちゃいけない」なんて、ない

世界には、「お話っぽいものを妄想する人」と、「妄想しない人」がいるらしい。

わたしは前者、「妄想する人」だ。

このブログの読者の方には、前者が多いのではないかと思う。

今日は楽しいはずのその妄想が、脳のリソースを圧迫していたことに気づいたって話。

 

 

F太さんという方が、こんなツイートをしていた。

 

「世界」というほどたいしたものではないけれど、ずっと妄想はしている。

小学校低学年ぐらいのころにはしていたんじゃないかと思う。

「世界」みたいなものは、複数ある。

きっかけは覚えていないし、それぞれがどこから来たのかよくわからない。

どの妄想も、キャラクターがいて、繰り返し想像するシチュエーションがいくつかある。

好きな味の飴玉を取り出しては、何回もしゃぶる、みたいな。

アニメや漫画、小説で見た好みのシチュエーションを、自分の中で再構築して、前後のつながりなく繰り返し再生している感じなのかな……と思っている。

実際そうなのかはわからないけれど、説明としてはそれが筋が通っている。

 

「世界」は、わたしが小説を書くより早く存在していた……と思う。

 

ここで歯切れが悪くなるのは、自分の中では妄想は2ラインにはっきりわかれていたからだ。

 

それは、「書く前提じゃない遊び場妄想」と、「書くことを前提とした妄想」。

「遊び場妄想」は長期的に自分の中にあって、基本は同じシーンの繰り返し。ごくまれに新しい展開が生まれる。

「書くことを前提にした妄想」は、単発タイプだ。音楽を聞いた、いまひらめいた、課題が出たので考えていたらポッと出た。ラノベっぽいものもあれば、文学の香りがする日常系もある。

 

小説を書いた一番古い記憶は小学四年生ぐらい。それはもちろん後者をもとにしていた。

「書くことを前提にした妄想」をするようになったのと、「書く」がどっちが早かった? と聞かれたら、ちょっとよくわからない。

「書くことを前提としない遊び場妄想」は、間違えなく「書く」より先だ。

 

「書くことを前提としない遊び場妄想」が、なぜ書くことを前提にしなかったのか、それもよくわからない。

「これは書かないやつ」と、いつの間にかカテゴライズしていた。

こっ恥ずかしさもあったのかもしれないが、もっと大きなストッパーがあったように思う。

 

ところが、ここ三年、その「遊び場妄想」をもとにした物語を書くようになった。

コロナ禍にあって仕事量が減ったとき、いくつか新たな妄想が浮かび、わたしはそれを書こうとしていた。

うんうん考えるが、物語はいっこうに進まない。

そのとき、突然、「この登場人物たちは、『遊び場妄想』に出てくる人たちに似ていないか?」と気がついた。

「遊び場妄想」はすごくシンプルで、枝葉がない。

たとえるなら、「かっこいい人物が屋根にのぼって悪者をやっつけるのだ、ヤー! どうやってか知らんがかっこいい人物はかっこよく跳ぶ! 背景には満月、ドーン!」ぐらいのざっくり感だ。

 

それが、「書く前提の妄想」と合流したとき、急速に血肉をつけた。

この人たちには、こういうことがあったのではないか。こういうことをするのではないか。長年妄想していたシーンとシーンの間に、はじめてつながりが生まれた。

そしてそして、こうなっていくのではないか……と、妄想の「先」が生まれたのもはじめてだった。

原始のスープのようだった遊び場は消え、輪郭のある世界になった。

 

そうしたら、不思議とすごくラクになった。

 

そのときはじめて気がついた。

「妄想は楽しい」と思っていたけれど、出口のない空想を自分の中に抱えているのは、苦しかった。

「繰り返し同じシーンを楽しんでいる」と思っていたけれど、実はどこかに突破口を探していたのではないか。

出口のない妄想は、ずっとずっと、頭のどこかを常に圧迫していた。

外に出すことではじめて、想像力が羽ばたくこともある。

空想が先に進むのは、なんて楽しいことなんだろう。

 

あいかわらず妄想はするけれど、いまのわたしには「遊び場」はもうない。

「これは書いちゃダメ」「これは書く」と区別をつけなくなったし、思いついたらすぐにアウトプットするようになったからだ。

しいていえば、今はメモをするEvernoteや、作品を投稿するWebサイトが「遊び場」になっている。

とはいえ、日常的にやっていることといえば、思いついたらすぐにそのシーンをメモるだけ。上手く書けないことがほとんどだ。

それでも、「とにかく出す」ようになってから、妄想は「閉じられた、行き場のない遊び場」にはならなくなった。

どんどん開いて広げていくことが可能な、「拡張式箱庭」に変貌した。

同時に、いままでだったら「書く前提の妄想」にカテゴライズしていただろうな、というものも、腐らせなくなった。

「書く前提」とはいえ、いままでは頭の中に放置しっぱなしなことも多かったのだ。

 

人生で、いま、頭の中がいちばんクリアになっている。

「わたしの中の妄想を、わたしは物語として駆動していける」という(根拠なき)自信がある。

上手く書けるかどうかは別だ。人におもしろいと思ってもらえるかも別だ。

アウトプットしたからこその苦しみ、悩みもある。

それでも、書いたほうが楽しい。書いたほうが広がる。

 

これはごく個人的な話だ。

あんたの頭の中の妄想が何ラインになっていようが知ったこっちゃねえ、と思われることもあるだろう。

でも、人の頭の中のことってよくわからない。

わたしは人類がみな、物語があってキャラクターがいるタイプの妄想をすると思っていたけど、そうじゃないケースもあるみたい。

だから、だれかのごく個人的な話にだれかが共鳴することもあるはずだ。

それが自由に書けて、誰でも見ることができるインターネットの良さだ。

そう思って、いま、わたしはこのエントリーを書いた。

「妄想を書いちゃいけない」なんて、ない。

「書いていい妄想だけを書かなきゃいけない」なんて、ない。

想像だけしているよりも、たとえ不完全でも作ってみるほうが楽しいこともある。

何かを作ってみることで、人生が進んでいくこともあるのだ。

 

***

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北欧に行って、憧れのアーティストに会いたいんじゃい!

2014年末。わたしは次の年を心待ちにしていた。

 

2015年1月9日に、大好きなアーティストが来日公演することになっており、チケットも押さえていたからだ。

その名はRöyksoppロイクソップ)。

ノルウェーで1998年に結成されたエレクトロポップデュオで、2000年代初頭に「Poor Leno」などのヒット曲を生み出した。

 

「Poor Leno」Leno君がキュートでかわいそうなPV。

www.youtube.com

 

 

この「Eple」は、J-WAVEの名物帯番組だった「GROOVE LINE」でジングルに使われていたので、耳にしたことがある人も多いかもしれない。

www.youtube.com

 

レコード屋の店頭で、「マイナス15℃のエレクトロ」という、ちょっとどうかと思うPOPを見て試聴して以来、わたしは彼らの大ファンになった。

ロディアスで切ない楽曲の数々は、寒冷な北欧の気候を思わせるもので、わたしに大きなインスピレーションを与えてくれた。

アルバムが出るたび、わくわくしながらレコード屋に行き、絶対に購入するのにあえて試聴して、ニマニマしながらレジへ持っていった。

2006年の来日では、東京公演は平日だった。わたしは仕事上休めなかったため、週末の公演となった大阪・心斎橋のCLUB QUATTROまで足を運んだ。

2009年のフジロックには、彼ら目当てに一日だけ参加した。夏の夜、星空のもとで彼らの音楽を聴けたのは、とても幸福な経験だった。

 

そして、2014年。来日公演が発表された。

その年は、彼らが「音楽活動は続けるが、アルバムというフォーマットで楽曲をリリースするのは、これが最後」とアナウンスした一枚「The Inevitable End」が出た年だった。

したがって、2015年の来日公演は、日本で彼らを見られるラストチャンスとなる可能性があった。

わたしは2015年1月9日を待った。

しかし、コラボレーション相手であった歌手の諸事情により、公演はキャンセル。

たしか当時、Röyksoppからは「今回は残念だけど、必ず日本に来るよ!」みたいなコメントが発表されたはずだ。

で、大方の予想どおり、2023年現在、単独来日公演は果たされていない。

単独でなければ、2019年の年末にカウントダウンフェスのために来日した(DJ SET)のだが、 諸事情でわたしは足を運ぶことはできなかった。

行けなかったことは後悔しているけれど――。

わたしは単独公演が見たいんじゃーい! この極東の島国で待ってるからなッ! いつまでも!

 

と、魂の叫びはさておき、彼らはいまも活動をマイペースに、しかし精力的につづけている。

ていうか、いま気がついたのだが、2022年にアルバム出しとるやないかい。

 

彼らのSNSを見ていると、北欧やヨーロッパでは、頻繁にライブをやっているようなのだ。

なんだかんだ「マイナス15℃のエレクトロ」というキャッチに引きずられているのかもしれないが、わたしはいつか彼らの出身地で、彼らが生み出した音楽を聴いてみたいのだ。

本国ノルウェー、またはスカンジナビア三国あたりで聴くRöyksopp

そりゃーもうすてきにちがいない。

 

と考えているうちに、コロナ禍がやってきて、円安になって、海外旅行はなかなか難しい状況になってしまった。

わたしは「海外のひとたちは(日本人に比べ)社交に重点がある。そのため、マスクを外してしゃべり、イベントでは声を出すかわりに、コロナ罹患のもろもろのリスクを受け入れている」と考えているタイプなので、いまはまだ、海外に渡航することには抵抗がある。

 

しかし、チャンスも命も有限だ。やりたいことは早めにやっておかないと、簡単に「死ぬまでやれなかったこと」になってしまうことは、この年になるとうすうすわかってくる。

 

とりあえず、この記事を書く途中で知った、2022年発売のアルバムを買って、締め切りちゃんと守って原稿を書こう、そうしよう。今日、明日に出かけるわけではないけれど、スケジュールをちゃんとしておかないと、旅どころではないから。目の前のことからコツコツと。

 

そんなわけで、わたしはきょうも、オーロラ躍る北欧を夢見て生きている。

 

 

今週のお題「行きたい国・行った国」

***

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オーロラ@トロムソ ・ノルウェー - No: 25818581|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

このトロムソってRöyksoppの出身地なんですよ。フリー素材にあってうれしい!

 

大学受験で学んだ小論文は、なんだかんだライター仕事に役に立っています、てな話

受験シーズンである。


夫は以前にも書いたとおり、大学受験の延長線上で、ずーっと英語を勉強しつづけている奇特な人間だ。

確実に遠くへ行くために - 平凡

なので、「平凡ちゃんは高校生のとき、英文法はどんな参考書を使っていたの?」と何気なく尋ねることがある。

そんなもの、なにひとつ覚えていない。

「ふつう、受験のことなんて覚えてないよ。もう二十五年ぐらい前なんだよ」と答えていたが、振り返ればひとつだけあった。

 

小論文だ。

 

 

大学受験勉強中、わたしは小論文を書きまくっていた。

第一志望の大学は、受験科目が変則的で、英語、国語、小論文だったからだ。

細かい暗記ができず、世界史に悪戦苦闘していたわたしにとって、これはありがたいことだった。

さらに調べてみると、当時、いくつかの大学では、社会科と小論文を置き換えて受験することができるとわかった。

そこで、がぜん小論文に力をいれた。

というのはあとづけで、本音は小論文を書くのがおもしろかったからだ。

 

と話すと、「小論文が好きなんて、立派なご意見をお持ちだったんですね」的なことを言われるが、これは大いなる誤解のひとつ。

大学受験における小論文に、立派な意見なんていらない。むしろ、大言壮語すると「現実的でない」「高校生らしくない」と、点数が低くなる。

少なくともわたしの時代には、「意見」のクオリティや新規性は問われなかった。

ただし、今の受験ではどうなっているかわからない。ディベートなど、自発的に意見を発信する教育に力を入れているとしたら、もっと高度なものが求められている可能性はある。

 

では、何が大切かというと「型」だ。というか、型以外に必要なものなんてない。

どこで読んだのか忘れてしまったが、「大学受験の小論文は字数が少ないので、『起承転結』ではなく、『起・承・結』で書け」とあった。

なるほどーと書いてみると、これが気持ちよくハマる。

 

たとえば。

冒頭で、「何々は何々であるべきだ」「なぜならナントカだからだ」などと軽く結論を述べる(起)。

次に、なぜそう思ったか、卑近な例をあげる(承)。

最後は、「だから何々であるべきだ」と、「起」と同じ結論でしめる(結)。

 

「起」「結」が同じことを恐れてはいけない。

これは、歌にたとえるとわかりやすい。

たとえば物語性のある歌において、サビの歌詞がリフレインしても、一番と三番では違って感じるはずだ。

それは、Aメロ、Bメロなどの歌詞で物語が展開するから。

文章もそれと同じで、具体例を挟むと、結論が違って見えてくる。

 

「起」を、問題提起や疑問ではじめてもいい。その場合も「承」は具体例、「結」は結論となる。

 

手順としては、書けそうな結論をまず決める。

次に、書けそうな具体例を思い浮かべ、書けそうなことを時間内に書き上げる。

「書けそうな結論」と、サイズ感から先に決めているわけで、おのずと立派な論は出てこなくなる。

スピーチコンクールや弁論大会と違い、「立派さ」「キラリと光る独自性」は評価されないので、ちょうどいい。

なぜそのような加点減点傾向がわかったかというと、国語教育の専門誌の小論文添削コーナーに投稿していたからだった。

そこは丁寧かつぶっちゃけた添削を返してくれたので、「高校生らしからぬ壮大なことを書くとウケが悪い」ことなどがはっきりとわかった。

 

で、肝心の実戦たる大学受験だが……。

第一志望の大学は、小論文の出題設定が変わっていることで知られていた。わたしの年は、ある書簡が示され、「これに対する返事を書け」とかそんな問題だった……ような記憶がある。

何を書いたか、「起・承・結」を意識したのかも覚えていない。

対策とは……?

 

そんでもって、最近気がついたことがある。

そもそも小論文を書き始める前に、わたしに文章の「型」を教えてくれたのは、新聞の一面コラムではないか。

新聞の一面コラムとは、たとえば朝日新聞なら「天声人語」、産経新聞なら「産経抄」、東京新聞なら「筆洗」。

字数は時代によっても変わるけれど、どれも600字から650字と猛烈に短い。その字数のなかで「起承転結」がつけられているため、強引なことも多い。

だが、それだけに「型」がはっきり見えるし、「型」があれば強引であっても文章として成立することがよくわかる。

「型」があれば、どれくらい強引な展開でも読ませられるかの線引きも自然に学べる……かもしれない。

一定の年齢層の読み書き大好きっ子はたいていそうだと思うけれど、わたしは読書はもちろん、新聞を読むのも好きだった。

おそらく、一面コラムを読みながら感じていた「型」を言語化してくれたのが、小論文だったのではないか。

 

そんなこんなの受験生時代は遠くなり、わたしはいま、商業ライターをやっている。

近ごろ自覚したのだけど、わたしは仕事の原稿を書くとき、小論文の鉄則「起・承・結」をいまだにベースにしている。

お店やらなんやらの紹介に「起」も「承」もないような気がするけれど、「起」はどんな店かをビビッドに端的に、「承」では具体的サービスをさらに詳しく、「結」ではその結果こんな時間がすごせます、と割り振り、応用している。

 

三つ子の魂百まで。いや、小論文は三歳のときに学んだわけではないけれど……。

なんにせよ、こんなに高校時代に学んだことを使うなら、あのとき、もっともっと意識して文章の書き方を学んでおけばよかった。

いまからでも遅くないのだけど、やはり若いころに学んだことは、定着の仕方が違うのだ。

たとえば本多勝一の『日本語の作文技術』とか、あのころに頭に叩き込んでおけば……。

 

まあ、ともかく。

受験で学んだことや学生時代に夢中になったことは、長じて役に立つこともある。

役に立たなかったとしても、「役に立たないし、興味がないことにもまんべんなく、強制的に触れられる」のは、義務教育や高校での学習のよさだと思う。

三角関数はわからなくても、少なくとも世の中に三角関数が「ある」ことを知っている。三角関数は使いこなせなくても、測量に使われると聞いて、「ああ~、あれね」とわかる。それってすごく大事なことだと思うのだ。

 

受験は大変だけれど、がんばってください、と若い人にエールを送ってこの記事を終える。
なお、このブログ記事に「起承転結」はあるか……?

読者の方々があまり意識しないでいてくれることを願う。

 

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画像は写真ACより

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いまはいない、猫の話

今から8年ほど前。

まだ交際中だった夫とわたしは、「結婚しましょう」となり、互いの実家に挨拶に行くことになった。

事前に取り決めたことはひとつ。

それは、「実家にお願いして、昔のアルバムを引っ張り出しておいてもらう」こと。

アルバムがあれば、話も弾み、お互いの家族にとって“いい感じ”を作り出せる、という算段だ。

 

 

で、初夏の日曜日、履き慣れないパンプスを脱いで上がった夫の実家。

手土産のシガールを食べながら見せてもらったアルバムは、膨大な量だった。

というか、最初は一冊だった。

「平凡ちゃんは猫が好きなんだよ」

と夫がうながし、義母が持ってきてくれたのは、「フックン 1992年~1997年」というように、「猫の名前」と年代が書かれた一冊だった。

なんでも亡くなった義父はまめなひとで、家族の写真をジャンルと年代ごとにわけてアルバムに収めていたらしい。

つまりそれは、当時飼っていた猫「フックン」の写真が中心の一冊、ということだ。

開くとそこには、長毛でムスッとした「フックン」と家族の時間があった。

夏、みんながタンクトップやTシャツ、短パンでくつろぐ家族のテーブルの真ん中に、フックン。

もっこもこでムスッとした顔の長毛猫であるフックンを抱っこする義母。

庭で遊ぶフックン。

「うわー! かわいい! かわいい!」と、猫ならなんでもかわいく見えるわたしは大喜びでページをめくった。

収められているのは前述のとおり、家族の何気ない時間ばかりだ。それは、猫は家にいるのだから当然といえる。

猫を中心とした家族の日常の空気が、写真には閉じ込められていた。

 

「まだまだあるんだけど、見ます?」と、義母にすすめられるまま、わたしはアルバムを次々と繰りつづけた。

「フックンは抱っこするとすぐ怒っちゃう子で」

「でも、お義母さんは抱っこできてますね!」

「オカンだけが30秒ぐらい抱っこできたんだよな」

「パパ(義父)は紐でよくフックンと遊んでて」

猫の話題だけではなく、「このボードゲーム、あったなあ」と、写真に映ったほかの事物について話の花が咲くこともあった。

 

「ねえ、こんなに猫のアルバムばっかりでだいじょうぶ? ほかのものもご覧になる?」

と、敬語まじりで聞いてくれた義母に対し、

「いえ! むしろもっと見たいです!」

と勢いよく答えたが、いま思うとあれは、「いやいやいや、猫のアルバムばっかりじゃなくて他も見ようぜ」というフリだったのかな……と思わないでもない*1

 

「これが家に来たばっかりのフックンかな」

“中猫”ぐらいのフックンが、リビングの扉の向こうからのぞいている写真だった。

なんでもお金持ちの家に二匹目の猫として飼われたフックンは、先住猫ととの折り合いが悪く、いじめられていたのだという。

それを聞きつけた友人に、「あなた会ってみなさいよ」とすすめられたものの、義母は最初、気が乗らなかった。

「だって、会ったらきっと連れて帰ることになるから……」

そして、案の定、義実家の猫となった。

「最初はさ、遠慮して、廊下からのぞいてたんだよ」

「リビングに入ってきたとき、うれしかったのよね」

しかし、わりとすぐにソファーの真ん中でくつろぐフックンの写真が出てくる。

「いつの間にか、王様になっちゃったね」

その王様は、義父が亡くなってしばらくして、同じところへと旅立った。

 

そんなこんなで、結婚の挨拶はつつがなく終わった。

フックンのおかげといっていいだろう。

 

いまも、夫婦ふたりのとき、フックンの話題が出ることがある。

たとえば旅行から帰ったとき。

「旅行から帰ったら、フックンがオカンのベッドに粗相してたんだよ。それ以外、トイレに失敗したことがないのに」

「腹いせだね」

「いつもは『ニンゲンなんて知らん』って顔、してるのにさ」

 

いまはいない猫の話。

それが出るたび、わたしは「ああ、会いたかったな」と言い、夫は「会わせたかったよ」と返す。

そういえば、甥っ子も「フックンに会いたかったな」と、同じことを言っているらしい。

 

いまはいない、猫。会ったことのない、猫。

なのに、「夫の実家の一員」として、わたしの心にもいる。

それを思うとき、「犬や猫は家族ですよ」ということばが実感される。

 

きょうは2月22日の「にゃんにゃんにゃん」の日。

SNSには猫の写真が次々と流れていく。

フックンのように家でのんびりのびのび過ごす猫たちの姿を眺めながら、彼ら彼女ら、そしてニンゲンの家族がともに過ごす幸せな時間に思いを馳せている。

 

***

 

フックンについては、こちらにもチラっと書いています。

小さな継承 - 平凡

 

そうえいば、結婚の挨拶に、最初はアイスを持っていこうと思っていたんだった……。

「お義母さんって何が好きなの?」「アイスかな」 - 平凡

 

一方、ウチの実家での結婚の挨拶では……。母がスプーン曲げをはじめた、という話。

結婚の御挨拶は、両親も何かと緊張して大変だよね☆って話 - 平凡

 

***

画像は写真ACよりお借りしました。なので、フックンではないのです。

手を伸ばして寝る猫 サイベリアン - No: 25242827|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

*1:その後、猫以外の名前が冠されたアルバムもたくさん見せてもらった

非効率の極み。その名は創作

小説を書いている。

で、それをWebサイトに投稿していたら、長い作品になってしまった。

 

昨年12月に前の章の更新が終わったので、新章を書いている。

今回の章は込み入っているので、投稿しながら書き進めるのではなく、ある程度作り込んでから投稿を始めたいと思っている。が、それがなかなか仕上がらない。

前の章を書き始めたときから、「ここは難所になるな」と思い、並行して展開を考えていたのだけど、予想通り、ぜんぜんまとまらない。

ただ、投稿はじめて2年の経験で、「とにかく手を止めない」「作品世界にタッチする時間を長短を問わずキープする」「毎日書けるものを書く」「ある程度見えたところで、構成を考え直す」をやり続ければ、おのずと道は見えてくることだけはわかっている。

だから、根気強くやっている。

 

この「根気強く」が、超絶に効率が悪い。

 

まず、手元には、思い浮かんだものをバババと書いた40万字ぐらいのテキストがある*1

そこには、いちおうラストシーンまでが含まれているが、超絶ざっくりとしている。思い浮かばないところはヌケヌケ(空洞)状態。とにかく出力しただけのものなので、それだけでは形にならない。ラフのラフのラフのラフぐらい。

そのうえ、物語後半になるほど、空洞率は上がっていく。

 

新章に入るときは、まずは空洞を埋め、ひとつなぎになるよう試みる。しかし、なかなか空洞は埋まらない。そんなに簡単に埋まったら、そもそも空洞になっていない。ひとつなぎを試みつつ、壁にブチ当たったら、三幕構成などに当てはめたプロットを作り直し、整理し直す。これを繰り返す。

 

「じゃあ、はじめにプロット組めばいいじゃん」と思うのだが、それができない。

一回「ひとつなぎにしようと書いていく」努力を経ないと、「自分が何を決め切れていないか」「物語の何が足りないのか」がわからなさすぎて、そもそもプロットが組めない。というか、プロットを切りつつ、手が止まる。

書いているうちに、物語の問題点がわかることもあるし、「このキャラのことがわかっていない」「動機が薄い」と、キャラの問題が見えることもある。その場合、キャラクターの履歴書を改めて書き直すか、そのキャラクターが登場する(あるいは主人公の)ショートストーリーや会話集、あるいは(恥ずかしい感じの)モノローグを書きまくる。

そうすると、「あー、このキャラはこういうことをしたかったのか」と、空洞が埋まることもある。

キャラにフォーカスしたショートストーリーなどなどは本編に組み込まないことも多い。これまた超絶ムダ&回り道なのだが、今のところ、自分にとってはこれが一番、「キャラに血肉がつく」実感がある。

 

そういうことを繰り返していると、プロットが組めるようになる。プロットを組む中で、問題点やキャラクターの動機がよりはっきりとしていく。だから、それを繰り返す。

 

そもそも効率を考えるなら、前提が間違っている。

「べき」でいうなら、「書きたいことが原液出力された40万字を、人様にお出しできるものに整える」のではなく、プロット先行でやるべきだ。

 

間違っているが、この40万字はなんかしらんがすでに出力されてしまった。これを捨てたくない、なんとか読めるものに仕立てて最後まで書き上げたい、というのがモチベーションであり、欲求なのでしかたない。

人生には、愚かなことをする自由もある。

 

そうやって進めてきた新章を、年明けに三幕構成プラス「SAVE THE CATの法則」のビートシートであらためて整理したら、意外にイケそうだった。

主人公とヒロイン側の行動が混線していたのだけど、主人公に絞ってビートシートを切ったらとてもシンプルになったのだ。主人公は、苦境に陥ったヒロインを助けにいく。以上、終わり。

あとはヒロインの苦境の時系列を整理し、「とりあえず書いた」数多のエピソードからディティールを取捨選択し、悪役にしっかりとした動機をつける。そのセンで、「ひとつなぎに書く」をやっている。

そんなこんなで書いていると、「あっ、ここは主人公が渡りに船ではなく、もっとがんばって道を切り開いて次のステップに行かないとおもしろくないな」とわかる瞬間がある。

それがおもしろい。

悪役についても、上記のようなことを繰り返しているうち、「こんなことをやりたいんだな」「それを物語的におもしろく見せるには……」と、だんだん輪郭がはっきりしてくる。

 

いまのわたしは、適当に選んだ木をめったやたらに蓑をふるって彫刻っぽい形にし、「わたしが彫ったのではないのです。木の中にこの形が埋まっていたのです」と錯覚してドヤ顔してる、そんな状態。

もちろん、「わたしの意志ではなく、『木に秘められた形『を削り出したのです」といえる創作もあるだろう。

しかし、わたしはとてもじゃないけど、そんな境地に至っていない。

でもいまのところ、この作品についてはこれ以外できない。

せめてもうちょっと木材選んだり、彫り方考えてから事をはじめたい。次の作品を書くときは……。

 

「わたしはこんなふうにおもしろい作品をバンバン書いてアップしていますよフフフ」でもなく、「こうすればPV上がりませっせ」でもなく、「なんでこんな非効率なんだよう~」という泣き言に需要はない。

しかし、非効率だからこそ、このやり方は半年もしたら忘れてしまうだろう。で、その「今」を、どこかにとどめておきたくて書いた。

この章を書き上げれば、あとはエピローグ的な1~2章で完結する。やり方を整理し、「これしかできないんだから、やり続けるぞ!」とハッパをかけたい気持ちもある。

 

なんにせよ。

何かをつくるのは楽しい。

しかし、願わくばもうちょっと出力安定させて、プロットから短編をたくさん完成させて実力つける……みたいな方向性に舵を切っていきたいですね……*2

*1:ちゃんと数えたら、60万字ぐらいある可能性がある……

*2:創作での技術アップの基本は、短編をとにかく完成させることだと言われているので……

「生理の貧困」であまり語られないこと

「生理の貧困」という言葉がある。

言葉自体は、さまざまな原因で生理用品が買えない、不足している女性がいる事象をさす。

そういった女性にリーチするよう、生理用品を無料で配布するこころみが、いま、広がっている。

 

わたしの年齢のせいもあるかもしれないが、生理についての詳しい話は女性同士でもあまりしない。

正確にいうと、語られにくい領域がある、と感じている。

「重い」「多い」「今日ちょっとしんどい」といった愚痴はこぼすし、「この生理用品はよかった」と情報交換をすることはある。

一方で、生理にまつわる「失敗」についてはふれにくいところがある。

 

生理にまつわる「失敗」は、日常的なものだ。

男女を問わず、CMで「夜までぐっすり」「横漏れの心配ナシ!」といった表現が使われているのを耳にした人は多いだろう。

逆にいえば、「夜、心配になる」「横に漏れる」事態がありえるということだ。

生理は、経血、つまり液体が排出される現象である。

特徴は、その量、タイミングを各人でほとんどコントロールができない点*1

人間は眠るときは横になるし、歩けば足を動かす。また、長時間座ることもある。

生理期間中は、その間も経血、つまり液体が排出されつづける。

「わー! いま、出ないで!」と思っても勝手に出る*2

液体なので、寝ていれば後ろにつたうことがある。

運動をすれば、生理用品自体が動いて経血が横に漏れることがある。

そのうえ、経血が「多い日」ぐらいはわかっても、「この2時間で何ミリリットルの排出量がある」といった細かい予想はできない。

短いスパンでの排出量はランダムなものだ。

長時間の仕事中は、予想外の経血の量に対応できないことがある。

睡眠中はそもそも寝ているので、生理用品を取り換えることはできない。

そうした要因により、使っている生理用品のキャパシティを経血が超える、または生理用品の位置がズレるなどすると、寝巻や寝具、洋服、椅子が経血で汚れることになる。

この記事で生理の「失敗」と呼ぶのは、そのような事態だ。

 

あまり語り合ったことがないのでわからないけれど、自分でコントロールできないにも関わらず、こういった「失敗」は、女性の心を凹ませる。

すくなくともわたしは凹む。凹むというか、自尊心を削られる。これはあまり書きたくはないが、排泄を失敗したかのような情けなさがある。

経血がついた服や寝具を洗うのは、なんともいえない嫌な気分だ。

これが外出中であって、仮に服を汚したまま歩いていたとしたら――。相当なダメージになる。

 

「失敗」は、ある程度、生理用品を組み合わせれば防ぐことができる。

ごつくて長い夜用ナプキン。

昼用には、夜用ほどの長さはないけれど、中央部分の吸収力が高い「多い日用」。

最近話題の、ナプキンと組み合わせるソフィボディフィット。

タンポンを使える人なら、タンポンとナプキンを組み合わせ。

本当に不安なときは、下着一体型のナプキンを使う手もある。

便利ではあるが、これらをシーンごとに組み合わせようとすると、それなりに金がかかる。

一番安いものは「ふつうの日」の名前で売られているものだ。20枚ほど入って100円を切る。

が、夜用になれば安いもので20個入りで300円超。

経血の量は人それぞれなので、夜用にもいろいろあって、長くてしっかりしたものだと14個400円程度はかかる。

(これらの値段は、自らの記憶とネットで調べた価格をもとにして書いているので、ざっくりである)

1カ月に1回の生理のため、複数種類を揃えておく。危ないと思えば、高めのものを迷わず投入する。

それである程度の安心は「買える」。

ちなみにいろいろ用意しても、失敗の確率は下げられても、0%にすることはできない(わたしは)。

 

一方で、父子家庭で生理用品がほしいと口にしづらい、または家にお金がないのがわかるから、お小遣いで生理用品代をまかなっている未成年の女性がいる。

食べるにも困っている大人の女性がいる。

そういった女性にとって、こういった組み合わせにお金をかけ、多様な生理用品を揃えることは、難しい可能性が高い。

経血が多い日には2時間程度で吸収力がなくなる「ふつうの日」。

その一種類で、一週間ほどの生理の全期間をしのぐかもしれない。

その「ふつうの日」すら満足に買えないかもしれない。

買えても使用枚数を相当、ぎりぎりまで絞るかもしれない。

その結果、起きるのは「失敗」かもしれない。

 

お金がない、言い出しづらい。そのために、生活必需品であるはずのものが買えない。

最低限買えるけれど、それは「安心」を買えるほどではない。

「生理用品が買いたい」と言い出しにくい状況にある子どもが、服や下着、寝具が汚れたとき、どこでどんな気持ちで洗うのか。

長時間働く大人の女性が、「ふつうの日」しか使えなかったら。外出中、不安で仕方ないのではないか。

 

「生理用品がなくて困る」とは、より具体的に言うならそういうことだと、わたしは想像している。

当事者の心理はさまざまであると思う。

「わたしたちは、生理用品が不足するくらいで、凹んだりしません。なめないで」というひともあるかもしれない。

が、すくなくとも「生理用品の無料配布」が広まる背景には、先ほど述べた「失敗」「困難」へのシンパシーがあるのではないか。

 

生理は人それぞれ。

つらさの強度や種類、量、日数。

同じ人物であっても、10代、20代、30代とその実態は変わっていく。

だから、女性同士であっても、共感し合えないこともある。

「生理の貧困」へのコメントで、「わたしは20個100円の生理用品で乗り切るので、1カ月100円ですよ。生理用品を買えないなんて甘えじゃないですか」といった声も見かけたことがある。

でも――。生理はほんとうに人それぞれなのだ。

そして、生理は未成年時代からはじまり、平均50歳の閉経までつづく。

女性たちが置かれている状況もさまざまだ。

 

「生理の貧困」とはいっても、「生理用品が不足する」とはどういうことか。

どういう事態が起こり得るか。

そこにはあまり触れられることがない。

理由はなんとなくわかるし、複数想像ができる。

わたしには、「『失敗』があることや、『恥ずかしい』と思っていること自体を、知られたくない。口にしたくない」という気持ちもある。

 

女性が知られたくないことに対し、よこしまな想像を膨らませる人もいる。

中年女性であるわたしに対して、そのような想像が向けられることを恐れているのではない。

わたしが語ったことをもとにして、若い女性に対し、そのような視線をもつ者が現れることを危惧している。

実話誌に、「女子アナ生理日予測!」という記事を見かけたときの衝撃を、わたしは忘れたことはない。

我々にとって生々しく不快で、性のファンタジーとは程遠いあの生理を、性的なものとして見る者が、あるいは秘匿を暴く喜びを感じる者がいるのだ。

 

それでもやはり、「生理の貧困」が話題になるなか、こういった内実は、男女問わず共有されてもよいのではないか。

それが、「生理の貧困」の解消につながるのではないか。

そんな希望をもって、この記事を書いた。

「生理の貧困」の解消は、自尊心を支える活動であると、わたしは思っている。

富める者も貧しい者も、老いも若きも、「たかが生理」と思える世の中を、わたしは望んでいる。

*1:腹に力を入れればある程度コントロールできるという者もいるが、全体的に見れば、「コントロール不可能」とみなしたほうがいいと思う。コントロールできる派も、入浴時など限られたタイミングの話をしている場合が多いように思う

*2:ついでにいうと、この感覚がめちゃくちゃ不愉快。性にまつわる現象として、生理と射精を並べて語るケースを見かけるが、ここが射精とは違う。どんな状況であっても、経血が出るのは不愉快であって、快感にはなりえない。あと、生理は自然状態であれば、開始も終了も、経血の排出も、何もかもが常時コントロール不能なところも違う

好きではないはずの、冬のよろこび

寒さに弱い。当然、冬は好きではない。

 

 

ただでさえ寒い一月、大寒のころ。

その名の通り、超級の寒波が来るという。

東京でも水道の凍結の恐れあり、と報が流れる。

うちは外に洗濯機が設置してあるため、めんどくさいな~と文句を言いつつ、凍結防止の対策をする。

といってもシンプルなこと。

タオルを細く切り、蛇口に巻きつける。

隙間ができないように、くるくると。

ダメ押しで、その上から切ったTシャツの袖をかぶせる。

あまったところは、洗濯ばさみできゅっととめてやる。

やっていると、なんだか愛らしいな……という気持ちになってくる。

まるでちいさな存在に、「寒くないように」とマフラーを巻き、ついでにショールでくるんでやっているような。

とくだん蛇口をいとおしく感じるわけではない。

ないのだが、なんというかこの行為自体、愛らしく感じるのだ。

モヤっとした、非実在の、概念としての、愛らしさ。

 

寒波が去ったあと、水道をひねると、いつも通り水が出た。

それは凍結防止のタオルのおかげではなく、東京の気温が予想より高かったせいかもしれない。

それでも、なんともうれしく、やはりいとおしさがわきあがった。

 

暮らしの中で、四季の移り変わりに合わせて、ごくごく原始的な対策を講じる。

人間の力及ばぬ自然の力を感じつつ、「乗り切れますように」と祈りつつ、何かをする。

東京のマンションに住んでいると忘れがちなその営み自体に、いとおしさが含まれているのだろう。

もちろん「いとおしい」なんてのんきなことが言えるのは、自然の驚異を感じることが少ない南関東の都会暮らしだからこそ、ではあるのだけど。

 

 

そういえば、この冬は、大根の葉で作るふりかけにハマった。

きっかけは、ある日、持ち帰ることが大変なほどにわっさわっさと葉をつけた大根を買い求めたこと。

いままでは、葉をわざわざ調理するのがめんどうで、葉付きのものは避けていた。

が、ここまで立派だとさすがに食指が動く。

しかも価格は100円。

さっそく葉を切り分け、王道のふりかけにすることにした。

何しろボリュームがすさまじく、洗って刻む下処理は予想通りめんどうであったものの、葉は火が通りやすく、調理自体はごくごく簡単で短時間なものだった。

そうしてできあがったふりかけは、わずかな苦みと、やわらかな味わいがあって、なんとも美味しかった。

この味なら、多少の「めんどくさい」など吹き飛んでしまう。

ご飯にかけ、おにぎりにし、惜しみつつ食べ切ったある日。

夫婦で散歩中、直売所で見つけたのは、丸くふっくらとした蕪だった。

その先には、我々が求めてやまない青々とした葉がついている。

しかも価格は150円。

料金入れに硬貨を入れた後、夫は蕪を持ち上げ、「蕪っていうより、この葉がうれしいよね」と笑顔を見せた。

この「うれしい」は、我々夫婦がこの冬、見つけたもの。

寒さの賜物だろう。

大根の葉と同じレシピでふりかけを作ったところ、蕪のほうが大根よりもクセがある。

しかし、そのクセこそが我々の好みだということもわかった。

寒い季節には、寒い季節の喜びがあるものだ。

寒いのは、やはり嫌ではあるけれど……。

 

根菜類の値段が上がり、加えて立派な葉付きは見かけなくなった近ごろ。

散歩ついでに以前の住まいふきんへ足をのばしたところ、なじみの精肉店に行き当たった。

ここの肉は、スーパーの底値ほどは安くないけれど、気軽に買える価格帯で、何より料理の味を底上げしてくれるほどに美味しいのだ。

ふらりと入り、豚小間肉やひき肉など、使いやすいものをグラム指定で買い求める。

計り売りなので、「150グラムを2袋」と分包してもらえるのも、使い勝手がよい。

マイバッグに入れて、意気揚々と家路につく。

何しろこの寒さだ。

肉がいたむ心配がないから、急ぐこともなく歩く。

この肉の美味しさを引き立てるのは……やはり炒め物だろうか。

冷蔵庫にあるのは玉ねぎ、白菜、キャベツの残り……。

頭の中ではそれらを組み合わせる、献立スロットが回りつづけている。

 

近所の並木にさしかかる。

見上げた枝の先には、ふくらみがある。

2月に入ると、どうしたって風は春の気配をまとう。

どんなに寒くても、においが違う。肌への当たりが違う。

それらは完全なる冬のものではない。

すくなくともわたしが暮らしたことのある、関西や関東の太平洋側では、そのようなリズムで季節が移ろう。

 

 

寒さは嫌いだ。

春が待ち遠しい。

でも、あとちょっと、ほんのちょっとだけ、寒くていいかな。

またあのお肉屋さん、行きたいし。

みっしり巻いた白菜だって、真冬だけだし。

ちぢみほうれん草も、まだ一回しか食べてないし。

そんなことを考えながら、好きではないはずの冬の一日が終わっていく。

 

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大根の葉やかぶの葉のふりかけは、以下のレシピで作っています。シンプル!

大根の葉のふりかけ | 瀬尾幸子さんのレシピ【オレンジページnet】プロに教わる簡単おいしい献立レシピ

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凍結の写真はぱくたそよりお借りしました。

鋭くとがった湧水公園の氷柱のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210352063post-33118.html

 

大根の画像は写真ACよりお借りしました。

家庭菜園で育てている大根 - No: 25175258|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK

 

梅の画像は自分で撮影したもの。