平凡

平凡

4月点描

5月になりました。まさに風薫る季節。ゴールデンウィークもなかなかの好天でしたね。というわけで、4月の振り返りを。

 

 

4月は忙しくて、何か書いていないと気持ちがグラグラしたので、一時期はブログを毎日更新をしていました。何か書いてお出ししていると、精神が安定してよかったです。時間的にもネタ的にも、ちょいと頑張って書くぐらいがちょうどいいのかも。

 

4月といえば、新クールのアニメがスタート。チェックでわたわた。

 

そして、これは4月に限った話ではないのですが、人生ではじめて大河ドラマを見続けています。とはいえ、すでに計2話見逃しているのですが……。

毎週日曜20時は『鎌倉殿の13人』待機。そろそろ権謀術数が大事な局面に差し掛かってつらい展開が増えてきました。4月は上総介広常の壮絶な最期が描かれました。最後まで見届けられるでしょうか。

本筋とはそれますが、合戦シーンが大胆に省かれることに驚いています。あの……馬が坂を駆け降りてくるやつ、実際には見せないの……⁉

 

驚いたといえば、4月に書いた記事では、『継母だけど~』感想は、アップした当日から検索エンジンからのアクセスがありました。

https://hei-bon.hatenablog.com/entry/2022/04/23/073000

いまもコンスタントに検索流入があります。とはいえ、このブログですから。アクセス数が多いといっても、あくまで「当社比」。

Googleで作品タイトルで検索するとネタバレ含む紹介ブログが多数ヒットするのですが、感想は意外と見かけない。その辺がよかったのか、あるいは「ストーリーが知りたかったのに!」と、即ブラウザバックされているのか。

で、今こそこの記事の「直帰率」と「滞在時間」をチェックしたいのですが、Googleアナリティクスでデータが拾えません。アナリティクスの方式が変わるとかなんとかで「いち早く対応しちゃうぞ~☆」と変更したら、やりかたを間違えていたらしく、拾ってくれなくなりました。「撤退もまた勇気なり」と戻してみたものの、それも間違えていたらしく、うまくいかず。困っております……。

 

おまぬけな事情はさておき、当ブログで「長期間コンスタントにアクセスがあり、滞在時間から察するにしっかりと読まれいている」記事といえば、『月曜日の~』の感想なんです。

https://hei-bon.hatenablog.com/entry/2018/04/06/080000

『継母だけど~』の感想も、同じような記事になってくれたらうれしい。同じ作品を好きな人に見てもらえる可能性があるのは、夢があります。

※この記事内で作品名を省略しているのは、検索に引っかからないといいなあという祈りです。

 

4月ははてなブログ運営が、以下の2エントリーで「人柄が見えるブログ」をプッシュしていていいなあと思いました。「人らしさ」と「日常」はまさにわたしが個人ブログに求めること。

ブログを読むのは、そこに「人らしさ」があるから - 週刊はてなブログ

他人の日常を垣間見ることができる「純日記」の魅力を伝えたい - 週刊はてなブログ

「純日記」タグで、気になるブログを見つけやすくなってうれしいです。

わたしは「●月●日何をした」形式の、日記らしい日記を読むのはとくに好きです。自分自身書いているのはそういった形式のものではないのですが、あこがれがあります。みんなもっと日常を垂れ流していこ! と常に思っています。他力本願。

そんなわけで、「役に立たないブログ記事は、検索でヒットすると人の迷惑になるぅぅぅぅぅ??? 人の勝手だよ!」とふだん思っているわたしですが、当ブログでもおそらく「検索で来たもののがっかり直帰記事」(PVがコンスタントにあるけれど直帰率100%滞在時間0秒)がありまして、そうすると「すんません」という気持ちになる。生き様を貫く難しさを感じます。

 

そういえばブログとは別に、「毎日1行でも書く」を積み重ねている文章がありまして。たいていこういうのは「『1行でいい』と思って書き始めると、1000文字ぐらいは書いちゃうものですよHAHAHA」とつづくものですが、わたしはマジで1行しか書かない日もけっこうある。それでもなんとか形になってきたかもと思っていたのですが、ところがどっこいそんなに甘くなくて、4月の終わりからぐじゃぐじゃとやり直し。ブログの記事もこっちも、さっさと公開して数撃ったほうがいいんだろうなと思いつつ。

 

私的な文章と仕事の文章はまったく異なり、よい相互作用を感じることはほぼないのですが、「粘り強く題材やモチーフにふれ続ける、思考を割く時間を増やすことで打開できるものがある」は仕事で得た確信かもしれません。仕事で思考が必要な論考とか書いてるわけじゃないんですが、お店紹介でもなんでも、何かが引っかかって書けなくなっちゃうことがあるのです。あきらめずやっていきます。

 

4月はリアル書店でたくさん本を買いました。なかでも『現代ロシアの軍事戦略』『ベリングキャット ――デジタルハンター、国家の嘘を暴く』『独ソ戦』は集中して読めてよかったです。この3冊を選ぶきっかけになった現実は、まったくよくありませんが。感想はまた一エントリーにまとめるかもしれません。

最近はもっぱら電子書籍派になり、「置き場所を考えないので気楽に買えて、書籍代はかさむが読書量も増えた」と喜んでいたのですが、それでもやっぱりリアル書店はいい! 衝動的に欲しいものをガンガン買い物かご(物理)に放り込む喜び! ハードカバーガンガン買って、樋口一葉福沢諭吉が飛んでいく! 最高~~~!!!!!

と、なんだかハイになってしまい……。

もちろんそのあと、お財布を見て気持ちが沈むのですが、ページを開けば一変。「こんな知識や情報がわかりやすく書かれて1000円以下⁉」とか、「2000円払えば、こんな遠く離れた国の物語を自分の母語(要するに日本語)で読めるなんて」と思うわけで、読書道とは絶え間なきアップダウン。この「書籍の価値」は電子書籍でも変わらないはずですが、物理書籍のほうが強く感じます。

それと、図書館で借りたり返したりを繰り返していた絶版資料本を「日本の古本屋さん」でついに購入。手元にある心強さを感じますが、財布には心もとなさを感じます。

 

振り返ると、これでええのか人生? という感じがありますが、とりあえず、5月も元気に生きていこうと思います!

 

画像は《春らしい野花のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20170558142post-11584.html

昭和洋食幻想

豚のステーキ肉が安い。グラム99円だ。これ幸いと買ってきた。

今日の夕食の調理担当は、夫だ。

オーブンのグリル機能で肉を焼き、天板の空いたスペースにきのこ類を並べてつけあわせに。

焼いている間に大根をすりおろし、しそを添える。ついでにこの前、撮影に使った柑橘類もカットしてみる。カットしてなお、ライムだかすだちだかよくわからない。よくわからないけれど、なんだかおしゃれに見える。ソースは作らず、各自ポン酢を大根おろしにかけるだけ。玉ねぎだけが具材のコンソメスープとご飯と並べてできあがり。

 

簡単なのだけど――。

皿にステーキ状の肉があるだけで、なんだか外食っぽさが出る。シンプルだけれど、薬味がいろいろあるのも“外”っぽい。「“夫シェフ”の料理って感じだね」と言いながら堪能する。

それにしてもシンプルなコンソメスープというものは、昔ながらの洋食店を思い出させる。そうそう、こんな味あったなあ……。

「どうせなら、ご飯もお茶碗じゃなくて、平たい皿に盛ればそれっぽかったね」

夫も同じことを考えていたようだ。

「せめて、フォークでご飯食べちゃお」

箸も出したけれど、置いておく。

「気分出るね」

「『こまくさ』気分だね」

 

「こまくさ」というのは、夫が子ども時代に家族で行ったという洋食とステーキの店だ。親戚の子が来ると、みんなでこまくさ。ちょっとしたご馳走というわけだ。

「『こまくさ』行くと、ステーキの前に、まずはスープが出て、サラダが出て……。スープはやっぱりあのちょっと平たい皿でさ」

わたしはもちろん、「こまくさ」に行ったことはない。が、なんとなくその雰囲気や店の位置づけは理解できる。夫やわたしが子どものころ、ステーキハウスというほど専門性はなく、しかしステーキがメインの、ちょっとお高い洋食店というものがたしかにあった。

おしゃれではない。子どもを連れていけるぐらいの雰囲気で、それでいてそこはたしかにご馳走を食べるための場所だった。高級店ではないけれど、お値段はそれなり。

わたしたちはそこではじめて体験したのだ。メインディッシュの前にスープとサラダが出てくるサーブ形式。やや大きめのスープスプーンでスープをすくって口へと運ぶこと。そして、ナイフとフォークを使い、どきどきしながらステーキを切った。

 

「デザートには、脚付きの金属のカップでアイスクリームが出るんだ」

もちろんアイスはちょっと小さめの半球形だろう。わたしはそのカップのひんやりとした感触を思い浮かべる。きっと幼い夫も、その冷たさを楽しんだことだろう。

「平たいあのスプーンで食べるんでしょ」

「そうそう! 四角いやつ」

こういった幻想を共有するとき、夫とわたしは同年代同士なのだなと思う。

 

「今度このステーキを作るときは、忘れず平たい皿にご飯を盛ろう」

「ライスって感じになる」

「デザートにアイスも用意しようよ」

さすがに金属製のカップは無理だけれど。

ムーディーというにはただ薄暗い店内。テーブルクロス。そんなにきらめいたりはしない、使い込まれたナイフとフォーク。

外食がいまよりもっと高価で特別だったころ、それでいておそらくいまよりもっと質が低かったころ。肝心のステーキの味は、いまひとつ思い出せない。

蛍光灯の下、家庭の食卓にグラム99円の豚肉を並べて、わたしたちは昭和の洋食を幻視する。それもまた、家庭料理のひとつの喜びなのだと思う。

 

写真は《銀のナイフ・フォーク・スプーンのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20220105031post-38654.html

未知なるもの、犬。そして夕暮れ。覚悟がある者だけが得られるものについての話

晴れた休日なので、ドッグランへ行く。

ちなみに我が家に犬はいない。

犬が遊んでいる姿を、ただ眺めに行くのである。

平日、すっきすきの公園でドッグランをじいっと見ている人間は不審者だが、おりしもゴールデンウィーク

人々はわんさわんさと大きな公園へと詰めかけ、お子さん連れは「わんわんだよ♡」などと犬を見せるために柵の周りに滞留し、我々の存在をかき消してくれるに違いない。

果たして、予想は当たった。

ドッグランの周囲には、犬連れも家族連れもおり、我々のような“犬なし”がベンチに座っていても不審には思われない。

「だいぶ歩いて疲れちゃったね」などと言って腰を下ろす。

 

まず目に入るのは、か細いシルエットが特徴の、イタリアン・グレイハウンド*1の一団だ。

同犬種の集まりがあるのかもしれない。飼い主さんとともに5~6匹がいる。

被毛が短く、体が細いために寒がりなのだろう。めいめいお洋服を着ているのがおしゃれだ。

トレーナー生地のぶかっとした洋服はセレブがトレーナーを着こなすがことし。被毛に近いグレーの服を着ていても、それはそれで渋くてしゃれている。

しかし、いったん犬同士で追いかけっこがはじまると実に俊敏。

やはり猟犬なのだなと思わせる。

 

イタリアン・グレイハウンドをぼんやり見ている間、ふさふさした長毛の犬が柵のまわりを何周か巡っていった。

たぶん、シェットランド・シープドッグだ。

同じ家から来ているらしいチワワがときどきじゃれつくが、まったく意に介さない。

新たにドッグランに入ってきたフレンチブルドッグに尻をかがれても、静かに無視する。

ドッグランの広い敷地のなか、柵の内側を、トコトコぐるぐる。

視線は柵の外側に向けているが、特定の人間や犬を見ているわけではない。

表情は明るいけれど、それはいわゆる哨戒のように見えた。

ときどき「脅威ですよ! 脅威を見つけましたよ!」と吠え、そのたび飼い主さんにたしなめられていた。

牧羊犬の習い性なのかもしれない。

 

シェットランド・シープドッグのほかにも、やはり柵の内側を回るものがいる。

垂れ耳が地面につかんばかりというか、ほとんどついちゃってるバセット・ハウンドだ。

我々夫婦が「押井守犬」と呼んでいる犬種である。

シェットランド・シープドッグと違うのは、こちらはひたすらに地面のにおいを嗅いでいること。

ほとんど顔も上げずに嗅ぐ、嗅ぐ、嗅ぐ。

こちらもほかの犬にも人間にも目もくれない。

違う地域でときどき見かけたバセット・ハウンドも、散歩中は同じようにしていた。

鋭い嗅覚を利用し、小動物の狩りに使役されていたというのも納得だ。

 

ところで、我々夫婦はともに子どものころから猫派であり、猫しか飼ったことがなかった。

そんな我々が、猫以外の動物に“目覚めた”のは最近だ。

猫を飼いたいが諸事情で飼えないうち、動物はたいていなんでもかわいく見えるようになってしまった。

 

そうやって興味を持つうち、犬は犬種によってかなり性格が違うことを知った。

なかでも、「みんながみんな、人を見れば大歓迎のフレンドリー犬ではない」というのは大きな驚きだった。

犬に対する解像度が低すぎだろ、というツッコミは覚悟のうえだが……。

印象的だったのは、ある犬特集ムックの犬種別飼い主座談会ページだ*2

柴犬の飼い主が、口をそろえて「うちの子は帰宅時のお出迎えをしたことがない」と言っていたことだった。

ざっくり分けても和犬と洋犬でかなりの性質の違いがあるし、さらには犬種関係なく、個々の性格の違いもある。

調べていくうち、たとえばネグレクトにあった犬などは、散歩を怖がるケースがあることも知った。

散歩では、大人、子ども、車、オートバイ、小型犬、大型犬。さまざまなものと行き会う。

それらとすれ違って平然とするためには、相応の社会化が必要であるらしい。

ドッグランでほかの犬と仲よく、自由に遊びまわっている犬たちは、みな大切に育てられ、社会性を身につけているのだろう。

 

「犬っておもしろいねえ」

「かわいいねえ」

それは上澄みなのだろう。

ドッグランを見ながらそう言い合う我々は、その上澄みの下にある飼い主さんと犬の日々の暮らし、しつけ、努力を知らない。

 

ともあれ、今日のドッグランでは、犬種ごとのちがいを堪能できた……ような気がする。

「今日見た子たちは、“働く犬”として品種改良された犬種だよね」

「飼うのはなかなか大変そうだねえ……」

我々は、無責任にそうつぶやく。

 

未知なるもの、犬。

未知だからこそ、一度は共に暮らしてみたい気持ちもある。

しかし――。

引きこもりがちな我々に、散歩でのふるまいなど、社会化を必要とする犬を飼養することができるのだろうか。

賃貸派の我々だが、集合住宅で無事に犬を飼えるものなのだろうか。

結局は、覚悟の問題なのだ。

そうこうしているうちに、「動物よりも我々のほうが絶対に長生きできると確信して飼い始められる年齢」のリミットはせまってくる。

 

そういうもろもろをベンチに置いて、我々は立ち上がる。

「犬、かわいかったねえ」

シェットランド・シープドッグとチワワ、家でもあんな感じの片思いなのかね」

他愛ない話をしているうちに日がかたむき、夕暮れがせまる。

我々はまた一日、年を取る。

 

 

《勢いよくダッシュするイタリアングレーハウンドのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210319063post-33777.html

*1:イメージ画像の犬

*2:たしか「BRUTUS」から出た、2016年のムック

もしも英語が使えたら、世界じゅうの猫と出会えるだろう。しかし……

小さなころから猫好きだ。

猫グッズや猫の写真がプリントされた文房具やカレンダーを買うことが多かった。

しかし、不満がひとつ。

「もっと自然な猫ちゃんが見たい!」

「子猫ばかりが、名前のある種ばかりが猫ちゃんではない!」

子猫はかわいい。

そりゃなんとか種の猫ちゃんもかわいい。

しかし、いつもいつもふわふわ甘々子猫ちゃんがよちよち遊んでいる姿とか、

スタジオセットでペルシャ猫かスコティッシュフォールドが中空を見つめている姿を求めているわけではないのだ。

繰り返すが、そういった猫ちゃんもそりゃかわいい。

しかし、たまには寝ているだけとか、香箱座りしているだけとか、あるいは丸まって寝ているだけとか、ふてぶてしい顔とか、シャーッと威嚇している猫ちゃん、そんな自然な姿も見たいのだ。

猫種だってもっといろいろフィーチャーしてほしいのだ。

わたしが“ふつう猫”と呼んでいるいわゆる雑種だって、三毛猫サビ猫黒猫、キジシロサバトラキジトラ、いろいろいる。

年齢だって子猫、若猫、猫ざかり、老猫と千差万別の魅力がある。

 

約20年以上前だと、そんな心のすき間を埋めるのは、せいぜい「猫めくり」はじめ、日めくり系のカレンダーぐらいだった。

思春期のころは小遣いはたいて、「ねこめくり」と海外の輸入ものの日めくりを買い、とくにいいと思った日のものをデスクマットに入れて保存したり、無印良品のノートの表紙に貼り付けたりしていた。

 

そんな状況が一変したのは、インターネットが普及してから。

まず、ブログが登場した。多くの人が、自分が飼っている猫のなにげない写真を投稿しはじめた。

SNSが普及すると、それはさらに加速した。

毎日、毎時間、自分のうちの何気ない動物の写真を、飼い主さんたちがアップする時代に突入。

いま、人類(動物好き)は、人類史上かつてなかった量の動物写真を目にしているのではないだろうか。

何気ない写真の数々。

しかし、それは動物を飼っていない人間にとっては、「飼っていないからこそ絶対に見ることができないお宝写真」なのだ。

そんなものが全世界で毎分、毎秒投稿されているのである。

動物好きのうれしい悲鳴が聞こえるではないか? 

 

新たにフォローする動物アカウントを探す方法のひとつは、国内外で配信されている動物ニュースだ。

それらはたいていSNSを参照して作られている。

「とてもおもしろい動きをしてバズった猫ちゃんニュース」を開けば、元になったそのアカウントもわかる。

当然、フォロー。

で、その猫ちゃんがたとえば保護された子だったとする。

その保護団体がいい感じだったら、そこもフォローする。

その団体から譲渡された猫ちゃんの里親さんが、SNSアカウントを作る。

そのアカウントもフォローする。

「あらあら、あんなちっちゃかった何々ちゃんがこんなに猫かわいがりされて……!」。

チェックするアカウントはどんどん増えていくのだ。

 

そんなふうに見つけた猫ちゃんの一匹が、Pennyちゃんだった。

何かの動物ニュースで知ってフォローしたカナダの保護団体。

そこがある日、ふわっふわ長毛のハチワレ猫を保護した。

とてもキュートだが、飼い主から飼育放棄にあったとかなんとか。

8歳以上と目されていたが、獣医に連れて行ったところ、13歳ぐらいではないかと判明。

 

そんなPennyちゃんの里親が決まり、開設したInstagramのアカウント名は「pennys.retirement」。

英語のニュアンスは正確には汲み取れないが、「楽しい隠居生活を送ろうね」といった里親さんの思いが伝わってくるようだった。

爪の間まで毛がふかふかで人なつこいPennyちゃん。

糖尿病の持病もあるが、よくケアされているのだろう、年齢をまったく感じさせなかった。

そんな彼女が里親さんに溺愛されている姿は、見る者を幸せにしてくれた。

しかしPennyちゃんはこの前、15歳の生をまっとうして亡くなった。

 

そう、大SNS動物アカウント氾濫時代は、わたしたちが「直接知らない、それでもお隣さんのペットのように親しみを覚えている動物たちの死に多く向き合う」時代でもあるのだ。

そのことにはうすうす、気がついていた。

ブログで一世を風靡した不思議顔のまこが亡くなったときか、大型犬の富士丸は急逝したときか。

「ああ、この子たちも亡くなってしまうのか……。あたりまえだけど、考えたことがなかったな」

おそらく、動物ウォッチャーたちの多くはそういった体験をどこかでしているのではないだろうか。

 

「死に向き合う」なんて書いたけれど、それは便宜上。

わたしはアカウントを眺めているだけで、ほんとうに向き合うのは飼い主さん家族だけだ。

それでも逝ってしまった存在を哀しみ、悼むことはできる。

そして、画面ごしに毎日見ていた動物たちが逝くその喪失に、慣れることはない。

 

Pennyちゃんの飼い主さんは、いまもときどき、思い出の動画や画像を上げる。

Pennyちゃんはたしかに生きて、とても愛されていたんだな、とあらためて思う。

 

いまや世界じゅうに散らばった、“知り合い未満”の動物たち。

快適な環境でかわいがられ、そして彼ら、彼女らとの暮らしを人間たちが楽しんでいるようすを見ると、心が和む。

そう、わたしが動物SNSを追いかけることで得ているのは、しあわせのおすそ分けなのだ。

そして、海外のアカウントを見るときは、「英語ができたら、このしあわせいっぱいの投稿をもっと理解できるのにな」と思うことがある。

だから、「 #もしも英語が使えたら 」のわたしの答えは、「海外の動物SNSアカウントをめっちゃめっちゃ見まくって読みまくりたい!」だ。

とくにTwitterはテキスト主体なのとしゃれた言い回しをする人が多く、理解が難しい。

 

動物が死んだとき、「虹の橋を渡りました」というのは日本語も英語も共通で、英語圏だと略して「OTRB」と書くこともある。

英語がより理解できたなら、胸が締め付けられることもきっと増えるだろうけれど。

 

 

写真は《キャットウォークで爆睡にゃんこのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210843243post-36481.html

嗚呼、人生カードゲーム

ぜえはあ。めっちゃ息が上がっている。

ももを上げて、あと一歩。それだけのことが次第に難しくなってくる。

わたしは先を歩く男性に声をかける。

「えっと、そこ……そこからの眺望を撮ってください」

山での撮影中なのであった。

カメラマンさんは冷静にカメラを構えて撮影する。

その間、わたしは膝に手をあて、息を整える。

――メモしなくちゃ。ここからの眺望は抜群です、とか……。なんというありふれた表現! いやいや、これは疲れているからであって。

と、ポケットから取り出したボールペンが転がる。

しゃがんで拾おうとすると、脚が震えた。

――生まれたての子鹿のよう。

なんて紋切り型なんだ。

 

わたしはなんでも屋的なライターをしているので、ときには「プチ登山に行こう!」のような記事を書くことがあり、そうすると上記のような事態におちいることになる。

わたしは心の中の「ライターにあったほうがいいもの」リストに「体力」を書き加える。

 

また別の日。わたしは“物撮り”*1の現場に立ち会っている。

繊細な布地から値札シールをはがしたり、高級な茶碗を桐箱からそーっと出したり。

撮影が終わると、返却のために現状復帰も必要だ。

桐箱はたいてい、「真田紐」と呼ばれる紐で結わえられている。

ネットで検索して見よう見まねで結んでみるが、なかなか上手くいかない。

わたしはまた、心の中の「ライターにあったほうがいいもの」リストに「器用さ」を書き加える。

 

振り返ってみれば、器用さについては、たびたび「あったらいいな」と思う機会があった。

ショップの店員をしていたころ、わたしのラッピングを見ていたお客から「申し訳ないけれど他の人に変えてほしい」と言われたとき。

日雇いバイトで回転寿司店に派遣されたときもそうだ。

ソフトクリームを絞り出してテーブルに運ぶと、「ソフトクリームがきたぁ!」と目を輝かせていた子どもが、(なんか違う……)という顔をした。

それもそのはず。ガラスの皿の上にあるのは、なんだか平べったく、不規則にとぐろを巻いた何ものか。見本とはずいぶん違う*2

 

幼いころは、器用さなんていらない、と思っていた。

たとえば、何度やっても鶴のくちばしが鋭角にならない折り紙。

大人の手前、絶対に口にはしなかったけれど、内心、

――なんで紙なんか折らなきゃいけないんだろう。これからの人生にいらないでしょ。苦手なことは、得意なことでカバーすればいいし。

と思っていた。

実に嫌な子どもである。

長じてわかったが、折り紙は遊びでもあり、「神経を通わせて指先まで体をコントロールし、外部のものに力を加えて変化させる」技能の訓練でもある。

折り紙に前向きに取り組んでいたら、わたしの不器用さが改善したかはわからない。

けれど、手指の器用さはあったほうが、何かと助かるのはたしかだ。

そして、「人より劣っている点を得意なものでカバーする」は、できるときとできないときがある。

そのうえ、本気で一生カバーしたかったら、めちゃくちゃ秀でないといけない。

筋肉疲労に震える脚について、「生まれたての子鹿」とか言っているようじゃダメなのだ。

 

そんなわたしだけれど、書くことによっかかって、どうにかこうにかやっている。

できないことも、「あったらいいな」も際限なくあるけれど、「そこそこ得意なことで、食いぶちを稼ぐ」はギリギリ叶っている。

得意なことで食いたかったわけではないけれど、社会の崖から落っこちたわたしの衣服をひっかけてくれたのが、ライティングという仕事だった。

あぶないあぶない。

 

また、仕事で予想外なものが必要とされることもあれば、仕事とは無関係にやっていたことが案外役に立つこともある。

たとえば、きものを着ていた経験。

撮影後のきものをたたんだことで、編集さんからいたく感謝されたことがあった。

 

「この職業には、こんな能力があったほうがいいですよ」といった文章は世の中に溢れている。

そこで取り上げられるのは、セオリー通りのものと、「その職業で不要と思われがちなもの」が半々ぐらいだろうか。

わたしが「ライターにあったほうがいいものはなんですか?」と聞かれたらなんと答えるだろう。

体力、器用さ、コミュニケーション能力……。

でも、実際、それらが不足しているけれど、わたしはライターをやっている。不足しているからこそ、「あるといいな」と思って上記の要素を上げている。

 

きっとどんな職業に就くにしても、なんだってあったほうがいいのだ。

 

それを考えると、人生はカードゲームのようだと思う。

手持ちのカードは限られており、状況は刻々と変化する。その状況を見極めながら、できるだけいい手を作る。

ないならないなりに安い手を作るか、ゲームによってはなるべくダメージが少ない負け方を模索する。

もちろん、人生はカードゲームと異なる点も多々ある。

そのひとつが、努力により、手持ちのカードを多少は補強できるところだ。

 

そんなことを考えつつ、わたしは脚の筋肉痛に悩まされている。

そう、努力でカードの弱さを多少は補強できる、はず。

よりよきライターになるため、わたしは「リングフィットアドベンチャーの負荷をひとつ上げよう」と決意するのであった。

 

 

 

写真は《同じ数字を場に出すハウスルールのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20210130025post-33102.html

*1:物撮りについてはこちらにいろいろ書いています。みんなで作るのって楽しいね - 平凡

*2:その店ではソフトクリームはホール担当が作って運ぶことになっていた

『継母だけど娘が可愛すぎる』がおもしろ過ぎてつらい

「突破口」ってあると思う。

一作お気に入りの作品ができると、そのジャンルに一気に開眼するような。

 

 

 

たとえばわたしがいま、ウェブトゥーン(縦読み漫画)をよく読んでいるのは、『継母だけど娘が可愛すぎる』にハマったのがきっかけだった。

 

『継母だけど娘が可愛すぎる』はピッコマ連載のウェブトゥーン。

主人公が物語の中の悪女に転生する“悪女転生もの”のひとつだ。

子ども服のデザイナーをしていた主人公は過労死をし、目が覚めると『白雪姫』の継母に転生していた。といってもグリム童話のガチ『白雪姫』ではなく、設定はオリジナル。「『白雪姫』の継母のように、義理の娘につらく当たっていた女性に転生した」と考えるとわかりやすい。

主人公が転生した*1アビゲールは国王であるセイブリアンの後妻。絶世の美女だが笑顔は怖く、主人公が転生するまでは、義理の娘・ブランシュにつらくあたり、使用人に当たり散らして恐れられていた。夫であるセイブリアンとの関係は冷え切っており、それがアビゲールの苛立ちに拍車をかけていた。

アビゲールに転生した主人公は、ブランシュの可愛さに夢中に。元子ども服デザイナーの血が騒ぎ、「いつかわたしがデザインしたドレスを着てもらいたい!」と興奮する。しかし、それにはまずふたりの関係を改善せねばならない。これが主人公の第1ミッションとなる。

一方、主人公は冷血な夫・セイブリアンには興味がない。「よく知らない男の人と隣で寝るのも落ち着かないしなあ」と考え、寝室を別にすることを提案し、距離を置く。

 

ブランシュの好みを知ろうとドレス選びを盗み見た主人公は、衝撃を受ける。コルセットとパニエを着けるドレスが主流の時代にあって、動きやすさや成長に合わせた“子ども服”は存在しない。あくまで子どものドレスは大人のものの縮小版。成長期にあっても窮屈なコルセットを着けるため、ブランシュは食事制限を強いられている。おまけに気弱なブランシュは教育係の顔色をうかがい、自分の好みをはっきり口にできない。

たまらず主人公は割って入り、「ブランシュが健康で幸せに育つより大切なことはない」と言い切るのだった……*2

 

ここでおもしろいのが、ところどころに挟まれる主人公の過去だ。

ブランシュの教育係は「高貴な身分であっても、見た目がそぐわないと誰も耳を傾けてくれませんよ」と発言し、主人公はこれにも「そんな古い時代の考え方を」とショックを受ける。

そして思い出すのが、自らの過去だ。ブサイクと呼ばれ、「女は見た目に気をつかえ」と言われ、見た目が悪ければ結局、面接に落ちると女友達にもアドバイスをされる。

どれも断片的な描写なのだが、「主人公がどんな思いを抱いて生きてきた人物か」はよく伝わってくる。

 

『継母だけど娘が可愛すぎる』に限らず、ウェブトゥーンの女性向け作品は、こういった”女性の生きづらさ”を一要素として盛り込んでいるものが多い。加えて生きづらさは克服すべき一大テーマとして表現されるのではなく、たいてい「ただ、そこにあるもの」として描かれる。

 

たとえば現代が舞台のウェブトゥーン『子供ができました』は、そのタイトル通り、妊娠した女性教師の物語だ。ただし、お腹の子の父親は、やけになって一夜をともにした行きずりの男性。しかし、この男性が財閥御曹司のスパダリ(金持ちでなんでもできるスーパーダーリン)で、主人公にベタぼれしたからさあ大変! スイートな事態が巻き起こる……という糖分高めのお話だ。

基本はスパダリ溺愛激甘展開なのだが、ところどころに「妊娠した女性の職場でのいづらさ」や、「女性教師が妊娠したときの産休の取りづらさ」が顔をのぞかせる。

ラスト、臨月間近になった主人公は、スパダリのおかげで常識的な時期に産休に入ることができる。それについて以下のようなセリフがある。「今、産休に入れるのは陽平さん(スパダリ)のおかげ。去年妊娠した数学の先生は主要教科だから言い出せなくて、臨月まで働いていましたよね。私が産休に入れるのは合理的配慮とは言えません」。

スパダリに愛されて特別扱いされてよかったねではなく、これは特例であると主人公が言い切るのだ*3

 

もうすこしライトなものだと、主人公が口の悪い悪女に転生する『その悪女に気をつけてください』の浮気についての描写がある。主人公には浮気者の婚約者がいるのだが、悪女ゆえ、「女に問題があるから、あの婚約者は他の女に走るのではないか」と噂される。それを聞き知った主人公は、「現実世界でもこんなのあった! 男が浮気するとなぜか女のせいにされるのよね」と怒る*4

 

いまあげた3作品ともに、取り上げられた問題は根本的に解決するわけではない。かといって、消化不良に感じたり、後味悪く感じたりもしないのがウェブトゥーンの特徴だと思う。ウェブトゥーンは縦スクロールでサラッと読めるからか、全体の味わいが薄い、というより“淡い”感じになる。

コマで割った従来型の漫画のほうが味わいは格段に濃いし、メリハリがはっきりしている*5。その“濃さ”で社会問題を出すとなると、がっちり取り組むか、落としどころを探らないと、読者に不満が残るように思う。起承転結がはっきりしているからこそ、問題が提示された以上は解決編が必要とされる。解決しないと不満が残り、かといって解決方法が非現実的だと白けてしまう。現実的かつ不満が残らず、「いい話だったな」と思わせる落としどころが難しい。

 

ウェブトゥーンは淡い。それゆえ、「ああこんなことあるよね」「主人公は身近な不満を抱えているんだ」と親近感を抱きつつも、他の展開に目を奪われ、流さるように読まされる。問題が直接、または根本的に解決しなくても、そのことよりも「わたしたちもよく直面している問題が取り上げられた」身近さのほうが先に立つ。

もちろん、ウェブトゥーンには“淡く夢中で読ませる”技術があるはずだ。ただ、それは従来型の漫画とはまったく違った技術なのだと思う。

 

ただし、ピッコマ連載のウェブトゥーンの多くは韓国のノベルサイト「カカオノート」作品のコミカライズ(かつローカライズされ、主人公の名前などが日本名になっている*6)だ。なので、この特徴は韓国版女性向けWebノベルのものなのかもしれない*7

 

話を『継母だけど娘が可愛すぎる』に戻そう。この物語のすごみは、“男性の生きづらさ・プレッシャー”も登場するところだ。ネタバレになるので詳細は書かないが、33、34話である真相が明かされる。この手の問題に押しつぶされる男性と、その後の苦しみを正面から描いた作品はそう多くないと思う。

主人公が「継子であるブランシュと仲よくなりたい」と考えるのが第一のミッションなら、第二のミッションは「女性だから」「男性だから」の重圧に傷ついた者同士が出会い、家族になっていくこと。

と書くと深刻そうだが、物語のタッチはあくまで軽く、明るい。何より絵がポップで可愛らしい。

現在、本編は45話まで公開中。第三のミッションは、主人公をライバル視している女性と主人公の間に連帯を築くことなのではないか……と思わせる展開がつづいている。このライバルの女性が抱える問題は、33話、34話で明かされた真相のまさに裏表。めちゃくちゃ期待してしまう。

 

ウェブトゥーンは淡いからこそさまざまな社会問題をサラッと織り込むことができ、淡いものを積み重ねることで心にうったえかける*8

ウェブトゥーンの女性向け作品でわたしが魅力を感じるのはそんな点で、それがもっとも顕著に表れているのが『継母だけど娘が可愛すぎる』なのだ*9

 

ピッコマのオリジナル漫画は基本、週一更新。『継母だけど娘が可愛すぎる』の更新日は金曜日で、このエントリーを書いているのも金曜日だ。本当なら新エピソードをなめるように読んでいる曜日に、何をしているのか?

実はこの作品、3月18日更新から5週に1回の休みがはさまることになり、今回がその5週目なのだ。毎週毎週続きが気になって、「翻訳サービスにぶっこんで、原作の小説を読めないだろうか」と画策しているほどなのに!*10

『継母だけど娘が可愛すぎる』がおもしろ過ぎてつらい! つらすぎる!

というわけで、同作ひいてはウェブトゥーンの魅力を書き散らすことで気をまぎらわせているのだった。

 

この作品、(おそらく時代考証もそれなりにされている)ドレスのデザインの可愛さ、ロマンティックなシーンの色づかいなど、まだまだ魅力があるので、気になった方はぜひ。基本、会員登録なし・無料で読めます(3話まではいつでも無料、あとは24時間に1話ずつ無料で読める「待てば無料」。最新の10話ぐらいは常に有料だけれど、連載が続いている間なら、順繰りに無料になっていく)。

piccoma.com

実は気になり過ぎて調べるなかで最終回のネタバレを踏んだのだけど、全体を通してルッキズムを扱ってきた同作らしい結末で、よけいに期待が高まる結果となった。とはいえ、おそらくコミカライズの最終回はまだまだ先のはず。

早く来週になれー!

 

画像は《カフェで洋書を読む女性の手元のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20180712206post-16892.html

 

ーー

各回感想を書き連ねますが……

55話

アビゲールの死にさいしてのひと言の真相。そうだろうなーとは思っていたけど、はっきり語られるとぐっと来る。「きっと私も同じ道を辿るのだろう」が重い。アビゲールとセイブリアン、気持ちを打ち明けられる仲になったんだなあ。よかった。

 

56話

鳥が「スチャッ」って立ったところがかわいくて笑った。アビゲールに褒められるとめちゃうれしそうなレイブン。いままでどんなふうに生きてきたのか。彼の真意はなんなのか。ときどき思うのですが、レイブンとカリン様がくっつくと一番ややこしくなるよね、このお話。

 

57話

王の執務椅子に座らせて足を……って、これは究極ではないですか? セイブリアンの愛と崇拝。それに対してふつうに「そんなに汚れてないのに」と言うアビゲールがまた尊い。そしてお姫様抱ーーーっこッ!!!!! スイーーーート!

 

58話

閑話休題回。誕生日プレゼントがなんともブランシュらしい。ブランシュ、ちょっと大人っぽくなった? 次回からはブランシュの結婚問題話が始まるのかしら、という前振り。

 

59話

大人ブランシュかわいい! わたし、『白雪姫』をなぞっているのは最初だけ、みたいなことを書いたけれど、いちおう「原作」設定として生きているんですね。なんで強国の王であるセイブリアンが弱小国の姫・アビゲールと結婚したんだろう? とは常々思っていたけど、そこにちゃんと触れるんですね。

 

60話

最高でした。国益のために徹する、冷たく強い王として振る舞ってきたセイブリアンの隠された真心。最高でした。最高でした。最高でした。それに打たれるアビゲール。最高でした。これ以上書くと「最高でした」botになってしまう……!

 

61話

確実に深まっていく、セイブリアンとアビゲールの関係。食卓でひそやかに表情だけでかわす会話……。胸にぐっときました。ブランシュは父親が大好きだとときどき公言していた気がするけど(アビゲールとセットで「大好きなおふたり」と表現するとか)、愛されていないと思っているのか。切ない。義母の来訪で波乱の予感。でも、この親子3人ならきっと大丈夫と思える!

 

62話

夫婦同室一夜目の話。最初はセイブリアンかわいそうでは? と思ったけど、セイブリアンはそんな予想をくつがえして……。いい父、いい夫になったね。このふたりらしい、そして十二分にスイートな展開でした。恋愛感情があるのはたしかだけれど、家族としての仲の深まりも大切にしている。この作品のそんなバランスが好き。

 

63話

冒頭のセイブリアンの独白よ……。王の“責務”に押しつぶされた男性が語る、望まれない女児が生まれた日の話。彼がどんな目で娘を見守ってきたか。娘に対し、「嫌いではない、愛情もある、でもどう接していいかわからない。王族として生き抜けるように強くあってほしい」と彼なりに考えていたんだなと胸が苦しくなる……。そしてついにやってきたおかーさま。この人は、絶対にいらんことをするという予感に満ち満ちている!

 

*1:『継母だけど……』は、一度毒殺された人物に、現世で死んだ主人公の人格が入ったケース。生きている人物に主人公の“中身”が入る場合などは憑依と呼ばれることもある。たいていは元の人物の記憶がうっすらと残っている状態で、人格は完全に主人公のものとして行動する。この手のジャンルに慣れないうちは、そこの塩梅がわからなかったが、なんとなく読んでいるうちに理解が進む

*2:食事制限をされているのを知るのはマナーレッスンの回なのですが、そのあたりの展開をひとまとめてにして書いています

*3:ついでに言うと『子供ができました』の縦軸を貫くメインテーマは実はスパダリとの関係ではなく、主人公と実母との関係改善。「こういう物語だから、どうせすぐに『実はお前が大事だった』とか実母が言い始めるんでしょ」と思っていたら、ラスト付近まで母親は冷たいまま。ラストも完全なる解決ではなく「お母さんと一歩歩み寄れた。今までのことは許せないけど、それでいい」と主人公が考えるところが生々しかった。また、主人公は理不尽なことを言われたら冷静に・本人に言い返す女性なのだけれど、言い返したことで反感を買ったり、不利な状況におちいったりと、こちらも「スカッと系」「ざまぁ」ではなく、リアル路線。女性向けウェブトゥーン作品は「ざまぁ」ではないものが多い。そこもわたしは好きなポイント。『継母だけど娘が可愛すぎる』も、人に嫉妬された主人公が、「わたしが嫉妬されることがあるなんて」「でもあんまりうれしくはないな」と考えるシーンがある。

*4:『その悪女に……』は、小説の世界へ転生しており、20話前後で小説のヒロインが登場。そのヒロインと主人公が連帯していく熱い展開を見せ、主人公がどんな悪女であろうとしているかが確立。そこかがらぐんぐんおもしろくなっていく

*5:逆にウェブトゥーンのノリで従来型のコマ割り漫画を書いたら、出汁が効いていない味噌汁のように味気ないものになるはず。また、コマ割り漫画のメリハリをウェブトゥーンに持ち込むと、それはそれで疲れてしまうと思う。そういう意味でもジャンルが違うのだ

*6:Netflixで人気を博した『梨泰院クラス』の原作が、日本語訳では『六本木クラス』になっているのがその一例

*7:さらにいうと、わたしは日本で発表された「なろう」系の女性向け異世界恋愛は限られたものしか読んだことがなく、少女漫画の読書量も少ないため、他作品をよく知らないだけという可能性もある

*8:読み口としては叙情的な小説や文芸小説に近いものがある

*9:男性ものはまた違った世界が広がっているように思う

*10:韓国のWeb小説は1話ずつ課金が基本らしく、原作を読むなら決済も必要になる

みんなで作るのって楽しいね

協同作業ができない。

ひとに歩調を合わせたり空気を読んだりができないからだ。

これは一匹狼でやったるぜい! ということではなく、単純にいろいろ足りないものが多いのだ。

お互い個性が強いであろうアーティスト同士がコラボレーションなどしていると、「すごいな。やはり才能ある人は、人とコミュニケートできるのだ」と思う。

 

 

ところでわたしはライターをやっており、ゴールデンウィーク前のこの時期は、大規模な物撮り撮影が入ることが多い。

物撮りとは字の通り、「モノを撮影すること」。「物撮り撮影」は重複表現であるが、わかりやすさ優先ということで許されたい。

 

「物撮り」当日のおおまかな流れはこうだ。

撮影するモノをスタジオに集めて、編集さんとカメラマンさんが構図を決める。

そこにスタイリストさんが加わることもある。スタイリストというと洋服のイメージが強いけれど、テーブルコーディネートやフードのスタイリングをするプロフェッショナルもいる。これはライターになって理解した。

スタイリストさんは、あらかじめ聞いていた撮影内容に合わせて、お皿や果物、小道具を用意してくる。大荷物から次々といろいろなものを出して、使用イメージが伝わる小粋な「絵作り」に貢献する。

構図が決まると、次々と撮影していく。少しアバンギャルドな置き方をしてみたり、光の加減で立体感を強調したり。カメラマンさんは適宜背景やライティングを変える。それを手伝うアシスタントさんの動きは尋常ではなく速く正確だ。

 

ライターのわたしは、商品チェックがメインの仕事だ。紹介する商品を手に取って、質感や形、色をたしかめる。原稿の“素”としてファーストインプレッションをメモするため、ノートには「ここのくびれの形、優美! 優美! ゆうび! どうやってんのこれ?」「透明感が透明! すげー透明」とどうしようもない文言が並ぶ。必要あればサイズを測って控える。

実物を見ることは大切だ。それに加えて、「実物をよりよく見せる写真」が目の前で撮られていくプロセスを目の当たりにすることで、インスピレーションが湧く……こともある……かもしれない。

 

ライターの仕事がそれだけのこともあるけれど、たいていは撮影物の荷解きや梱包も手伝う。撮影が終わったものを過不足なく揃え、丁寧に包み、宅配便で返却するものは伝票を書く。撮影が終われば、編集さんと手分けしてずんずんとそれを進めることになる。

 

協同作業ができないわたしが、唯一「みんなでいっしょに作っている」と感じられるのが、こういった大規模な撮影時だ。

編集さんのディレクションのもと「すてきなもの」をセレクトし、ほうぼうから集める。そのすてきなものを、スタイリストさんやカメラマンさんが腕によりをかけて魅力的に見せる構図を考え、撮影する。わたしはそのすてきさをたしかめ、メモをする。

すてきなものが無事に帰路へつき、ほんとうに愛でてもらえる場所へ旅立てるよう、みんなで頑張って梱包をする。

 

こういうときに思い出すのはカフェ取材のことだ。

コーヒーに力を入れている店の方は、たいてい「わたしたちはいちばん川下だから」と言う。

コーヒーは豆がどんな農園でどう栽培されているかがまず大切。いらない豆をピッキングするにも技術がいる。焙煎も味への影響が大きい。その豆を挽いて、抽出して、お客さんにお出しする。

「コーヒーが飲まれるまで」という名の川では、生産者が川上、カフェはもっとも川下なのだ。

川上から真ん中までみんなでバトンをつなぎ、よい豆をさらに美味しくしてきたのだから、川下でしくじるわけにはいかない。

「わたしたちはいちばん川下だから」は、そういった覚悟と誇りがにじむことばだと思う。

 

一方、わたしが関わる「物撮り」はどうか。集めるモノは、たいてい職人さんが丁寧に作ったとか、アーティストの方々が技術と感性を注ぎ込んだとか、そういうものだ。素材自体も天然の何かをものすごい時間をかけて加工したものや、日本で何人しか加工できない何かを使っているなどが多い。

それをよりよく見せる。すてきなものをすてきに見せて、読者に「こんなふうに使いたいなあ」と思ってもらえるようにする。物販の川下には、「ショップで魅力的に見せる」というメインストリームがある。わたしたちがやっている仕事は、川下のいわば支流だ。プロが集まってひたすらそれぞれの仕事をして、川上からの流れをより加速させる。

協同作業ではあるけれど、川沿いにそれぞれが立ち、作業をしている感じ。だからわたしにも流れが見えやすいし、心地がよい。

 

川の支流にはつづきがあって、撮影後、編集さんは画像をデザイナーさんのところへ持って行ってレイアウトを作る。わたしは撮影時にメモした内容をもとに「なぜこれはすてきなのか。どのようにすてきか」が伝わるよう、原稿を書く。そうして「雑誌記事」という川の支流は河口までたどりつく。河口で待っているのは読者だ。

 

わたしはこの、「ひとつの魅力的なものにそれぞれでスポットライトを当て、盛り上げる」という仕事が好きだ。

その楽しさを素直に書いたところ、タイトルが小学生の作文のようになってしまった。

 

体力ゲージ極少のライターとしては疲労困憊するけれど、それでも物撮りはやっぱり――ええと、やっているときはモノが揃うか、この仮止めは取って撮影していいのかなどなど気をもむけれど――終わってみると楽しいと思う。

カフェの方々のように覚悟と誇りを持てているかはあやしい。でもやっぱり、写真を見て、文章も読んで、「うっひょ~! 世の中にはすてきなものがあるなあ!」と思ってもらいたい。

川下で、モノに光を当てて魅力を見せる「スポットライト係のひとり」になれたら幸せだなと思う。

 

写真は《飛魚の仙ヶ淵(景勝地)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20200545133post-27394.html

川ということで……