平凡

平凡

インターネットの片隅に

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そのホームページにどうやってたどりついたのか、もう覚えていない。

なつかしのHTML手打ちタグで作られた「いたばしのホームページ♪」。

トップページにいくつか並んだバナーから、「掲示板」をクリックすると、

多くのひとが集まり、他愛ない世間話や仕事の愚痴を書き込み、交流していた。

そこを毎日訪れ、ただ、彼ら彼女らを見る。

当時、わたしの日課はそれぐらいだった。

その掲示板が単なる雑談交流用と違っていたのは、

掲示板にやって来た人が、開口一番、

「きょうも一日、やらずに乗り越えました」と報告することだ。

そして、サイトのトップページには、

掲示板」と並んで、「カウンター」というバナーがあった。

そこには掲示板で見かけるハンドルネームがずらりと並び、

「開始日」と「その日から今日までの日数」が「禁パチ日数」としてカウントされていた。

そこはパチンコ依存症者のための、相互互助の掲示板だった。

 

当時のわたしは無職だった。

それも、クビになってのパーフェクト・無職。

「雑誌の編集者をやってみようかなあ」

「文章を持ち込むのもいいかもしれない」

友人に会うたび、いろいろなことを言い散らかしたけれど、いまひとつ行動には結びつかなかった。

というか、動けなかった。

ほんとうのところ、何をしていいのか、まったくわからなかったのだ。

働いたほうがいい、働くべきだ。

動け、とにかく動かなければ。

それはわかっていた。

でも、就職活動ではさんざん苦労をして、新卒でやっと入った会社をクビになった。

正直、前を向いて何かをしよう! とは思えなかった。

さらに悪いことに、「動けない自分」にも気づいてはいなかった。

動けばなんとかなるはずだ。

とはいえ、どうやって動けばいい?

 

わたしは毎日漫然とネットをさまよい、

月に2回だけ、失業手当の手続きをしに、ハローワークへ足を運んだ。

わたしがパチンコ依存症サイトに通うようになったのは、

そんなフワフワした日々のなかだった。

 

そこでは、皆が「今日も一日、行かない」をスローガンに、がんばっていた。

小さなきっかけでギャンブルにハマる。

ハンドルを握っている間だけは、無心になれる。

何も考えなくていい。

派手な音楽も、思考停止させてくれる。

サラ金のATMから吐き出されるお金が、銀行の残高のように感じられるようになる。

やがて借金を重ね、金を借りられなくなる。

家庭を、職を失う、または失いそうになって、「これはヤバい」と悟る。

それをいわゆる“底尽き”という。

底を尽いて、はじめてパチンコから遠ざかろうとする。

しかし、それが難しいことを悟り、困り果て、検索するうちに、互助サイトにたどり着く。

 

そこではじめて同じ悩みをもつ仲間に出会い、

「やめた一日」をカウントするためのカウンターに登録し、

日々、掲示板で交流を重ねるようになっていく。

 

掲示板に集い、積極的に発言するひとは、おおむね真面目だった。

「パチンコさえしなければね」と言われるひとが、

パチンコを全力で止めている。

そんな印象だった。

彼ら彼女らは、依存対象にもう一度手を出す“スリップ”をした仲間がいれば励まし、

“スリップ”を繰り返す仲間がいれば、ときに厳しいことばを投げかけた。

「トイレがしたくなっても、パチンコ屋には絶対に入らない」

「“自分はどれぐらい耐えられるようになっているか”を試そうと、パチンコ屋には近づかない」

そのように、“スリップ”しないためのノウハウを共有し合っていた。

「パチンコにハマっていなければ今ごろ、こんな未来もあったのにと、どうしても悲観的になってしまう」

などの相談に、「気持ちはわかる。でも、進むしかない」と同じ立場からの共感を示して答えていた。

 

「依存症は病気である。だから、意思の力だけでは治らない」

「依存症患者の家族は借金の肩代わりはぜったいにしない。底を尽かないとやめられないから」

「依存症の家族がおちいる共依存状態」

依存症のこと、ひいては家族の問題について、多くのことを知った。

 

そのころは、そういったパチンコ依存症の相互互助サイトが複数あった。

サイトの主催者と気の合う、少数のメンバーだけが集う家庭的な場所もあれば、

カウンター登録者が膨大で、主催者の顔があまり見えない巨大な都市のように場所もあった。

「いたばしのホームページ♪」はその中間だった。

 

借金を背負っていても、職がなくても、一家離散の危機に瀕していても、

わたしから見ると、彼ら彼女らは「やめる」という選択をしていた。動いていた。

それが、わたしにはまぶしかった。

だから、目が離せなかった。

 

そういった互助サイトの勢いに翳りが見え始めたのは、いつごろだろう。

都市のように大きかったサイトが、つぶれた。

既婚の主催者に交際を持ちかけられたと女性参加者が暴露したとかなんとか、そんなスキャンダルがきっかけだった。

参加者に衝撃が走る間もなく、主催者は一夜にしてサイトを閉じた。

その影響で、「いたばしのホームページ♪」にも多くのひとが流れた。

 

しかし、「いたばしのホームページ♪」に集うひとたちも、転機を迎えつつあった。

主催者の「いたばし」氏をはじめ、古参の参加者たちはパチンコから離れてひさしくなり、

アドバイスの頭に、「パチンコをしたいという気持ちがもうわからないけど」とつくようになった。

「最新の機種が射幸心を煽る」といった情報が書き込まれると、「俺らには、今のことはよくわからない」とこぼした。

そして、インターネットの世界も様変わりしていく。

 

 

わたしがそのコミュニティをつぶさに見ていたのは、いつまでだろうか。

失業手当が切れて、さすがにヤバいと焦ったわたしは、たこ焼き屋の前に置いてあったタウンワークを手に取った。

わたしなりに、底が尽いたのかもしれない。

大きな雑貨店での年末年始の短期バイトに応募すると、採用にいたり、その後、1年半ほど働いた。

動いてはじめて、自分が精神的に追い詰められていたことを知った。

動けば、なんでもできると思っていた。

でも、わたしはそもそも動けなかったのだ。

怖くて、足がすくんで。

 

接客のバイトは好きだった。ひとにも恵まれた。

しかし、上の立場になれば、いずれはマネジメントが主な仕事になる。

わたしはマネジメントにまったく興味がもてない。

ここには未来がない。

転職を決意した。

今度は、だめ元でライターになろうと思った。

編集プロダクションを見つけて応募すると、採用にいたった。

フリーター期間を経て、わたしはようやく歩きはじめることができたのだった。

 

その間に、ブログが「日記サービス」に取ってかわった。

やがてmixiが台頭した。

掲示板での交流は、すたれていった。

「いたばしのホームページ♪」も、「役目を終えた」といつしか閉じた。

 

いま、検索しても、パチンコ依存症のための相互互助サイトはほぼ見つからない。

Google検索のアルゴリズムが変わったせいもあるかもしれないが、

ほとんど存在しないのだと、わたしは思っている。

 

いまのひとが依存症に悩み、「やめた日数をカウントしよう」と思ったら、

なんらかのアプリを使い、その結果をTwitterなどに投稿するのではないか。

一方的につぶやき、気まぐれにリプライし合う。

掲示板よりずっとゆるくて淡いコミュニティになるだろう。

 

あれから20年近くが経った。

掲示板に集っていたひとたちは、何をしているだろう。

いたばし氏がときどき日記に書いていた娘さんは、とっくに成人したはずだ

シングルマザーで看護師を目指していた女性は、目標を叶えただろうか。

スリップを繰り返してやけを起こしていた女性は、立ち直れたのか。

 

唯一、足跡がわかるのは、いたばし氏のサイトに出入りしていたプロの物書きの男性だ。

自分の人生について、家族について、業界について、ブログをときどき更新していた。

ときにはダブルワークでからだを壊しかけながらも、2010年代初頭にはなんらかの成功をつかんだらしい。

昔々、ほんの一瞬だけ、ブログでペンネームを公開したこともあるらしいのだが、見逃したことが悔やまれる。

そんな男性のブログも、2017年から更新がない。

 

ほんのひととき、ネットの片隅に生まれ、そしてひっそりと終えていったコミュニティ。

思い出すたび、インターネットもわたしも、世界も、ずいぶん遠くへ来たのだなと思う。

ネットだけで知り合ったひとが亡くなる、ということももう珍しくない。

あの掲示板につどっていた、いちども言葉を交わしたこともないひとたち。

一方的にまぶしかった、あのひとたち。

みんな、元気で、幸せでありますように。

ディスプレイの前で、ときどき、そう願っている。

コンビナートを見て育った

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コンビナートを見て育った。

 

朝日は赤と白に塗り分けられた煙突や、巨大なガスタンク、複雑に絡み合った金属製のパイプを照らして昇るものだった。

近所には公害被害者のための療養施設があり、小学校で習う地域史でも、公害問題は大きくあつかわれていた。

コンビナートは当たり前にある風景であり、地域にはそれに付随した正負の歴史があった。

 

コンビナートの夜景は、何度、いつ見ても飽きないものだった。

パイプ類のかたまりのところどころや、

白い煙を吐き続ける煙突の上にまたたく、人工の光。

それは切なく、星の光とは違った感傷を呼び起こした。

思春期、家庭が荒れてぼんやりとしていた時期は、その明滅を見ながら夜を明かした。

 

そんな思春期の心の支えは、ゲームだった。

兄が買ってくる「ファミ通」を毎週、なめるように読んだ。

その時期に発売されたコンシューマーゲームであれば、タイトルはたいてい知っていたと思う。

RPGが好きで、「ファイナルファンタジー」シリーズに夢中になった。

 

当時のわたしは希死念慮に取りつかれていた。

もちろん、希死念慮、なんてことばは知らなかったけれど。

毎日、「この先、生きていても不幸になるだけだ」と頭のなかで声がわんわん響き、

解像度が悪い、「何かとても悲惨な未来」の映像がカタカタと映写された。

 

自殺、というのは、心が限界になったとき、すべてのブレーカーを落とそうとする営みなのだと思う。

少なくともわたしにとっては、そうだった。

 

だから、その日、マンションの14階で身を乗り出しながら、

わたしは「死にたくない」と思った。

からだとこころは、「ここから落ちよう」と言った。

それがベストで唯一の道なのだと。

「いまがとても苦しくてもう耐えられません。

ここから飛び降りるのがいちばんです」

「死のう」ではなかった。

「いまの耐えがたい苦痛から、とりあえず逃げましょう」という提言で、

それが結果的に「死ぬ」行為だった。

でも、わたしは「死にたくない」と思った。

何度も何度も「死にたい」と思ったけれど、

こんなふうに何かに強制されるのは嫌だった。

からだとこころと意志がバラバラだった。

息をすると胸が痛んで苦しくて、涙がパタパタと落ちた。

手すりにしがみついて顔を上げると、ゆがんだ視界に、

コンビナートの夜景が見えた。

漆黒の空を背景に、サーチライトに照らされたかのような煙突、もくもくと上がる煙、

そこかしこに散りばめられた、白くまたたくライト。

「ミッドガルみたいやな」

ミッドガルとは、「ファイナルファンタジーⅦ」に登場する都市だ。

エネルギーを供給する魔晄炉をつなぐパイプが印象的な、人工の光に照らされた街。

春の風が冷たく、涙で濡れた頬や、袖口が冷たかった。

 

その日、どうやってその衝動から脱したのか。

覚えてはいるけれど、つまらない話だ。

わたしはただ叫びながら手すりから手を離し、なんとか窓から遠ざり、その勢いで居間に転がり込み、家族にわめき散らすことを応急処置とし、

その後は、不安定な精神をほそぼそと支えながら、希死念慮とともに生きた。

生きていることを肯定的にとらえるとしたら、わたしは、ただ運がよかっただけだ。

 

「わあ」

夫が、マンションから見えるコンビナートの夜景に目を見張る。

「あれ、あれみたいだよね、なんだっけ、ファイナルファンタジーの……」

「ミッドガル?」

「そう、ミッドガル、ミッドガルみたい!」

はじめて帰省をしたとき、夫はそう言った。

隣に立つひとが、16歳のときのわたしと同じたとえをしている。

そのひとは、わたしの配偶者だ。

そのことを不思議に思う。

当時、脳内でカタカタと回っていた映写機が映さなかった未来。

そんなふうにまとめられたらきれいなのだけど。

ほんとうにただ、不思議なだけだ。

あのころはネットもなく、ゲームについて語り合う友人もいなかった。

この風景を、「ミッドガルみたいだね」と、だれかと分かち合うことは想像の範疇外だった。

 

「あの煙突から出ているのは、煙ではなく、水蒸気で……」

父が指さす方向を、夫が見つめる。

「じゃあ、何か冷却を……?」

帰省二日目。

コンビナートが近い港湾地帯を父に案内されながら、夫は興味深げだ。

父もまんざらでもなさそうな様子で説明をつづけている。

――何もない街だと思っていたけれど、コンビナートが話題の種になるとは。

ひとしきりの解説の後、港湾関係者が利用する食堂でまぐろ丼をほおばりながら、わたしは思う。

まわりには、わたしたちのような“観光客”もちらほら。

近頃ここは、「安くてまぐろ丼が美味しい穴場スポット」として、SNSで話題なのだ。

――未来だ。

 

東京での日常に戻る。

Twitterで、ときどき、故郷の工場地帯の写真が回ってくる。

高い技術で撮影されたその姿は、キラキラしていてまばゆい。

なつかしいけれど、わたしの記憶にあるコンビナートの光は、もっとさみしい。

――当時は、「工場萌え」ということばも、まだなかったな。

そんなことを思いながら、あの寂寥とした、どうしようもなく惹きつけられる光を思い出す。

それは、あの暗い夜から遠く離れた未来を生きるわたしが抱く、もっとも強い郷愁だ。

 

コンビナートを見て育った。

いまも、コンビナートを心に、生きている。

三月の夕日

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「時間は一方向に進んでいて、不可逆なものである」。

当たり前すぎるほど当たり前のことが、理解できていなかった。

それほどに、若いというより幼かった。

 

「もう、この夕日も見られへんのやなあ」

自転車を止めて、兄が言った。

兄とわたしの視線の先、

田んぼのずっと向こうにある山の端に、大きな夕陽が沈もうとしていた。

空がだいだい色に染まると山は青く見え、

夜が近づくにつれて黒くなり、闇に沈んでいく。

それはいつ見ても、郷愁を誘われる風景だった。

わたしはそのとき、まだ故郷を離れたことはなかったけれど。

 

兄はその春、県外の大学に進学することになっていた。

最後の春休み、進学の準備をぬって、兄と妹で、自転車に乗って遊びまわっていた。

というか、長期の休みはたいていそうだった。

実家は荒れ気味で、なるべく家にいたくなかったのだ。

兄妹の現実逃避場所はたいていゲーセンだった。

お気に入りは、ママチャリで家から30分ほどにある、ロードサイドの大きなセガワールド

住宅街を抜け、川を渡り、田んぼをつっきって遊びに行き、

疲れると田んぼの真ん中にある、

ジブリ映画に出てきそうな神社の境内に腰かけて、

ぼんやりアイスや駄菓子を食べた。

暗くなるころに、しぶしぶ家に帰った。

 

そうやって過ごした春休みもあとわずかというある日、

兄は冒頭のことばを口にした。

 

――お兄ちゃんは大学に行くから、ノスタルジックになっとるんやな。

 

わたしは口には出さなかったものの、そう思った。

故郷を出て、ひとり暮らしすることへのうらやましさのほうが、

先に立っていたのかもしれない。

落ち着かないけれど、毎日帰らなければならない家も、

地方都市のかわり映えのしない風景も、何もかもが息苦しかったから。

 

――こんな夕日なんて、その気になれば、いっくらでも見れるやろ。

 

田んぼの向こうに沈んでいく、大きな大きな夕日。

春だけに見られるこの景色が懐かしければ、

一年に一回、数時間でも故郷に帰ってきて見ればいいい。

それぐらいなら、大きくなっても時間の都合がつけられるはずだ。

そういう「約束」みたいなものもおもしろそうだし。

 

兄は大学へ進学し、その3年後、わたしも進学のため、故郷を離れた。

長期休みのたびに帰省したけれど、兄とわたしは昔ほど頻繁には遊ばなかった。

わたしは部活が忙しかった。

やがて兄が車の運転をするようになると、

ふたりで自転車を走らせることもなくなった。

セガワールドへ行く途中の田んぼはいくつかなくなって、住宅地になった。

世界は変わっていく。

 

大学を卒業して、就職をして、兄もわたしも故郷へは帰らなかった。

兄は何回か転勤をした。

わたしは18歳で東京に出て、

故郷よりもこちらで暮らした年月のほうが長くなった。

帰省頻度は、年々落ちていく。

 

春分近くなると、日が落ちるのが遅くなり、夕焼けはどんどん長くなる。

東京では、山は見えない。

高いビル、あるいは住宅街の向こうへ、太陽は沈んでいく。

それを眺めながら、あの田んぼで見た夕日と、兄のことばを思い出す。

兄は知っていたのだろう。

これから暮らしが、人生の方向が、大きく変わることを。

 

当時のわたしは、わかっていなかった。

わかっていなかったのは、

「大人になると、小さな感傷に合わせて都合をつけることが難しい」とか、

そういうことではなくて。

いや、その難しさも理解していなかったのだけれど――。

何より、あの夕日は一回限りのものだとわかっていなかった。

 

毎日息が詰まりそうで、現実逃避が必要で、自転車しか移動手段がなくて、

兄は故郷を離れる直前で、田んぼの向こうに夕日が見える風景が存在する。

そんな「あの日」は、過去にも未来にも存在しない。

そもそも、そんな「あの日」を挙げずとも、

今日、わたしが東京で見た夕日は、明日見る夕日とは別なのだ。

たとえ、今日も明日も、東京でかわり映えしない毎日を送っていたとしても。

なぜなら、人生は、時間は一方向に進んでおり、巻き戻ることはないのだから。

 

あのころのわたしにそう言ったら、鼻にしわよせて

「そんなこと知っとる。時間は戻らへん」と反論するだろう。

わかっていなかったから。

若いというより、幼かったから。

でも、事実として知っていることと、ほんとうにわかっていることは、別なのだ。

 

何かが終わり、新しいことが始まるこの季節。

心がざわざわするのは、何かのピリオドが打たれることにより、

人生が一方向に進んでいることを、まざまざと感じるからだろう。

今年もその季節がやってきた。

あの日の夕日はずいぶんと遠くなり、どんどんかすんでいる。

人生は進む。

 

今週のお題「祝日なのに……」

祝日というより、春分の日に寄せて。

手作りを喜ぶ女

「バフ」ってことばがある。

ゲーム用語で、魔法やアイテムで、ステータスをアップさせること。

バフ盛り盛りで攻撃、なんて使い方をする。

わたしは夫の手作りレアチーズケーキを食べながら考える。

手作りはバフだ。

ただし、危険なバフ。

ハマらなければ何も起こらないどころか、

ひとを追い詰める「デバフ」(ステータスを下げること)にもなりえる。

一方で、ハマると強力な補正がかかる、ギャンブル性の高いバフ。

 

ところで。

「手作り」とは、自分がやるものだった。

たとえば、マフラー。

不器用なりに、思春期のころ編んだことはある。

いちばん簡単なガーター編み。

見た目も、いかにも”手作り”なやつ。

それなら買った方がいいよね。

たとえば、手料理。

作るのは嫌いじゃないけど……。

 買ってきたものばかりでは飽きちゃうし、

野菜だってたくさん取れるし、

まあ、作ったほうがいいよね。

その程度。

まとめると、「手作りってそんなありがたいか~?」に尽きる。

自分がやる限りは。

 

それが変わり始めたのは、1年ほど前だ。

マスクが手に入らなくなり、半年あまり、店頭から姿を消した。

春になり、我々はさまざまな代用品を試すようになった。 

 ハンカチをたたんで、髪ゴムで耳にかけるハンカチマスク。

キッチンペーパーを折り、髪ゴムをホッチキスでとめる使い捨て紙マスク。

ハンカチマスクにキッチンペーパーを挟むあわせ技。

 応援している保護猫カフェが作った白い布マスク。

 

そんな折、夫が「『HKマスク』を作ってみようかな」と言い出した。

HKマスクとは、香港の化学博士が考案したマスク。

特徴は、布が二重になっており、紙が挟めるようになっていること。

鼻に当たる部分に針金を仕込み、耳ゴムのかわりに紐で結ぶことで、

顔にフィットするように作られている。

(針金は使い捨てマスクのものを流用可)

project.nikkeibp.co.jp

わたしは料理はするが、裁縫はてんでダメなので、アドバイスはできない。

夫はYouTubeで基本の縫い方を習得し、このHKマスクをひとりでチクチクと仕上げた。

のべ3、4時間ほどでできあがったマスクは、縫い目がほとんど目立たず、

捨てるつもりだったワイシャツから取った白地に水色のストライプ生地も

シンプルでさっぱりとしていていい感じ。

「これなら着けたい」と思えるものだった。

夫は「手始めに」と小さなサイズの型紙で作ったため、HKマスク第一号は

わたしが使うことになった。

 

これが存外うれしかった。

夫の丁寧な仕事により、できがよかったというものある。

ただ、それ以上に、「そのできのよさを作り出したのが夫であること」がうれしかった。

夫の美点が反映された、夫が作ったものを身につけることに、喜びがあった。

「いやいやいやいや手づくりなんて。

既製品のほうができがいいし、買ったほうがうれしいでしょ。

なんか重いしさあ」

そんなふうに思っていた時代もありました、去年の春までは。

 

そしてこの冬。

かねてよりお菓子作りに手を出していた夫が、

わたしの誕生日にショートケーキを作ってくれた。

スポンジケーキに、たっぷり生クリームを塗って、大きな苺を乗せて。

パティスリーのきめ細やかな生地とは違う、手作り特有の少しざっくりした生地。

それでいてしっとりしており、舌ざわりがよい。

生地の練り具合が上手なのだろう。

それよりなにより、誕生日当日、夫が作ってくれたケーキを食べている。

そのことに感動している自分がいた。

誰かが、自分のために、時間と労力を注ぎ込んでくれたもの。

それが、とてつもなくうれしい。

ベタだ、ベタだ、ベタ過ぎる!

でも、うれしい。

 

恋をすると、しばしば考えた。

「あのひとは、手作りを喜ぶタイプだろうか」。

しかし、「わたしは、手作りを喜ぶタイプだろうか」と、

自分自身について問いかけたことはなかった。

そんな問いが立つことさえ、なかった。

いま、ひょんなことからわかってしまった。

「わたしは手作りを喜ぶタイプの人間」なのだ。

そして、「不安だったけれど、なかなか上手くできたと思う」と

夫自身が美味しそうに食べているのが、また、うれしい、いとしい。

「手作りされる側の喜び」は、こんなところにもあったのか。

 

わたし自身は、不器用だしめんどうくさがりやだし、

手作りすることは避けたいとさえ思っていた。

手作りなんてたいしたことがないと思っていた。

いまでも、「夫の手作りはありがたいが、

わたしの手作りが夫にとってありがたいかはまた別だろう」とは思っている。

そして、ジェンダーに紐づいた手作り礼賛が、多くの女性を追い詰めているのも事実だ。

とくに幼い子どもがいる場合、親の負担は甚大だ。

「自分が世話をしなければ、目を離せば死ぬ」存在がいるとき、

毎日のタスクに追われまくっているとき、

「手作りはすんばらしい」など悠長なことは言っていられない。

もともと手作りが大好きなひとであっても、そうなのではないかと思う。

ほか、介護しているひと、手作りが嫌いなひと、時間的、経済的な事情で余裕がないひとなども同様だ。

手作りの盲目的な礼賛は、呪いであり、デバフであり、暴力ですらある。

 

それでも。

自発的であれば、強制されていなければ、余裕がある環境であれば。

たくさんの条件が付くけれど、それを満たしてさえいれば、手作りはバフだ。

美味しさも、喜びも強力にアップしてくれる。

 

「レアチーズケーキって、クリームチーズと生クリームとグラニュー糖でできてる。作ってはじめて知ったよ」

「脂肪と糖じゃん。罪な味だよね」

そんな会話をかわしながら、わたしたちはレアチーズケーキを食べる。

これが最後のひと切れだ。

「夫の料理の欠点は、増えないことだね」

「増えたらえらいことになるよ。バイバイン*1みたいにさ」

バフ効果を感じながら、お互いにできるだけちびちびと、惜しみながら、口に運んでいる。

 

 

ほか、夫の料理について書いた記事。

hei-bon.hatenablog.com

*1:ドラえもん』に登場するひみつ道具。増やしたいものに使うと、そのものは増殖しつづける

花束を持って保護猫カフェなんて行きたくない

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保護猫カフェに通っている。

猫は生きものなので、当然、ときどき死ぬものもある。

体調を崩した猫は別室などに移され、店のスタッフに手厚く看護される。

ある客は寄付をし、ある客は療養食を贈り、たいていの客は祈る。

運よく快復するものもいれば、命を落としてしまうものもいる。

 

保護猫カフェにいるのは、思い切った言い方をするなら、選ばれた猫だと思う。

猫は繁殖力が強い。里親が決まっても、決まっても、子猫は生まれてくる。

新たに生まれる猫のほか、高齢の飼い主が飼えなくなる、あるいは飼い主が若くして病気を患った、家族が喘息になったなどで手放される猫もいる。

あまたいる猫のうち、人間の目にとまったものが保護される。

乳飲み子ならば体温を保ち、急変する体調にハラハラしながら数時間ごとに授乳し、排せつを促し、

病気やケガをしていれば医療にかける。

いろいろなひとが「目の前の命をほうっておけない」というプリミティブな感情と、「助けるなら、終生の幸せが約束されるまで責任をもって世話をする」という覚悟をもって、

猫を育て、世話をし、預かり、里親を探す。

 

人間に発見され、ケアされ、最後の「里親を探す」の段階までたどりつき、

さらにある程度人なれした猫が、保護猫カフェにやって来る。

あくまで人間目線だが、彼らが店にやってくるのは、

「困った排除されるべき動物」「行き場をなくした動物」から、

たった一匹の、かけがえのない家族としてのナントカちゃんになるためなのだと思う。

 

そこへたどりついてなお、亡くなってしまう猫も出る。

1歳未満の子猫は、よく、FIPという病に命を奪われる。

若くして腎臓機能が弱く、医療ケアが必要な猫もいる。

長じて難病が発覚する猫もいる。

 

FIPは恐ろしい病気で、子猫がかかるとあっという間に命を落とす。

最近では薬が出てきているようだが、高価なことや投薬中のクオリティオブライフ、存命率などを考えると、

おいそれと使えるものではないと聞く。

 

いつかの春先のこと。

わたしの通っている店で、子猫がFIPになり、亡くなった。

2週間前まで、ぴょんぴょんと跳ねまわっていたのに。

短い猫生を閉じたその猫のために、花束を届けに行く。

人懐っこくて遊び好きな、愛らしい子猫だった。

生きていれば、そう遠くないうちに飼い主希望者が現われたに違いない。

いや、客のわたしが知らないだけで、すでに申し出はあったのかもしれない。

どこかの家で家族として名前を呼ばれ、いないことなど考えられない存在になり、

16歳ぐらいになっても、

「さいきんは、猫も20歳ぐらいは生きるっていうし。まだまだ若い、長生きしてね」なんて言われ、

最後は家族に囲まれて、惜しまれて惜しまれてこの世を去る。

そういった年月を過ごすはずだった。

猫のほんとうの気持ちはわからないけれど、すくなくとも人間はそういったことをしあわせと想定して、

猫を保護したり、里親を探したり、保護猫カフェに通って応援したりしているのだと思う。

だから、その道半ばで死んでしまった猫の骨壺なり遺体なりを、華やかに飾ってやりたいと思うのだ。

その猫にとって、ワンオブゼムの人間にしか過ぎない客だけれど、

その猫をワンオブゼムにはしたくないのだった。

きっと、花はないよりあったほうがよい。

 

花束を渡し、子猫と遊ぶ。

もっとしんみりするかと思ったけれど、無邪気に遊ぶ子猫の生命力を見ていると、気がまぎれた。

小さな黒猫が、わたしのロングスカートに入って遊ぶ。

こぶりな頭に、やや吊り目のアーモンド形の目、ぴんとした大きな耳。

魔女の宅急便』に出てくるジジにそっくり。

遊ぶのは大好きだけれど、なでると「ふーん」という顔でしれっとよける。

同じおもちゃにじゃれつこうとする猫がいると、ご機嫌ななめになる。

気まぐれでわがままな性格も愛らしく、

スタッフさんや客たちからも、猫たちからも(たぶん)、

「みんなの末っ子」のように目されている猫だった。

スカートから顔をひょっこり出して遊ぶ黒猫に、

「あんたは長生きしなよ」と語りかけた。

 

半年後、わたしはまた花束をもって店に行く。

ジジにそっくりなあの黒猫が亡くなった。

当時から、腎臓が弱いということはわかっていた。

でも、あんなに元気にスカートに潜り込んで遊んでいたじゃないか。

 

腎機能が弱ってからも、黒猫はがんばって生きていた。

スタッフさんも懸命にケアをつづけた。

療養中の猫は、基本的に別室で安静にするものだが、

もう危ないかもというときに、ひと時だけ店の片隅に戻ってきたことがある。

「そんな状態の猫を戻して大丈夫なのか」と思ったけれど、

客たちは体調をおもんばかってあまり近づかず、

ほかの猫たちはなんとなく入れかわり立ちかわりやってきて、

猫用ベッドで丸まった黒猫に、そっと寄り添っていた。

黒猫は、ひとや猫の気配に安心しているように見えた。

この猫の性格を考えると、いまこのとき、一匹で静かに療養するよりも、

ここにいるのは悪いことではないのだろう。

スタッフさんが判断した理由が、なんとなくわかった。

店を出る前に、すこしだけ黒猫をなでた。

その瞳を見て、もう「がんばって」とは言えないことを悟った。

いまにも何かが遠のいていきそうな、瞳孔のあの動き。

 

花束を店員さんに渡すと、「よかったら、遺体と対面されますか」と声をかけてくれた。

バックヤードで会った黒猫は、亡くなってなお、愛らしかった。

おもちゃはひとり占めしたいタイプ。

トイレのしつけはおそらく完璧だろうに、

だれかほかの猫に注目が集まっていると、気が引きたくて粗相をする。

それでもスタッフさんも客も、「黒猫ちゃんは仕方ないなあ」と、不思議と笑顔になった。

その生き様を、死してなおつらぬいている。

遺体さえも愛らしく見せている。

そんな気がした。

 

猫を見ていて思うのは、彼ら彼女らが「いま」にフォーカスして生きているということだ。

人間目線で言い換えると、すべての猫は、懸命に生きている。

個々の性格により、その「懸命さ」の在り方は異なるけれど。

黒猫が何を思って生きていたのか、死んだのかわからない。

黒猫は黒猫らしく、ただ懸命に生きた。

おもちゃを譲らないのも、おしっこで気を引くのも、

腎機能が低下しきってからも長くこの世にとどまったのも、

ほかの猫に寄り添われて満足そうにしていたのも、

彼女の懸命さ、あるいは生き様の表出であり、それが人間には「愛らしさ」と映っていた。

 

長く黒猫を看病していたスタッフさんと思わず泣いた。

フロアに戻り、別の黒猫に声をかける。

それは死んだ黒猫の母猫で、やはり腎臓が弱かった。

静かで穏やかで、人にも猫にもそっと寄り添ってくれる。

母猫といえどもまだまだ若い。

なんだかんだ身体の特性を理解してくれる家族のもとへ行って、長生きする。

そんな若猫らしい幸せをきっとつかむのだ。つかんでほしい。

そう思って母猫をなでた。

 

1年がたち、また、わたしは花束を持って店へ向かう。

家での幸せを。

それはおそらく、スタッフさん、わたしをはじめとする客、みんなの願いだった。

でも、叶わなかった。

 

多くの猫は、元気いっぱいに店で過ごして"卒業"し、家でのびのび暮らす。

ただ、こぼれ落ちるように命を落とすものもいる。

 

病気の猫はかわいそうなのか。

死んでいく猫はかわいそうなのか。

わたしはそうは思わない。 

彼らは健康であろうと病になろうと、状況に応じ、

ただ「いま」を懸命に生きているだけだ。

憐れむことはできないと、わたしは思う。

 

それでも。

くやしいとは思う。

人間が考える「猫としてのしあわせ」が目前だったのに。

いろんなひとがそれを願って、つなげてきたのに。

 

花束をオーダーしながら、猫がうんと貴重な存在になればいいのにと思う。

すべての猫が、生涯、家でのんびりのびのびできればいい。

死ぬときは、棺にいっぱい花を詰めてもらうのだ。

こんなワンオブゼムの客が持ってきた花束ではなく、ともに暮らした家族が用意した花を。

「新たな飼い主を探している猫」なんてめったにいなくなって、

保護猫カフェなんてなくなってしまえばいい。

つくってもらった花束を抱えながら、そう思う。

花束を持って、保護猫カフェなんて行きたくない。

人間のエゴで、そう思う。

愛しの洋梨体型。あるいは、フリーライター界最弱のわたしがリングフィットを続けているわけ

老いは恐怖だ。

つかれやすくなり、太りやすくなり、歯間にものがはさまりやすくなり、しわが増える。

若いころは、「年を取って時間ができたら思い切り本を読んで……」なんて考えたものだ。

が、親世代を見ていると、加齢後に希望を託すのはあまりに無謀だとわかる。

母は視神経が疲れやすくなり、映画や本を集中して楽しめなくなった。

おもしろい本に夢中になりすぎると、肩こりからの目まいを起こし、数日立ち上がれなくなる。

父と焼肉屋へ行って、オーダーのさいに「父がほとんど食べない」ことを考慮するようになったのはいつからだろう。

 

 なじんだ芸能人が亡くなり、行きつけの店が閉店し、街が変わってゆく。

新奇なものを楽しむスピードよりも、喪失のスピードのほうがずっとずっと上まわっているように感じる。

とにかく老いは恐怖なのだ。

 

そして、加齢とともにふりつもる贅肉。嗚呼。

 

そんなある日、

「平凡ちゃん! 当たった! 当たった!」

スマートフォンを見ていた夫が声をあげた。

数カ月間応募しつづけたNintendo Switchの購入権に当選したのだ。

 

Switchを入手できたら、絶対にやってみたかったのが、「リングフィット アドベンチャー」。

からだを鍛えながらアドベンチャーができるという、あのソフトだ。

さいわい、近所のショッピングモールで運よくソフトを入手でき、8月の終わりから、わたしの在宅フィットネス生活がはじまった。

 

ゲーム初回は、どれぐらいの運動負荷が適正かをソフトに判断してもらう。

押し込み、引っ張りができる「リングコン」と呼ばれる円形コントローラーを使い、簡単に測定。

わたしの負荷は「ゼロ」からスタート。

わたしはプレイヤー全員がゼロからスタートすると思っていたのだが、そうでもなく、これは最弱である。

 

毎回、ゲームを起動すると、「ダイナミックストレッチ」からスタート*1

ダイナミックストレッチとは、「動的ストレッチ」とも呼ばれ、実際の運動を模した動きでからだを動かし、柔軟性を向上させる……ものらしい。

動きは単純。

1.リングコンを両手で持って上げ下げ。同時に、左右の膝を交互に上げ下げしてリングコンに当てる。

2.リングコンを両手で持って上げ下げ。同時に、左右のくるぶしを上げ下げして、リングコンに当てる。

3.リングコンを両手に持つ。片足を前に出して、重心を下げ、同時にリングコンを上にあげることで背筋をぐっと伸ばす。

4.リングコンを頭上にかかげ、左、右とからだを傾けて体側を伸ばす。

なんてことはないストレッチなのだが、初日から1カ月ほどは、これだけで息が切れた。

いまも「2」はくるぶしにリングコンがまったくつかない。

「4」では「反動をつけずに体側を伸ばそう!」とアドバイスが入るが、からだが固すぎて、反動などそもそもつけられない。

 

スタートからして「在宅稼業者のなかでも最弱……」と現実を突きつけられたが、ゲームは予想に反して楽しかった。

 

ゲームは、主人公がしゃべるリングコン、「リング」を手にするところからはじまる。

リングは、かつての友であり、悪に染まったフィットネスマニア「ドラコ」を救いたいと思っている。

そのために、主人公が力を貸すという筋書きだ。

 

具体的に何をするかというと、まず、部屋のなかで模擬的にランニングをしてステージを駆け抜ける。

途中で敵と遭遇すれば、スクワットしたり、腕を上げ下げしたり、リングコンを押し込んだり引っ張ったりして戦う。

さらに、スクワットで進むブランコやトロッコ、リングコンを引っ張ると進むリフトなどなども用意されており、バランスよく各所の筋肉を鍛えることができるようになっている。

 

リングフィットアドベンチャーが楽しい理由はいろいろあるが、大きいのは、他者のリアクションがあることだ。

からだを動かすと、「いいね!」「その調子!」「筋肉が輝いているよ!」とリングが褒めてくれる。

もともと、からだを動かすことは大なり小なり楽しい。ただ、筋トレは短調な苦行になりがちだ。そこに、他者の「褒め」が加わると、やる気が起きる。

 

ゲームバランスは絶妙で、軽いがんばりでサクサク進むようになっている。

壮大な滝が流れ落ちているステージ、原っぱ風のステージなど、見ていて飽きないし、

自分のからだの動きと連動して、敵を攻撃するのも気持ちよい。

 

負荷が低いと、スクワットなど、多くの運動のノルマは一桁だ。

無理なく、「今日もからだを動かして気持ちよかったな~」と思うことができる。

(難易度によるが)簡単に確実に達成感を与えてくれるゲーム性と、運動の気持ちよさがあわさった、実によくできたソフトだと思う。

 

無理してもつづかないので、やるのは一日1ステージと決めた。

最初のストレッチから最後のクールダウンまで20分ほど。

 仕事の気分転換にもちょうどよい。

 

そう思って2週間ほどつづけたころ。

仕事で、ちょっと気張った場所へ行くことになった。

そこで憂鬱になるのが、服選び。

ここ数年は、すっかり贅肉がついてしまい、ほとんどの“きれいめ”の洋服は、「着られるけど、お腹周りがキツイ」「シルエットが……」となっている。

かつて母に言われたことばがよみがえる。

「わたしもあんたも、骨格が細めやから、太っても横にはいかへん。そのかわり、『前』につくで。肉が」

親の言うことは正しい。

それを噛みしめる。

 

「いやだなあ」

憂鬱な気分で、お気に入りのワンピースに袖を通す。

近年、ジッパーをあげるのに苦労するようになり、なんとか着られるものの、お腹がぽっこり出てしまう一枚だ。

しかし、あら不思議。昔ほどではないけれど、お腹まわりが苦しくない。

無理に引っ込めなくても、自然なシルエットになる。

「すごい、すごい!」

興奮しつつ、細身のスラックスも履いてみる。

こちらは、ボタンはとまるが、履くとお腹がぽっこり乗ってしまう一枚。

その「お腹の肉が乗っている」感覚が嫌で、タンスの肥やしになっていた。

なのに、ボタンをとめるのは苦しいものの、肉があまり乗らない。

同様の理由で避けていたレギンスなどを次々履いてみる。

お腹はぽっちょり出ている。

しかし、細身のズボンを履いたときに不快なほどではない。

明らかにからだが変わっていることを感じた。

 

わずか1日20分。楽しくゲームをして、2週間でこれだけ効果があれば、やめるほうが難しい。

せっせと続けること、のべ1か月。

いわゆる“脇肉“がみるみる減った。

こちらもお腹と同じで、「はみ出ている」身体感覚そのものに不快感を覚えていたことが、なくなってからわかった。

痩せているときから寸胴だったところに、「くびれ」ができた。

 お尻も引き締まった。

そして、お腹にうっすらと線が入った。 

 

 鏡の前に立ったとき、いちばんよく見えるのは腹まわりだ。

自然と、腹を毎日観察するようになった。

しかし、しかし。

お腹にぽっちょりとついた肉は落ちない。

「引き締まったお腹に、贅肉がついている」。

文章にするとどう考えても矛盾している、校閲から赤字が入りそうな状態が現実にある。

 

タイミングよく、リングフィットで豆知識が提示された。

「お腹の肉はいちばん落ちにくい。そして、お腹の肉がいちばんつきやすい」。

Twitterで愚痴ったところ、「体脂肪がかなり落ちても、お腹の肉は落ちなかった」との衝撃情報まで寄せられた。

現実とはなんと残酷なのであろうか。

 

とまどううちにも、筋肉はついていく。

腹の下に亀の甲羅があるのでは……との気配がしだいに濃厚になっていく。

が、その上には変わることない贅肉。

よく見ると、くびれの上、腰にもうっすら肉が乗っている。

まだまだ割れていないとはいえ、シックスパックに贅肉が乗る。

くびれボディに贅肉が乗る。

奇妙な洋ナシ体型。

それがなんとも滑稽で、ある日、思わず吹き出してしまった。

同時に、思った。

こんな体型、若いときは想像した? いや、想像すらしなかった。

これはおそらく、中年だからこそ、そこそこ長く生きて代謝が落ちたからこそ、成しえた形ではないのだろうか?

 

滑稽であっても、美の基準から外れていたとしても、それはまぎれもなく「老いないと見られないもの」だった。

それが物理的に、わたしのからだに、腹の上に乗っている。

大げさにいえば、顕現している。

老いることに、はじめて「おもしろみ」を見出した。

その「おもしろみ」自体、加齢しないと味わえないものだった。

 

老いることは相変わらず怖い。

リングフィットアドベンチャーをやったことで、あらためて自分の体力のなさ、からだのかたさを自覚した。

70日以上つづけて、いまだに負荷は「6」だ(最大は30)。

負荷を公開しているひとで、一桁台のひとはほかに見たことがない。

このままでは、さらに筋力が落ちる老後が不安だ。

いまのうちに、なんとかせねばならない。

 

それでも、老いに対する漠然とした恐怖は、緩和された。

すこしずつからだは変わっている。

外出から帰っても、以前ほど疲れなくなった。

「どうしてこんなに体力がないんだろう」と落ち込むこともなくなった。

 「老後もずっと歩きたいから、脚の筋肉をもう少しつけよう」と、不安に対する具体的な「解」が見えた。

 

生きていて、変えられないものは多い。

さいたるものが、人間が生まれて老いて、死んでいくことだ。

けれど、自分が動くことで、わずかに変えられるものがある。

そのことは、いつだって人生に光を与えてくれるのだ。

それを「リングフィット アドベンチャー」はあらためて教えてくれた。

だから、わたしはきょうも変わらずリングコンを握って遊ぶ。

いまのところ80戦ぐらいして全敗している、「ディスクヒット」*2で全部ロボを壊すミッションを、いい加減達成したい、人間やればなんでもできるはず、と唱えながら。

*1:飛ばすことも可能

*2:ロボが投げるフリスビーを、ハリセンで叩き返すゲーム。クリーンヒットするとロボを破壊できる

ネット普及以前、わたしたちはいかにして買い物をしていたのか

冷え込む部屋のなか、スマホ片手にため息をつく。

探しているモノが、ネット上で見つからないのだ、珍しく。

ほしいのは、フリースのルームスリッパ。

それも、足の甲にバンドがついた、小学生が履くうわばきのような形をしたもの。

スリッパと靴下の中間ぐらいの感覚で履けて気に入っているのだが、手持ちはひとつ。

いい加減みすぼらしくなってきたので、もうひとつ、ふたつ求めたい。

雑貨屋で気まぐれに買ったものだから、一度はそういう形が市場に出回ったことがあるはずなのだ。

なのに、「フリース」「靴下」「スリッパ」「ルームスリッパ」「ルームシューズ」「上履き型」など、

次々と検索窓に打ち込んでも、同じような形のものは出てこない。

 

2020年現在、たいていのほしいモノは、ネットで探せばなんとかなる。

多くのケースでは通販で「ポチる」ことができるし、ポチれなくても、どこで買えるかの実店舗情報を見つけることができる。

そんな時代にあって、まれにこうして見つからないものがあると、

なんともいえないさみしい気持ちに襲われる。

広大なネットにある、細くて深いすき間。

ふだんは見えないその場所に、自分の欲望がストンと落ちてしまったような心細さ。

 

ただ、さみしさの理由はそれだけではない。

そのルーツをたどっていくと、上京したばかりのころに行き当たる。

 

「東京って、ホームセンターはどこにあるの?」

できたばかりの数少ない知り合いに尋ねると、

みな、一様に「あらためて聞かれると……」と困った顔をした。

 

上京して最初期にぶち当たった壁のひとつが、

「ほしいモノがどこへ行けば買えるのか、まったくわからない」というものだった。

そのとき、わたしは廉価な包丁とまな板がほしかったのだ。

しかし、どこへ行けば買えるのか、見当がつかなかった。

地元では、ほしいと思ったら、自動的にホームセンターやイオンに向かっていただろう。

当たり前すぎて、「こういう場所でこれが買える」と考えたこともなかった。

 

わたしが上京した90年代後半、

インターネットは存在したもののそれほど普及しておらず、

PCを個人所有している学生も多くなかった。

加えて、100円均一ショップも今よりかなり少なかった記憶がある。

 

「そんなになんでも詰めんでええよ。東京行ったらなんでも揃うんやし」

上京の荷造りしているとき、手伝ってくれた父にそう言った。

ここは大都会。なんでも揃う。

ただし、「どこで何を買えるか」を把握していれば。

 

しかたがないので、わたしは唯一思いついた東急ハンズへ向かい、

包丁とまな板を買った。

両方とも、予算を大幅にオーバー。

まな板は、実家で使っていたものよりも、ずっとがっしりとした重いものだった。

 

夏前になると、大学でそれなりに知り合いができた。

ある友達から、「ほしいものがあったら『たけや』へ行けばいいよ」と教えてもらった。

なんだか昔風の、不思議な名前。

その子に連れられて、上野へ向かう。

始発から終点まで、どこで乗っても降りても同額という、都バスの料金体系に驚きながら、上野へと向かった。

着いてみると、「たけや」は「多慶屋」だった。

そこでは、たいていのものがディスカウントされて売っていた。

食品、家電、カジュアルウェア、家具、文具……。

「どこにでも売っている、誰でも知っている商品なのに、

あらためて探すと見つからない」モノの筆頭株、

カラーボックスを見つけたときは興奮した。

 

しかし、多慶屋で最初に買ったのは、パジャマだった。

当時住んでいた学生会館は風呂が共同で、湯上りにはみな、

パジャマで館内をウロついた。

地元から持ってきた、着古したペラペラのパジャマでは恥ずかしかったのだ。

やはり雑貨屋もどこにあるのかわからず、なかなか求めることができなかった。

多慶屋で買ったのは、深緑色のトラサルディのパジャマで、

その日はちょっと胸を張って共同風呂へ行ったことを、覚えている。

ここへ来れば、なんでもそこそこ安く揃う。

多慶屋はわたしに安心感を与えてくれた。

 

やがて生活に慣れてくると、大学のまわりに

ちいさな個人経営のディスカウントショップやリサイクルショップを見つけた。

キャンパス近くの格安の衣類店では、パジャマでなくても、

気楽なスウェットが求められることがわかった。

大きなスーパーの2階では、生活雑貨が購入できる。

そうやって、すこしずつ「何をどこで買えばいいか」の「地図」ができていった。

 

いまでは、「どこで何が買えるか」は、だいたいわかっている。

都心から郊外まで、行ける範囲にあるホームセンターのありかだって把握している。

何より、冒頭にも書いたとおり、困ったときはネット検索をすれば実店舗の場所もわかるし、

モノ自体を「ポチる」ことができる。

 

それでもごくまれに、「フリースでできた上履き型のルームシューズ」のように、

ネット上の検索では見つけることができないモノもある。

そういうときは、懐かしいなと思う。

途方に暮れる、この感じ。

何がどこで手に入るかを記した自分なりの「地図」を、

少しずつ、少しずつ頭の中に作っていた時代には、

よくあった感覚ではないか。

 

あのころは、東京のことはほとんど知らなかった。

知るには「東京23区マップ」を手に実際に歩くか、

雑誌を読むか、ひとに聞くしかなかった。

いまのわたしの手には、途方に暮れながらもスマートフォンがにぎられ、

部屋にはWi-Fiが飛んでいる。

あのころとは雲泥の差がある。

自分なりの「地図」を脳内に作っていた時代の記憶は、

どんどんおぼろげになっていく

 

ネットでモノが見つからないとき。

それは、「地図」を作っていた時代を思い出すタイミングでもあり、

その時代の感覚が、記憶がおぼろげになりつつあることを感じ、さみしくなる瞬間でもある。

 

なんでも揃うネットで、何かが見つからないときの孤独感。

「何をどこで買えばよかったかわからない時代」が遠くなっていくさみしさ。

そんなさみしさや孤独感は、昔は想像すらしなかった。

そう思いつつ、わたしはスマホのブラウザを閉じた。