COVID-19のために、世の中はたいへんなことになった。
そんなときに「生き方を見直せた」と言うのは好きじゃない。
フェアじゃない、ように感じてしまう。
それでもやはり、世の中が変わると、ものの見方は変わる。見直さざるを得ない。
春、仕事が激減した。
店の取材はできないし、映画や舞台も公開延期になり、それにともなうインタビューもなくなった。
それでも細々と、定期仕事はある。
何かの穴埋めと思われる、資料だけで書く飛び込み仕事もポツポツあった。
それをこなしながら思った。
フリーランスになって15年近く。こんなに時間があるのははじめてだ。
わたしは部屋の片付けをはじめた。
ダイニングを整え、ずっとほしかったオーブンを買い、炊飯器や湯沸かし器をひとまとめに置けるレンジ台を購入した。
小さなところでは調味料入れを買い、その便利さに驚嘆した。
それまでは、袋を輪ゴムで縛って使っていたのである。
片付けられない人間であるところのわたしは、常々、「時間があっても片付けをしないと思う」と断言していた。
だって、時間があったら、ダラダラ寝ていたいもの。
そして、そう発言するたび、自己嫌悪におちいっていた。
しかし、大量にあった資料や雑誌を捨てながら思った。
わたしがひとより気力がないのはたしかだ。
でも、時間と気力がたっぷりあれば、片付けをやらないことはない。
晴れた日には、近所を散歩した。
半径2キロに通ったことがない道はないのでは? というほど、あちこちをただ歩いた。
うちは郊外にあって、畑が多い。直売所もちらほらある。
たけのこ、小松菜、じゃがいも、菜の花、大根。
めぼしいものがあれば迷わず買い、オーブンで調理した。
散歩の必需品は、小銭とエコバッグだった。
直売所の野菜はスーパーで買ったものと何が違うのかわからないが、歯ごたえがあり、鮮烈で濃厚な味がした。
4月をすぎるころには、たとえ野菜ばかりでも、毎日食べ過ぎると胃を疲れさせることを実感した。
ほかにも、肉を近所の精肉店で買うようになった。
ソーシャルディスタンスの実践のため、店外に行列ができているのを見て、個人客も気軽に入ってよい店なのだと知ったことがきっかけだった。
下戸のためおいそれと入れない飲食店が、テイクアウトや弁当をはじめた。
昼はなるべく出かけて、それらを手に入れて食べた。
春はそんなふうに過ぎて行った。
「生活をしている」という手ざわりがあった。
そうこうしているうちに、多少仕事が戻ってきた6月。
ふとした拍子に、「誰にも見せない文章を書こう」と思い立った。
わたしはいままで、文章というのはおおよそ誰かに見せるものだと思って書いてきた。
ときどきつけている日記でさえ、後日、自分自身という他人が読むことを意識して書いている。
わたしの頭のなかには、常にいくつかの世界が遊び場、あるいは劇場としてあり、そこにはさまざまな世界や登場人物がいた。
いつか文章にして外に出してみたいと思うものもあれば、まったく外に出すことを考えたこともない、わたしだけの遊び場もあった。
そのとき思いついたのは、誰にも見せるつもりのなかった遊び場を、誰にも見せない文章にして記す、ということだった。
これがやってみたら楽しかった。めちゃくちゃ楽しかった。書いて書いて書きまくった。
頭のなかにわきあがったものをそのまま書く。書いているうちにわきあがってくるのでそれをまた書く。
今の時代、クラウドに保存しておけば、PCでもスマートフォンでも書けるし読める。
布団のなかでスマートフォン片手に書きながら眠り、書いたものを読み返し、また付け足すのが楽しくて、朝、目が覚める。
これはロングスリーパーのわたしにとって、驚異的なことだった。
仕事を極力計画的に進めて、可処分時間のすべてを使い、妄想をただただ出力しつづけた。
これはいまも続けている。当初のような楽しさはない。それは、書きなぐるだけでは満足できなくなったからだ。
もっと自分が読んで楽しいものにするため、インプットをしたり、資料本を図書館で手に入れて読んだりしている。
なかなか筆は進まなくなったけれど、あのめくるめく楽しさは、ぜったいに忘れたくない。
その経験を通じて、わたしは思った。
書くことが好きだ。
実用的な意味で、文章はいつもわたしの身を助けてくれた。
大学受験時代は小論文で受験を乗り切り、大学時代は小論文の添削のバイトをし、社会に出て、道に迷いに迷ったわたしが唯一落ち着けたのは、ライターの仕事だった。
ネットが普及してからは、サイトだブログだTwitterだと、根気はなくてつづかなくても、なんだかんだとやっている。
見たものは文章にしたい。感じたことは文章にしたい。
取材やインタビューをしたあと、こんなふうに書こうと考えると心が躍る。
書きたいと思うのは、当たり前だった。
だからこそ、書くのが好きかどうかは、考えたことはなかった。
でも、気がついたのだ。
頭のなかにあるものを出して、書くのは楽しい。
想像していたものは、外へ出したとたんに駄作になる。
文章の下手さも、人物描写の薄っぺらさも、筋書きを作る筋力の弱さも、表に出すとよくわかる。
わたしは凡人なのだと思い知る。
それでも「形」を与えるのが楽しいのだ。
頭の中で組み立てたものを出す楽しさは、仕事の文章と物語では、別個のものと思っていた。
でも、根底は一緒なのだとも気がついた。
そして、それは苦しさも同じ。
何を書くにしても、書くのはしんどい。
先に書いたように、外に出せばアラが見える。
今度はそれを埋めるための、正解のない迷いと、先が見えない上り坂がはじまる。
苦しい、苦しい。そんなことが好きなのか?
でも、やめられない。
この春から夏、そんなふうにして暮らしていた。
わたしが充足を覚えることは、ぜんぶ家から半径1キロないし2キロで済むことなのだった。
わたしは思った以上に出不精だった。
それがコンプレックスになっていたことも自覚した。
SNSで情報を摂取するたび、「美術展も映画も演劇も見たい、やりたいこともたくさんある、でも、腰が重い」と焦っていたことにも気づいた。
出不精のままでよいとは思わない。
わたしはもっと外へ出たほうがよい。
しかし、自分を変えるにせよ、泰然自若とするにせよ、出発点として、「自分がどんな人間か」を知ることは必要なのだ。
そんなふうに暮らしているうちに、秋が来ようとしている。
ここまで書いてきてあらためて断言するが、新型コロナウイルス感染症にまつわるあれこれは、ないほうがよかった。
わたしは安全な場所にいられて、運がよかった。
健康で、激減しても仕事があり、家があった。
しかし、街には閉店の貼り紙が増えていく。
医療従事者をはじめ、強いプレッシャーのもと、仕事をしているひとも多い。
わたしはそういったひとたちに支えられている側の人間だ。
不安もある。
肝に銘じつつ、それでもせっかくつかんだものは、手放さないようにしたい。
そう思いながら、手洗い、マスクが標準になった世界で、鉛筆を走らせ、キーボードを打ちつづけている。