平凡

平凡

コンビナートを見て育った

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コンビナートを見て育った。

 

朝日は赤と白に塗り分けられた煙突や、巨大なガスタンク、複雑に絡み合った金属製のパイプを照らして昇るものだった。

近所には公害被害者のための療養施設があり、小学校で習う地域史でも、公害問題は大きくあつかわれていた。

コンビナートは当たり前にある風景であり、地域にはそれに付随した正負の歴史があった。

 

コンビナートの夜景は、何度、いつ見ても飽きないものだった。

パイプ類のかたまりのところどころや、

白い煙を吐き続ける煙突の上にまたたく、人工の光。

それは切なく、星の光とは違った感傷を呼び起こした。

思春期、家庭が荒れてぼんやりとしていた時期は、その明滅を見ながら夜を明かした。

 

そんな思春期の心の支えは、ゲームだった。

兄が買ってくる「ファミ通」を毎週、なめるように読んだ。

その時期に発売されたコンシューマーゲームであれば、タイトルはたいてい知っていたと思う。

RPGが好きで、「ファイナルファンタジー」シリーズに夢中になった。

 

当時のわたしは希死念慮に取りつかれていた。

もちろん、希死念慮、なんてことばは知らなかったけれど。

毎日、「この先、生きていても不幸になるだけだ」と頭のなかで声がわんわん響き、

解像度が悪い、「何かとても悲惨な未来」の映像がカタカタと映写された。

 

自殺、というのは、心が限界になったとき、すべてのブレーカーを落とそうとする営みなのだと思う。

少なくともわたしにとっては、そうだった。

 

だから、その日、マンションの14階で身を乗り出しながら、

わたしは「死にたくない」と思った。

からだとこころは、「ここから落ちよう」と言った。

それがベストで唯一の道なのだと。

「いまがとても苦しくてもう耐えられません。

ここから飛び降りるのがいちばんです」

「死のう」ではなかった。

「いまの耐えがたい苦痛から、とりあえず逃げましょう」という提言で、

それが結果的に「死ぬ」行為だった。

でも、わたしは「死にたくない」と思った。

何度も何度も「死にたい」と思ったけれど、

こんなふうに何かに強制されるのは嫌だった。

からだとこころと意志がバラバラだった。

息をすると胸が痛んで苦しくて、涙がパタパタと落ちた。

手すりにしがみついて顔を上げると、ゆがんだ視界に、

コンビナートの夜景が見えた。

漆黒の空を背景に、サーチライトに照らされたかのような煙突、もくもくと上がる煙、

そこかしこに散りばめられた、白くまたたくライト。

「ミッドガルみたいやな」

ミッドガルとは、「ファイナルファンタジーⅦ」に登場する都市だ。

エネルギーを供給する魔晄炉をつなぐパイプが印象的な、人工の光に照らされた街。

春の風が冷たく、涙で濡れた頬や、袖口が冷たかった。

 

その日、どうやってその衝動から脱したのか。

覚えてはいるけれど、つまらない話だ。

わたしはただ叫びながら手すりから手を離し、なんとか窓から遠ざり、その勢いで居間に転がり込み、家族にわめき散らすことを応急処置とし、

その後は、不安定な精神をほそぼそと支えながら、希死念慮とともに生きた。

生きていることを肯定的にとらえるとしたら、わたしは、ただ運がよかっただけだ。

 

「わあ」

夫が、マンションから見えるコンビナートの夜景に目を見張る。

「あれ、あれみたいだよね、なんだっけ、ファイナルファンタジーの……」

「ミッドガル?」

「そう、ミッドガル、ミッドガルみたい!」

はじめて帰省をしたとき、夫はそう言った。

隣に立つひとが、16歳のときのわたしと同じたとえをしている。

そのひとは、わたしの配偶者だ。

そのことを不思議に思う。

当時、脳内でカタカタと回っていた映写機が映さなかった未来。

そんなふうにまとめられたらきれいなのだけど。

ほんとうにただ、不思議なだけだ。

あのころはネットもなく、ゲームについて語り合う友人もいなかった。

この風景を、「ミッドガルみたいだね」と、だれかと分かち合うことは想像の範疇外だった。

 

「あの煙突から出ているのは、煙ではなく、水蒸気で……」

父が指さす方向を、夫が見つめる。

「じゃあ、何か冷却を……?」

帰省二日目。

コンビナートが近い港湾地帯を父に案内されながら、夫は興味深げだ。

父もまんざらでもなさそうな様子で説明をつづけている。

――何もない街だと思っていたけれど、コンビナートが話題の種になるとは。

ひとしきりの解説の後、港湾関係者が利用する食堂でまぐろ丼をほおばりながら、わたしは思う。

まわりには、わたしたちのような“観光客”もちらほら。

近頃ここは、「安くてまぐろ丼が美味しい穴場スポット」として、SNSで話題なのだ。

――未来だ。

 

東京での日常に戻る。

Twitterで、ときどき、故郷の工場地帯の写真が回ってくる。

高い技術で撮影されたその姿は、キラキラしていてまばゆい。

なつかしいけれど、わたしの記憶にあるコンビナートの光は、もっとさみしい。

――当時は、「工場萌え」ということばも、まだなかったな。

そんなことを思いながら、あの寂寥とした、どうしようもなく惹きつけられる光を思い出す。

それは、あの暗い夜から遠く離れた未来を生きるわたしが抱く、もっとも強い郷愁だ。

 

コンビナートを見て育った。

いまも、コンビナートを心に、生きている。