カウンセリングは3回目にして底に到達。
わたしをぐらぐら揺らしているものが何なのかわかった。
わかったけれど、それは取り返しがつくものではなく、何かで埋め合わせができるようなものでもなかった。
なんとかそれを持てる、受け入れられる形にしましょうね、となっている。
わたしは幸運だと思う。
たしかに両親の仲は悪かったし、実家はしっちゃかめっちゃかだったけれど、親からの愛情は受けて育ったと思う。
家庭の影響で長らく精神をぐらつかせたけれど、それはそれ。
女子だからと言わず、行きたい学校に行かせてもらえた。
社会への適応はアレだったけれど、好きな仕事ができて、夫にも出会えて、穏やかな日常を送ることができている。
けれど、「この先に何があるのかな」と思う。
心の底にある、取り返しのつかない何かを見ると、悲しい気持ちになる。
いちばん怖いのは、この未来がない感じ、悲しい感じこそが、「本当の現実」だと思うようになってしまうことだ。
有名ブロガーさんが、鬱のときに見た景色を、「そっちがほんもの」と書かれていたのが印象に残っている。
そのブロガーさんの意図と合致しているかはわからないけれど。
ドーパミンが不足した状態で、理不尽に満ちた予測不能な世の中を見ると、とても生きていけないもののように見えることがある。
悲しまずに生き、安楽に、「明日はなんとかなるや」と思って眠りにつく。
それこそがまやかしのように映ることがある。
ドーパミンでコーティングされたものであっても、わたしはふつうの、泣かなくて生きている日常が「ほんもの」であると思って生きていたい。
夫や友人と笑う、楽しさを感じる。
それがまやかしやごまかしだと思いたくない。
どんな状況にあっても光を見出そうとする姿勢――は取れなくても、すくなくともそんな姿勢があることを覚えていたい。
まだわたしはだいじょうぶなので、なるべく楽しいことをするようにしている。
アイドルアニメの映画を見に行ったり、人に会ったり。
脳がしびれて止まってしまわないように。心が停滞しないように。
ブレーカーが落ちないように。
心の底にあるものを、持てるようになる。受け入れる。
それは自分にとって、いいことなんだろうか。
自責をともなう痛みをハンドリングする。
それは正しいことなんだろうか。
朝降った雨があがり、日が差してきた。
今日も日光に当たって、人に会う。
楽しいことをしよう。
なるべく、楽しいものを見よう。
そうしてまた、来週はカウンセリングに行く。