カウンセリングに通っている。
8年ぶり2回目、同じ先生にお世話になっている。
カウンセリングとは、つくづく不思議な時間だ。
守秘義務がある他人に、ひたすら話をきいてもらう。
わたしがお世話になっている先生の場合は、話が途切れたところで、適度に解釈しすぎない解釈を入れてくれる。
「いろいろ話して、無意識下にあるものを拾い、ひとつひとつ棚に入れていきましょう」とか、
「夢って無意識のいろいろがあらわれるので、それを拾っていくだけで何かを整理することになるんですよ」とか。
車輪が回るのを、そっと押してくれる感覚だ。
強い肯定も否定もされず、感想すらも挟まれないまま、ひたすらに話しつづける。
最初は何を話そう、と思う。
わたしの悩みなんて、たいしたことじゃないからなあ。話すことなんて、そんなにあるかな?
ところがどっこい、「どうしてここへ来ようと思ったか」「たいした悩みじゃないけど、やっぱり解消したくて」と口火を切り、「保護犬の申し込みをしたんですよ」*1などと近況を話すうち、芋づる式に出てくるものがある。
そのなかで、いろいろなことが浮かんでくる。
忘れていたこと。
一見、関係のないように見えること。
大きな問題だとは思っていなかったこと。
気づくこともある。
8年前にカウンセリングにかかるきっかけとなった問題は、わたしのなかで解消され、過去のものになっている。
でも、ひとつだけ――。
8年前にも話し、今に持ち越している問題がある。
過去のものになった問題と、現在進行形のものでは、生々しさがちがう。
かさぶたの横に、むき出してじゅくじゅくとしたものがある。
そのことに、ぎょっとする。
どうしてもどうしても、口に出せない内容にぶつかることもある。
抵抗、ではない。
怖いわけでもない。
恥ずかしいのとも違う。
でも、話せない。
「これを話そう」と思っているのに、どうしても口が動かない。
そんな経験ははじめてで、新鮮ですらあった。
不思議なのは、「口に出して話せない」のが、ブログには書いた内容であることだ。
たいしたことじゃない、と思っていたこと。
「ひとりで書くことと、声帯をふるわせ、物理空間で話すことの間には、大きなへだたりがあるんですよ」と先生は言う。
「中年の危機」とひとくくりにしていたものをひもとくと、思っていたよりもずっと柔らかいものが露呈する。
キャリアの不安も紐づいた問題だと思っていたけれど、いまのところ、カウンセリングルームで仕事の話をしたことはほとんどない。
大きなトラウマがあるわけではない。
でも、だからこそ、日常では気づくことができない問題、というものがたしかにある。
傷、というほど大げさなものじゃない。
皮膚がむけたままはりきらず、露出した生々しい領域。
それが揺れて震えて、心を不安定にさせる。
でも、だいじょうぶ。
わたしは自らの手で予約して、カウンセリングルームへ足を運んだのだ。
わたしには、回復力が備わっている。
痛い痛いとわめく強さを、わたしは持ち合わせている。
目下、ぐらぐらとして不便な日常のなかで、わたしはわたしの治癒力を信じている。
画像は写真ACよりお借りしました。《対談 おしゃべり カフェ - No: 4976655|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK》
*1:ちなみに問い合わせを送った先から返事が来ず、どうやら不調和に終わったようである