漫画って不思議だ。
止まっている絵の連続なのに、たしかに動きを感じる。
すばやかったり、ゆっくりだったり、インパクトのある打撃だったり。
時間だって1コマで飛んだりする。
ひうち棚さんの『急がなくてもよいことを』は、その「不思議」を強く感じる漫画だ。
『急がなくてもよいことを』は、ひうちさんが同人誌で発表した作品を集めた短編集。
収められているのは、まさに「随筆漫画」だ。
小学生のころ、はじめて子ども同士見に行った映画(しかも、市民会館!)。
姉からの便りを待ち続ける幼い妹の日々。
給食を食べるのが遅かった友達の話。
友人とふたり、地方都市を巡った何気ない旅行。
帰省時、地元の城山へ行き、母の料理を食べる。
幼い娘との散歩。
子どもたちと過ごす、夏休みの一日。
どれも、上に挙げた一文通りの内容で、「それ『だけ』」を切り取った内容となっている。
絵柄はさまざま。
小学生時代の思い出などは、主に太い線でデフォルメされた絵柄(試し読みはその画風のものが読める)。
友人との旅行はリアルな等身で、背景も写実的に。
子どもとの日々は、若干デフォルメがあるけれど、写実寄り。
タッチは違えど、どの作品にも共通しているのが、「光」の表現。
白黒のみ、シンプルな線のみで、公共施設のしんとした暗がり、小学校のロッカーの暗がり、夏の旅行時の強い日差しなどが見事に表現されている。
何気ない友達や親子のやり取りも、その陰影とともに描かれると、とたんにリアルな空気感をまとう。
友達との家庭環境の差がわからなかった幼い日の世界の狭さ。
大人になった親子のなんともいえない距離感。
帰省をしたときの、手持ち無沙汰な時間。
いずれ巣立つ子どもとの時間のいとおしさ。
そのリアルな空気感は、五感すべての情報を含んでいる。
夏の日陰、市民会館のざわめき、父や母とのぼそぼそした会話の間、実家のにおい、フェリーでかいだ海のにおい、母がつくる卵焼きの味、フェリーで食べるうどんの味と香り、子どもの手のあたたかさ。
感じたことがあるものも、ないものも、ないまぜになって想像される。
そして、自らの記憶を思い出すのだ。
市民会館は人がいる場所はざわざわしていているのに、端っこのほうは暗くて怖かったな。
歩くしか手段がなかった子どものころの目線の低さ。
派手な観光をするわけではなく、レンタサイクルでふらふらした大学時代の旅行。
海で遊んだ後のけだるさ。
『急がなくてもよいことを』を読んでいる途中、夫が言った。
「いま、急に思い出したんだけど」
なんでも、小学生のとき、家庭科の調理実習を前に、「なんとかオイルを買ってきなさい」と言われたのだという。
たぶん、オリーブオイルかサラダ油だったのだろう。
幼い夫は、油にたくさん種類があることも知らなかった。
どうしていいかわからず、下校途中に心細くなって泣き出してしまった。
そこに近所のおばさんが通りかかって声をかけてくれて……。
「なんでこんなことを思い出したんだろう。今まで、忘れていたのに」
そういえば、と私も思い出す。
小学校に入ってはじめての遠足。
持って行ったインスタントラーメン風のおやつに、「かやく入り!」と書いてあるのを見て、急に怖くなってしまった。
――かやくって、爆発するやつじゃないの?
でも、スーパーで売っているお菓子に、そんなものが入っているわけがない。
なんとなく、間違えているのは自分だという気がする。
だから、「どうしたの?」と聞いてくれた年上のお姉さんに説明することもできず、ただ、「これ、あげる」と押し付けてしまった。*1
あまりにも持っている情報が少なすぎて、世界が怖かったあのころ。
作品を読むうち、覚えているとも思わなかった記憶がよみがえったのだ。
具体的な記憶だけではない。
大人になると、限られた時間を生きていることを、まざまざと感じるものだ。
そうすると、一瞬、一瞬がいとおしく思う気持ちが強くなってくる。
幼い娘や子どもたちと過ごす日々を切り取ったお話からは、そんな感覚がまざまざと感じられる。
作品紹介にある、「忘れていたアルバムの写真を眺めるように」は、秀逸なたとえだと思う。
漫画って不思議だ。
ことに、ひうち棚さんの作品は。
白と黒だけ、線だけなのに、動き、光、時間、空気、におい、音、温度、肌ざわり、言葉にできない曖昧な感じ、感情、すべてを感じさせる。
もし、表紙や帯の絵、帯や公式サイトに書かれた惹句にピンときたら、年末年始にこそ手に取ってほしい作品集だ。
ひとりで、家族で、友人同士で。
年越しに初詣、年始の凛とした街。
「平凡で特別」な瞬間が生まれやすい年末年始のひと時ひと時が、ことにいとおしく感じられるはずだ。
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ひうち棚さんのTwitterを見ると、絵柄の多彩さがわかる。
@hiuchitana
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2022年1月9日まで、名古屋の書店、ON READINGで原画展を開催中。
2022年1月8日には、なんとひうち棚さんを呼んでのお話会も開かれるそう。
*1:「爆発するかもしれないと思っているものを、人に押し付ける卑怯で身勝手な人間である」という自意識はずっとある