フリーランスのライターになって、15年が過ぎた。
取引先に恵まれ、少なくともひとり分の食いぶちは稼いでいる。
納期に追われ、とりたてた野望もなく、ときに金銭交渉をし、自己管理に敗れることは……ない……と言いたいが、しばしば……。
キラキラしてもいないし、「稼げるフリーランス!」というわけでもない。
そんなわたしにとって、「フリーランス」という働き方のメリットは、「わかりやすさ」だ。
まず、会社組織のメリットとは、新人からベテランまでが同じ組織で働き、大きな利益を出し、それを分配することだと思う。
対して、フリーランスは一本いくらの仕事を積み重ねて収入を得る。
わたしは「給料に見合うだけの働きができている」と実感するまで、会社にいられたためしがない。
新卒で就職したさいは、丸2年働いたところで、「実績がない、抱える余裕がない」と放り出された。
給料制は終始居心地が悪かったし、自分が組織を支える歯車として機能するビジョンは皆目見えなかった。
「一本いくら」の世界は、そんなわたしにも見通しが効く。
とても居心地がいい。
会社に所属していると、税金関係の手続きをやってもらえる。
そういう意味では、会社員のほうが、仕事に集中できるといえる。
フリーランスは確定申告は自分で行う。
税理士に投げる場合は、「投げる」選択をし、報酬を用意しなければならない。
「わかりやすさ」を愛するわたしにとって、税制はあまりに複雑だ。
理解もできない。
苦痛だし、「この時間や手間を仕事につぎ込みたいよ!」と毎年思う。
ただ、税制については、自分でさわらないかぎり、まったく理解できないのも事実だ。
税金は、誰もが支払い、そして恩恵を受けるもの。
自ら作業することで、「何に課税されて、何を支払っているのか」ぐらいは理解できる(うっすらと)。
そういった意味で、税にまつわる手続きを自分でやるのは直接的で、「わかりやすい」とも言える。
とはいえ、社会保険に関しては、会社員に大きなアドバンテージがある。
厚生年金や失業保険はうらやましい。
が、わたしはそもそも「会社に守られている」「会社に所属する安定」を感じたことがない。
あきらめがつく。
フリーランスの評価は、「成果物」に対する比重が高い。
わたしの仕事はライティングなので、打ち合わせや取材以外、成果物を仕上げるときはひとり。
「仕上げ」のときの態度や服装は問われない。
その点は、「成果主義」といえる。
かといって、原稿の仕上がりは、絶対的な数値で評価できるものではない。
ぶっちゃけて言ってしまえば、わたしがやっている商業ライティングの仕事は、他に代えはきく。
名文を書く必要はない……どころか、凝った文章は邪魔になる。
「取材で情報を引き出し」「それを過不足なく、ストレスなく読者に読ませること」が最優先だ。
そのぶん、仕事も(おそらく世間で思われているよりは)多い。
依頼された仕事を大切にし、「この人と仕事がやりやすい」と思ってもらえれば、次につながっていく。
とはいえ、特別なことは必要ないと、わたしは思う。
最低限の礼儀をわきまえ、できるだけスムーズに連絡をし、といった常識的なことだけでいい。
そして、搾取的な話でなければ、できるだけ相手の力になる。
たとえば、特定の分野に強いライターを探している編集さんがいて、心当たりがあれば紹介する。
「こんな情報を探している」と聞いたら、心当たりがあれば提供する。
そのへんは、「数字だけで判断される、純粋な成果主義」とはちょっと違う。
こういう側面は、もちろん会社員にもある。
ただ、わたしにとっては、会社では、「成果以外のもの」の比重が重すぎる。日常的すぎる。複雑すぎる。
そして、フリーランスも分野によっては、成果の比重がもっと重いところもあるだろう。
いまいる場所は、「成果とそれ以外の比重」がちょうどいい。
おそらく、「組織が構成員に求めるもの」は理解できないけれど、「個人がライティングに求めているもの」はおおむね理解できるのだろう。
フリーランスの仕事でいいなと思うのは、「楽しい」「好き」を発信すると仕事が舞い込むことだ。
これに関しては、以前、エントリーを書いた。
もしその仕事が楽しかったら、仕事相手と楽しい気持ちを共有する。
ハマっていることがあったら、それとなく伝える。
すると、その分野の仕事が発生したときに、依頼してもらえる確率が上がる。
と書くと、いやらしくアピールせねばならないのか……と思うかもしれないが、無理をする必要はない。
人間はたいてい、楽しかったら顔や口に出る。
好きなことについては語りたくなる。
編集さんは好奇心旺盛な人が多いし、ネタを探している。
知らない分野の話を興味深く聞いてくれる。
そういった自然な行動が、仕事につながっていく。
組織vs (組織に所属する)個人の場合、何かを依頼するとき、「選り好みされちゃ困る」となりがちだ。
組織を円滑に回すために、当然のことだと思う。
しかし、個人vs個人の依頼で、しかも候補が何人かいるとなると、「どうせならこのジャンルが好きな人に楽しくやってほしい」「我慢させて依頼するのは悪い」となる傾向がある……ように思う。
フリーランスの「フリー」とは、「組織に属さない」ことで、それ以上でもそれ以下でもないとわたしは思う。
コワーキングスペースを借りる、またはどこかの常駐にならない限り、フリーランスに出勤はない。
寝る時間も起きる時間も、仕事時間も自分次第。
服装も(取材以外は)まったくの自由だ。
しかし、とくに「めっちゃ自由~☆」と思ったことはない。
世間でのフリーランスのイメージを見聞きすると、「時間的にも肉体的にも余裕があって、優雅な暮らし」を前提としているように感じる。
世の中には、優雅なフリーランスもいるのかもしれない。
たしかに、体調が悪いときや精神的に不安定なとき、布団の中でも仕事ができる点は、会社勤めよりもアドバンテージを感じる。
カフェで仕事ができるより、「閉じたいときに、閉じたまま仕事ができる」ことは何よりすばらしい(個人的には)。
が、会社勤めもフリーランスもしょせん、「働き方の一種」。
働くことは、ある種の泥臭さをともなうのだと思う。
たとえば……。
わたしが考える、「フリーランスにもっとも必要なもの」。
それは、ブランディングでも価値創出でもない。
「目の前の仕事を、納期内に、できる限りのクオリティでこなす」こと。*1
組織に所属せず働く以上、ギャランティ交渉も行うし、トラブル察知能力もある程度必要だ。
一方で、「優雅」「余裕がある」は、「生き方の一種」。
フリーランスで優雅に見える人は、会社勤めをしていても優雅に見えるんじゃないか。
わたしはフリーランスという働き方の「わかりやすさ」が好きだ。
そのシンプルさを直接的過ぎると感じるか、生きやすいと感じるかはひとそれぞれ。
それだけの話なのだけど、どうしても「フリーランス」というと、キラキラした文脈に回収されがちだ。
フリーランス系の情報発信には、「イメージはわかった。でも、何をどうやって稼いでいるのかぜんぜん見えない」と感じるものも多い。
実態は理解されないまま、イメージだけで語られる状態は、ある意味で危険なことだ。
100人いれば、100通りの「フリーな働き方」がある。
わたしの話は、あくまでわたしのケースにすぎない。
キラキラしたフリーランスも、絶対に布団の中では仕事をしないフリーランスも、ゆるく組織を作っているフリーランスも存在する。
それでも、イメージだけではない、「フリーランス」という働き方の、生の一例を発信できれば。
そう思い、このエントリーを記す。
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